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4 彼女が教えてくれたこと

4 彼女が教えてくれたこと


 キミがこの手紙を読んでいる頃、きっとあたしは死んでいるだろう。

 なんて、気取った書き出しを許してほしい。一回やってみたかったんだよね。

 この手紙は、キミに必要になったとき、ちゃんと届くようにしておくよ。だから、いまこの手紙を読んでいるキミは、きっと向き合うときが来たんだろう。

 そこにあたしはいないのだろうけれど。

 だからこそ、こうして仕掛けておいたのだけれどね。

 驚いたならざまあみろ。

 キミの向き合うものは、誰だってそうだけれど、痛みを伴うから。

 それでも向き合うのなら、あたしの軽口も多少役には立つでしょう?


 キミが奪われてしまったものと、キミが失ってしまったもの。

 そして、キミの捨てたもの。


 キミは奪われただけじゃない。捨てたものもあった。

 捨てなきゃよかったのになんて言わない。

 生きるために何かを失うことなんて、だってそれが生きてるってことでしょう?


 いまあたしの手紙を読んでいるキミは、あたしをどう思っている?

 恨んでいる? 嫌っている?

 忘れていた?

 何でもいいよ、忘れてたっていいのさ。

 キミがあの場所から離れることができたのなら、あたしは忘れられたって構わない。

 キミが生きることを選んでくれたのなら、恨まれたってわらってられるさ。

 それでも、あたしのキミへの思いは変わらないのだから。


 ねえ、キミとあたしが出会った、あの夏の夜明けを憶えている?


 どんないきさつがあったのか、あたしは知らないし、知ろうとも思わなかった。だからあたしが見たままを綴ろうと思う。

 夏の真夜中過ぎ、研究にキリがついてうたたねしていたあたしはとんでもない大きな音と、窓の外を通っていく強い光に目を覚ました。地面が揺れて、家も揺れた。星が落ちてきたのかと思ったよ。

 星でも違うものでも、火事になって森が燃えたら大変だと、あたしは世が明け始めた森を早足で歩いていった。


 そうしたら、キミがいたんだ。

 キミは、左胸を小型ミサイルで貫かれていたんだよ。


 まるで、キミは迷子の流れ星みたいだった。

 あたしはそのまま、道具を取りに戻って、そこでキミを生かすためにいまの姿にした。

 生かしたことを恨まれても構わない。

 あたしは後悔しない。

 また同じ場面に出会ったら、キミがやめろといってもあたしはまた助ける。

 

 魔法で出来ることは魔法でなくても出来る。

 その反対だって同じことさとあたしが言ったとき、キミは「それなら同じだ」そんなふうに言った。

 魔法でなくとも出来ることは、魔法でも出来る。

 確かにそれならホウキで飛ぼうが飛行機やヘリコプターでも空は飛べる。

 魔法で一瞬のうちにご馳走を出せなくても、材料を切って調理すればごはんも出来る。

 人々を笑顔にすること、希望を持ってもらうことも同じだ。

 じゃあ何が違うのか、もうキミは知っているかな?


 何をするのかも、どうやってやるのかも、どうでもいいのさ。

 何をどうやって、キミがするのか。

 大切なのはそこだけだ。

 魔法でも科学でもイカサマでもなんでもいい、キミにしかできないやり方で思うようにやればいい。


 あたしは知ってる。

 キミが世界で一番優しい男の子であることを。

 キミにしかできないことは、きっと優しい希望を人々の心に届ける。


 キミにしかできないことがあるのさ。


 キミは、誰より優しい子。あたしの自慢の息子だよ。

 なんて、母親気取りも許してほしい。

 騙されたと思って、その心臓が止まるくらいまでは、生きていてごらん。

 誰かがキミを、待ってる。

 キミも、誰かを待ってるから。


 あたしがキミを待っていたようにね。

 愛してる。

 だーいすきだよ、エソラ。


 ★


 ――あ、気がついた?

