南海道新幹線
投稿日に特に意味はない
1970年頃
四国各県は、国への大陳情がようやく通った
本州四国連絡橋構想に国が腰を上げたためであった
香川県知事と徳島県知事、愛媛を除く四国各県、兵庫県、大阪都、山陽地方各県の出身議員からなる
尾道今治道路橋
瀬戸鉄道道路併用橋
淡路高速鉄道道路併用橋
が通った
だが、条件として、建設費用は線路敷設費用部分を除き各県負担となった
つまり、国鉄が線路を引く以外の予算は国が予算を出さないという事だった
この頃、オイルショックで石油危機になり、蝦夷人民共和国から石油を買うという
敵に塩を送ると言う昔の言葉が話題になった
その後も蝦夷人民共和国との対立もあり
国が予算提供することは殆どなかった
70年代後半に起きた 成田空港事件やソ連のアフガニスタン侵攻(psソ連空軍エリート中尉亡命は失敗)で
予算は東北への軍事防衛予算や空母建造や購入費用に当てられた
そして、苦労の末
1987年4月に
岡山県児島と香川県坂出を結ぶ
在来線と高速道路併用橋 瀬戸大橋が開通した
建設には多額の資金を各自治体や民間企業が提供した末に完成
漁業被害を押さえるための爆破実験では、小規模発破を連続して行い
橋を支えるケーソンの土台を整えた
そして、次に明石淡路海峡大橋計画が決まった
徳島県知事が大阪都知事、兵庫県知事と共に橋の建設予算のために、スイスフラン国債などを86年まで保有(プラザ合意翌年に売って、円が安定してきた頃に再購入)
それで予算を確保し、建設が進められた
・・・・・・・だが
1989年5月10日早朝
・・・・・・・大阪湾を震源とする直下型地震発生
都市機能が麻痺し
大混乱になった
周辺諸国も災害救援部隊の派遣を打診
分断国家で共産主義陣営である蝦夷人民共和国も救援部隊派遣準備があると日本政府に打診
日本政府も平和統一への希望の一手と見て 受領
蝦夷人民共和国、アメリカ合衆国、中華民国、フィリピン、高麗民国が救援部隊を出し
復興支援や治安維持に当たった(ps高麗民国軍は支援に当たっていたが治安悪化等の問題を起こしたため蒼々と撤退)
これにより、大阪都、兵庫県は復興予算で財政難に陥りかけてしまい
明石海峡大橋計画は、破綻危機に陥った
だが、政府の予測で、震災による四国への新幹線計画が国が建設費を負担しなかったせいで頓挫したら
四国(主に徳島、高知)での選挙で与党敗北に繋がりかねないとして、負担を決定
震災翌月の6月8日に建設費用負担を正式発表
1994年に
新大阪ー徳島間が開通し
本州四国九州に新幹線が乗り入れられた
新幹線の名前には四国新幹線、南海道新幹線、徳島新幹線が挙がったが
南海道新幹線と正式命名された
その後も延伸工事が行われ、2004年には高知県否、南海道高知管区まで延伸した
それにより、高知の祭りが全国にアレンジ波及されていき
夏には、南海道新幹線で行こう 徳島高知踊り
というイベントで増便も行われた
その一方、災害や北海道への新規路線への開発のため、香川や愛媛には延伸の話は来ず
愛媛に限って言えば、地元私鉄のおかげで町が維持できている状態で、破綻したら、愛媛の破綻危機と言われた
終わり