 大丈夫、じゃあないよね。でも気がついてよかった。

 

 初めて見たアリスの顔は、ほっとしたような焦ったような、ごちゃまぜの表情だった。

「ごめんね。でも、これが精一杯だったのさ」

 言われるがままに自分の身体を見て驚きに声を失った。左胸に埋め込まれたハート型の何か、肘から下が切り落とされた左腕。全身タイツのように身体をぴったりと包む藍色の見たこともないような服。

 そのときは名前のなかったエソラに、彼女はすまなさそうにわらった。

 頭から爪先まで泥やら灰にまみれて、白いはずの白衣も煤だらけ。ぼさぼさの髪のかかる顔は頬も鼻先も黒く汚れていた。

「でも、よかった」

 ずり下がった眼鏡を上げて、子供みたいにわらった。

 それが、エソラが初めて見た彼女の笑顔。

 ごちゃまぜなのに、やたらとまっすぐの笑顔。


「キミ、心臓を奪われてしまったの」


 アリスは若き天才科学者だった。

 アリスは魔法と科学の両方を研究していた。

 空想と現実の境目を持たない魔術師であり、科学者。

 何でもありの天才ぶりを羨み妬み、――魔法使いのアリス、と呼ばれていた。

 誰も来ない山深くのそのまた森の深くにたったひとりで暮らしていた。

 途中からは意図的にひとりで暮らしていた。

 エソラと、出会うまでは。

 そのときの彼女は心臓を失くした少年を、心臓なしでどうにか生かせてしまえるほどに天才になっていた。

「よし、じゃあキミはエソラね」

 アリスと名乗った彼女は名前なんてないと答えた少年の赤い髪の頭をぐりぐりと撫でてわらった。


 生きていたくなんかなかった! と手負いの獣のように暴れるエソラの面倒を根気よくみて、怒りが悲しみに変わっても、泣いて暴れても、口をきかなくても、離れようとしなかった。投げ出そうとしなかった。

 ご飯を一緒に食べて、お風呂に突っ込まれて、おやつを一緒に作った。

「あれ、それつけちゃったの?!」

「……置いてあったから」

 格好いいなとつけてみた金色の銃は、選ばれたものにしか抜けない「勇者の剣」をモチーフに、おとぎ話の好きな彼女が趣味で作ったものだった。使い手を選ぶ銃はでたらめな弾丸を撃ちだすことができる代わりに、付けたら取れない。

「でもエソラにはちょうどいいか、心臓と左手は繋がってるっていうしさ」

 でたらめピストルって言うんだよ。

「願いを撃ち出す銃さ、きっとキミの力になるよ」

 キミが世界を救うって、あたしは知ってる。

 そう、頭を撫でてくれた。

 優しい時間を知った。あっという間に終わることも、知った。

 ――だから、忘れないで。

 頬に触れていた手がぱたりと落ちて、微笑んだまま、命がひとつ消えた。

 エソラの胸に埋め込まれた心臓を撫でてベッドに落ちた手は、二度と動くことはなかった。


 巨大な宝石が夜空に浮かんだのは、それから間もなくのことだった。

 大きな水晶玉のように凍りついた月。

 世界は終わるのか、とエソラはどこか他人事のように、途切れていくテレビやラジオを眺めていた。


「心臓が無いなら、心も無いのかな」

 呟いたエソラのそばで、床や壁が透き通り始めた。

 アリスは自分の死後、作ったものが悪用されることのないように施設ごと消滅するように仕掛けを施していた。

「泣けないなら……俺も、消えればいいのかな」

 自嘲気味に口の端を上げて、エソラはぼうっと銃をこめかみにあてた。

 ――忘れないで。あたしが幸せだったこと。

 アリスはそう言ったけれど、世界が終わるなら俺が生きてる意味なんて無い。

 アリスがいないなら、俺がいたせいで死んだなら、生きていていいはずない。

 死んでしまいたい。

 消えてしまいたい。

 左手の銃の炎が淡いブルーから闇のような黒色に変わる。

 口の端を上げたエソラは、歪んだ顔から一切の表情を消して呟いた。

「……Random shooter」

 ――俺を、殺して。


 引き金を引いて倒れた身体は、エソラの願いに反して消えることも死ぬこともなく数百年眠り続けた。

 目を覚ましたエソラは、自分はアリスの作ったアンドロイドだと思い込んでいた。


 ★


 間に合ってくれ。

 息が切れてもいい。

 何だっていい。

 エソラは手紙を読み終えると同時に元来た道を駆け出した。


 ヒメたちと別れたエソラは行くあてもなく、博士のラボのあったところへ戻ろうかと思っていた。

 このまま心臓がなくたって、死んだって、別にいいかとも思っていた。

 半分ほど道のりを過ぎた頃、左手の銃の炎が揺らめいて、膨れ上がった。

 何が起こったと驚いているうちに、炎の中から一通の手紙が現れた。

 博士からの手紙だった。

 エソラは自分のことを、失ったものを、捨ててしまったことを思い出した。

 思い出して、ぐちゃぐちゃの頭のままで駆け出した。

 もう一度、ヒメに会いたい。

 失いたくない。

 死なないでくれ、と願った。


 出会った、その少女の立ち姿は、月明かりに照らされた花のようだった。

 手を差し伸べてくれたヒメは、どこかアリスに似ていた。

 だから、重ねてしまったのだ。

『エソラだってハートがないと困るでしょう?』

 希望なんて紛い物だと思っていたかった。

 エソラは諦めていたかったのだ。

 アリスを殺した世界に、希望が、光が、夢が、存在しているなんて許せない。

 アリスと同じ光なんて、見ていたくない。

 もう夢を見せないでくれ。

 もう希望なんて見せないでくれ。

 もう光なんて、見たくない。

「お前なんか偽物だろ。」

 たった一人きりでも、信じたものをひたむきに信じる傷だらけの笑顔。

 失った彼女にそっくりな、ヒメの姿。

「きらいだ、そのかお」

 吐き捨てるように言葉を投げつける。

『他の誰も知らなくても、信じなくても、あたしは知ってる。』

『だから、それでいいのさ』

 アリスはいつもそう言ってわらっていたけれど。

 エソラは、彼女に一人になってほしくなかった。

 一人で平気な顔もしてほしくなかった。

 救えなかった苛立ちは、彼女にそっくりなヒメへと向かった。

 駆け出した後ろ姿に手を伸ばしかけて、引っ込めた。

 ――おかしいな、助けたかったはずなのに。


「エソラ。確かに一方的に虐げられるというのはまったくツイてないです。――でも、不運であっても不幸ではないです」 

 いつだったか、ヒメは言った。優しい眼差しは時々難解なことを告げる。

 そう、そういうところもヒメはアリスと似ていた。

「不運だけど、不幸じゃない?」

「ですよ、ツイてないことと幸せじゃないことは違いますから」

「……?」

 首をかしげるエソラに、ヒメはゆっくりと言葉を紡いでいく。

「ヒメは、いじめも理不尽も痛みも、それなりに現代っ子の嗜みとして経験しています。それは確かに知りたくて知ったことじゃないです。だけど、知らないよりはきっと知っておいたほうがいいことです。」

 それだけは確実に言えます。

 知らないより知っておいたほうがいいとヒメは言った。

「傷も痛みも、知っておいて損はないです。癒えない傷はない、なんて言いません。でも、痛いのは知ってたほうがいいです」

「なんで?」

「誰かが痛いときに、そばに居たいからです」

 大切なひとが辛いとき、悲しいとき、隣にいたいからです。

「……なんで?」

 エソラは眉を寄せた。

 隣にいて、何が変わるのか。

 何かが変わるのか。

「その傷や痛みを、完璧にはわかりません。分かろうとすることはできます。それが、精一杯です。だとすればそのとき参考にするのは、辛かったり痛かった、自分の記憶です。足りなくても、痛かったときにどうして欲しかったか、何を願ったか、――見当外れでも、てんで話にならなくても、突き放されても、ヒメは一人にしたくないです」

 だから、とわらう。

「ツイてなかったそんなこんなを、ヒメは大切なひとを大切にすることに使えるです。だから、不幸なんかじゃないです。大切にしたいひとがいるのは、幸せです」

 対して変わりませんけれどね、とヒメがこぼした。

「変わらないの?」

「ええ、幸福と不幸は決して対義語ではないです」

 表裏一体の、片方が欠けたら成り立たなくなる存在です。

「コインみたいなもの?」

 そうです、とヒメはころころと頷いた。

 エソラにはやっぱりよく分からなかったけれど。

「幸福しか知らなければ、それが幸福だとはわかりません。分かるのは失ってからです」

「不幸しか知らなければ、それが不幸だとはわかりません。分かるのは知ったときです」

「そして、幸福も不幸も自分で決めていいものです。これも、こんなご時世の現代っ子としては知っておかなければならないことです。なのに、誰もが誰かを羨んでばかりです」

 自分だって羨ましがられているのに贅沢なことです。

 自分が嫌いだってのも、往々にしてよくある話ですけれど。

「でもまあ、いくら端から見て恵まれているからといって幸せとは限りません。その反対も同じことです。いくら可哀相で哀れにしか見えなくっても、当の本人は自分に満足して満ち足りた幸福を味わっているのかもれません。たとえそこがどんな場所であれ、境遇であれ、幸せだと決める権利は誰にでもあるです。――言ってはいけないなら、黙って心の中で思っておけばいいです。」

「それが、したたか?」

「そんなとこです」

 へえ、と頷いたエソラは、ヒメが囁くようにこぼした言葉に首をかしげた。

 ヒメは聞こえているとは思わなかったらしく、そのまま会話は終わってしまったけれど、

「……いくら本人が幸せだと言ったって、違う場合もありますけれどね。」

 その意味を、聞けなかった。

 エソラは「次」なんてもうないかもしれないと知っていたはずなのに。

 聞きたい。

 あの敬語の、すらすらと話す言葉を。

 おはようございます、と髪を梳かしてくれる朝が恋しい。

 ヒメに会いたい。

 ――ヒメを失いたくない。

 

 ★


 たどり着いたツクヨミ街は相変わらず黒い霧に覆われていて、月がない。

 基本的に挑戦者がいるうちは魔宮、迷宮ともに中には入れない。

 エソラは無理矢理入れば何が起こるかわからないと言われている黒い霧の中へ躊躇なく飛び込む。

 びりびりと衝撃が走る。それでも、死なないことを知っていた。

 着地したのが魔宮のどこかは分からない。ただ耳を澄ませて、気配を探って駆けた。

『うっさいです!!』

「!」

 ヒメの声を頼りに思い切り走った。

『人の為は、偽物で、人の夢は、儚くて――だったら、だったらなんだって言うんですか!! そんなもんにこだわってんのは、こだわれんのはド三流です!』

 見つけた姿に血の気が引いて、このほうが早いと王子を引っつかんで放り投げる。

「……俺は、エソラ」

 真っ直ぐに空を見据えて、エソラは左手の銃を構える。

 淡いブルーの炎が大きく燃え上がり、心臓と同じ色に変わる。鼓動がなくても、生きている。

 いまならできる。

 力が左手の銃に満ちていく。

 明日を願う力。

 過ごした時間。お揃いの記憶。

 すべてがいま、エソラの力になる。

「俺は明日も生きる。みんなと生きる――世界は終わってなんかいないんだ!!」

 エソラは銃を夜空に向けた。

 真っ暗闇の、魔宮の壁面へ――本来なら月のある方角へ。

「Random shooter」

 右手も添えて、真上に構えた銃の引き金を引く。


「Bullet of shooting star《流星弾》!!」


 撃ち放たれた弾丸は、ほうき星のように光の尾を引きながら夜空を上っていく。

 ヒメとロードを抱えて穴から抜け出したエソラは、安全な場所に二人を降ろす。

「ヒメの言う通りだ。ごめん」

「エソラ……?」

 呆然としているヒメに、エソラは頭を下げた。

「ヒメは偽物なんかじゃないよ。言い過ぎた。ごめん」


 カラカラと鳴り止むことのなかった糸車の音が止まる。

 錠の開く音が響いた。


 ★


『ああ、まだ生きていたいなあ』


 彼女は死の間際にそう言って、わらった。

『この世界に、未練を持てるなんて思わなかった』

 そう言って、彼女は最後に泣きわらいながら頬に触れた。

『まだ、キミと居たい。キミがどんな大人になるのか、どんなひとを好きになるのか、見ていたい。……キミは、必ず愛されるから。だって、あたしはこんなにもキミを愛してる。すごくすごく大好きで、ほんとうに大切。だから、キミが愛されることはもう知ってるの。』

 大好きな笑顔で、わらってくれた。

『キミが愛されることも、愛せることも、あたしは知ってる』

 くすくすとわらって、苦しそうに咳き込むと、荒い呼吸のまま涙をこぼした。

『すき。すきよ。だあいすき。――だから、思うままに生きて。』

 銃声の残響に、アリスの声が蘇る。

 ――あんただったら自分の命を延ばすくらい簡単だろ?!

 なんでだよと彼女にすがりつくエソラに彼女はふわりとわらった。

『でも、そしたらキミを離してあげられなくなる。あたしはちゃんとキミを離してあげたいの。……でないとキミが、出会えないでしょ?』

『いない、あんたしかいない! あんたがいなくなったら俺には誰もいなくなる!』

『そんなこと、あるわけない。あたしは知ってる。キミを待ってる誰かがいること。』

 思い出さなくてもいい。

 忘れてもいい。 

『なんでそんなこというんだよ?!』

 涙でぐしゃぐしゃの頬にそっと手を伸ばして「優しいね」とわらった。

『言ったでしょ、あたしにとって心のなかにいるなら、それは現実と変わらないって。だから、あたしはずっとキミと一緒。消えたりしない、いなくなったりなんて、もう出来ないのさ――キミとあたしは、もう出会っちゃったんだから。』


 ざまあみろ。もうキミはひとりになんて、なれないのさ。


 アリスはいたずらが成功した子供のように、あの笑顔でわらった。

『だから、ひとりになろうとしないで。』

 忘れていた、彼女の願い。

『だいすき』

 まだ耳に残る、アリスの言葉。

『すき。』

 こんなにも身体中に残る、アリスの気持ち。

『すき』

 いまのエソラを作っている、アリスの愛情。


「……出会えたよ」

 見てる?

 どこかで聞いてる?

 俺にも守りたい大切が、俺を守ってくれる大切が出来た。

 明日を、願えるようになった。

 明日を生きていたいと、ヒメとロードとなら思えるんだ。

「……あんたも、愛されてたよ」

 あんたの兄さんは、泣いていたよ。


「ありがとう、母さん」


 ぐんぐんと夜空を翔けていく青白い光から目を離さずに、エソラが何か呟いた。

「先輩、ヒメ連れて、車かどっかに隠れてて」

「どうして――それにいまの音、攻略したってことですか?」

「いいから、早く」

「エソラは?」

「いいから!」

 だってエソラが、と渋るヒメをロードが担ぐ。

「車でいいんすか?」

「うん、あの車なら大丈夫」

 あの車、つまり防弾、防刃、耐熱、耐寒などなどとんでもなく頑丈な造りをしているヒメの愛車だ。

 消え行く魔宮の黒い霧を、ロードがヒメを抱えて駆け抜ける。

 突如轟音が響き渡る。

 空が落ちてきたような音と地響き。

 ガラスが割れるような音と共に、夜空が剥がれ落ちていく。

 ぐらりと揺れる地上に、流れ星が雨あられと降り注ぐ。

 金銀に光る、財宝の流星が降り注ぐ。 


「……嘘」

 音も揺れも収まって、再び訪れた夜独特の静けさの中、ロードと並んで夜空を見上げたヒメは目を見開いた。

 思わずこぼれたヒメの声に、エソラがそっとわらう。

「嘘じゃないよ」

 エソラが手招きすると、恐る恐る車から出てきたヒメがふらふらと夜空を見上げる。

 巨大な魔宮は、もう消えていた。

 代わりに現れたのは深い緑の森、小さく見える家々と商店街。

 美しいステンドグラスの教会が、ずっとそこに在ったかのように建っている。


 その後ろには、月が夜空に輝いていた。


 以前の大きさよりも、程よい大きさになった月。

 ひび割れて、ダイヤモンドのようにきらきらと輝きを増した月が輝いている。

「さすがに凍ったとこまでは戻せなかった」

「え、でも、でも月はどうして戻ってきたの?」

「なくなってなんかなかった。見えなくなってただけだよ」

「え? どういう――ええ?!」

 素っ頓狂な声を上げるヒメにエソラは不器用にわらった。

「探してたのは、これ?」

「これ、ウォーロックの宝ですか?」

 落ちた流れ星は、金銀財宝に姿を変える。

 現れた懐かしいレンガ造りの道路を、広場を、金貨が埋め尽くして銀色の月にきらきらと輝いている。宝箱からは札束が溢れて夜風に舞い上がっている。

「おー、夢にあふれた景色っすね」

 ロードが車の上に陣取って夜空を見上げている。

 ヒメの車はボンネットまで金貨や札束に埋もれていた。

「ウォーロックの宝……でも、どこに?」

 はっきりと姿を現したまん丸の月を見つめたまま、ヒメが問う。

「壁の間だよ。糸車の部屋は、魔宮の壁の間にあったんだ。部屋が空を遮って、月を見えなくしてた」

「そんな……どうして、わかったんです?」

 宝が見つかったことは、エソラたちしかいないツクヨミ街ではこの三人しか知らない。慌てて宝をかき集めるより、ヒメは先にエソラに説明をしてもらうつもりらしい。

「機械的に言えば――言わなくても、俺は人間だったんだ」

 エソラはゆっくりと言葉を紡いだ。

「ほうきの代わりにほうき星……ウォーロックは、俺だったんだ」

 俺と、俺の命の恩人と二人で「ウォーロック」だったんだよ。

 ウォーロックの鍵も、その存在も、この魔宮も、迷宮も。

「『魔法使いのアリス』――そう呼ばれた、博士の発明品だったんだ」

 エソラは言いづらそうに口を開いた。

「落下傘って知ってる?」

「パラシュート、ですよね」

 そう、とエソラは頷いた。

「元々、ウォーロックの宝は落下傘の要領でばらまかれたんだ。落下傘の重りが宝で、傘の部分が地上に落ちると迷宮の外壁になるようになってた。トラップしかないのは、落下傘の内側に仕込んだのが魔法陣だけだったから。あまりに難易度が高いと誰も宝にたどり着けないから。それじゃウォーロックとしては本末転倒だから」

 エソラに残された地図。

 託された、空への弾丸。

 気付いたことは、もうひとつあった。

「いくつかの宝は、ばらまかれてどこかに着地した時点で微弱な異常が発生してたのが分かってた。だから博士は俺に地図を残していった。たぶんこれくらいになれば、異常が手に負えないレベルになることも、分かってたから」

「そんな、未来予知みたいなことができるひとでも失敗するんですね」

「いや……だぶん、」

 エソラはアリスに地図を渡されたときのことを思い出していた。

 ――これが、異常が発生するであろう場所の地図。キミの心臓のスペアも紛れ込んでるから、暇だったら行っておいで。

「俺、まだ謝ることがある」

「唐突に何です?」

「たぶん、わざと」

「は?」

「博士、わざと異常が発生するように仕組んでた」

 いまならエソラにはわかった。

 一人になったエソラが、自発的にどこかへ行こうなんて思わないことくらい、きっとアリスは分かってた。

 だから理由を作った。

 いつもアリスが言っていたことだった。――無いなら作ればいいさ。

 たったひとり、エソラのために、街一つ、国一つだって飲み込むような異常を仕組んだ。

 見過ごせないエソラが動かざるを得ないことを知った上で、しれっとした顔で理由を作った。

 愛されていたんだと分かる。

 でも、巻き添えをくらったヒメは散々でしかないだろう。

 怖いと、エソラは思った。

 もし許されなかったら――自分の前からいなくなってしまったら。

「なめられたものですね」

 エソラが視線を戻すと、余裕綽々の微笑みでヒメが腕を組んでいた。

「母親が子供を愛していたことで、ヒメが怒る理由がどこにあります? 多少の親ばかであることは否めませんが、だからどうしたっていうんです。エソラが直してくれたじゃないですか。だから、チャラですよ」

 懐の深さも現代っ子として当然の嗜みです。

 ヒメはふっとまなじりを緩めてエソラに微笑んだ。

「親ばかですけれど――エソラのお母さんは素敵なひとですね」

「おかあ、さん……?」

「母親でしょう? 現代っ子は血の繋がりなんてそこまで重視しません」

 ああでも、エソラのお父さんもお母さんも兄弟も、ぜんぶだったのかもしれませんね。

 ヒメがそう、わらうから。

 エソラただ、「ありがとう」と言うのがやっとだった。

 ――でも、まだ終わりじゃない。

「先輩」

「あ?」

「アリスは、兵器を作ろうとしたんじゃない」

 唇を噛んで、切り出した。

 ロードがSAであることは、手紙を読んで気がついた。

 SAに使われたプログラムはアリスの作ったもので、エソラも憶えていた。

 動物に人工知能を埋め込むのではなく、元々は動物と人間の意思疎通のために作られたものだった。

「殺処分されていく動物たちと意思の疎通が出来たら、言葉を交わせたら。ペットとしてだけじゃなくて、仕事とかでもいいから居場所が出来ないかって思ったんだ。そして、もしも動物と人間である自分を対等に見られる人間がいるのなら、共存できないかってアリスは思ったんだ」

 依頼主は共存を望んだ人物だった。

 失われていく命に心を痛め、どうにかできないかとアリスを訪ねてきた。

 話し合いを重ねて、動物に人間に合わせてもらおうと方針が決まった。動物に人間の言葉を理解してもらい、話してもらう。そうして意思の疎通を計り、小さな集落でもいい、多国籍、多民族が一つところに暮らすように、他種族も隣人として暮らせないかと考えた。

 賛同する声は多くはなくても、梨のつぶてではなかった。人里離れた田舎に村を構えようという動きも始まっていた。人がいなくなった古い村を補修して、暮らしていこうと。

 けれど、アリスが死んで、戦争が始まってすべて狂い始めた。

 アリスは自分の作ったものは死後すべて破壊したけれど、もう人の手に渡ったものはどうしようもない。アリスの信じた人間にしかそもそも渡しはしないのだから。

 国から脅されようとも頑として譲らなかった依頼主は殺され、プログラムは取り上げられた。

 そうして動物たちには居場所の代わりに殺しの技術と殺しの道具が与えられた。

「言葉が通じれば心も分かり合えるなんて思ってなかった。そんなの人間だって同じ。心が通じ合うことなんて出来やしない――ただ、アリスは優しい世界を作りたかっただけなんだ。そこだけは、信じてほしい」

 エソラはヒメの隣で月を見上げた。

「世界がおかしくなって、四季の失われた。そもそも四季があるのは、地球の自転軸がまっすぐじゃなくて23.4度曲がっていて、太陽の当たり方がそれで変わるからなんだ。科学の発展と、資源の枯渇も、違うわけじゃないけど、気候がおかしくなっていたのは、それだけじゃない。少しずつ自転軸がずれていたんだ。そして公転軸もゆがんでいった。――月がぶつかるんじゃない、地球がずれていたから月とぶつかるところだったんだよ」

「でも、それはもう避けられないんじゃ、なかったんです?」

 それに、ならなんで月が水晶に覆われたんです? 首をかしげるヒメにエソラが月を仰ぐ。

「アリスは、軌道がずれた月に細工を施していたんだよ」

 ずれていく軌道によって、地球に衝突しようとしている月をすっぽりと水晶で覆うことで軌道をずらした。

 ただひとりの家族のため――心臓を失って倒れていた、ぼろぼろの少年の生きる世界が、生きていく明日が、無くならないように。

「俺が撃ったのは、俺の心が生み出した弾丸だ。今回のほど大きな弾丸は撃ったことなかったけど」

「左手の銃は、心を撃ち出すんですか?」

「心より、願いかな」

「じゃあ、花束は?」

「……慌てたのと、誤魔化したいのと、色々」

「何ですかそれ」

 くすくすわらっていると、こほんと咳払いをしたロードの声がヒメの後ろから聞こえてきた。

「月にまで届くほどの強い弾丸を撃てば、反動もとんでもないっす。お前は弾丸で月と地球の位置を元の距離に戻して、その反動を利用して自転軸のズレを戻した。……違うっすか?」

「正解。さすが先輩」

「いくら半分機械とはいえ、とんだ無茶をしたものっすね」

 ――まあその根性に免じて、許してやらんでもないっすよ。

「素直に謝ったからって、お嬢も言ってたっすからね」


 宝の流星群がひとしきり降り注ぐと、エソラとヒメとロードは宝を拾い集め始めた。

 金銀財宝は山のように、金貨銀貨も山のように、札束も山のよう、その中に小さな宝箱が埋もれていた。

 ヒメとロードが見守るなか、エソラは小さな箱に、腰に下げている三つの金の鍵、ウォーロックの鍵のひとつを差し込んで、回した。

 錠の開く音がして、箱が開く。

 エソラの左胸のハートをそのまま小さくしたものが入っていた。

「綺麗ですね……それ、何ですか?」

「……魂を別の身体に移し替えていくなら不死は不可能じゃないって、先輩も言ったよね」

「そっすね」

 話を逸らしたエソラを急かすことなくロードが頷いた。

「心臓を失っていた俺を生かすために、左腕を切り離した博士は、俺の魂も切り離したんだ。身体と別の場所に移したんだって。そうすれば死なないからって。魔法の領分だけど、それしか方法がなかった。――これが、その欠片」

「エソラの、魂の欠片ですか?」

「機械的に――言わなくても、そうだよ」

「どうするんすか、それ」

「さあ」

「さあ?!」

 ヒメが素っ頓狂な声を上げ、ロードが呆れたようにため息をつく。

「俺にしか意味がないことはわかるんだけど、どうすればいいのかな……」

「……お嬢、オイラたちは先に宝を片しましょう」

「そうですね、後から考えたほうが良さそうです」

 ヒメは札束を数える作業に戻り、取り分の計算をしている。

 ロードは宝を集め終えるとヒメの隣に腰掛ける。

 降り注ぐ流星群によって動けなかった電子コウモリたちが羽ばたき始める。

 エソラは手の中のハートを見ていた。 

 アリスがくれた、エソラの生きていく理由。

 いまは、きっかけだ。

 もうエソラに、死なないための理由なんていらない。

 ヒメとロードと出会って、傷ついた心の強さに触れて、優しさをもらって、空っぽだったはずのエソラのハートには、いまでは何かが満ちている気がしたから。それが何かはわからないけれど、きっと心に近いものだとエソラは思った。

 夜空に輝く、ひび割れてダイヤモンドのように輝く月。

 現れた教会に、素朴で親しみやすい町並み。

 ヒメの生まれ育った場所。

 自分を撃って、このときに目を覚ました理由がここに来るためだったならいいとエソラは思った。

 ――きっと、そのためだった。

 いまなら言える。

 きっとあのとき自分を撃つことなくいられたとしても、こんな気持ちを知ることはできなかったと思うから。

 エソラはハートを手に、幸せな景色に目を細めた。

 ヒメとロード以外にはきっとわからない、ささやかな笑顔を浮かべて。


「喰ってみたらどうっすか?」

「あー、一理あるかもですね」

「美味しいの?」

「知るかっす」

 あれから、左胸に押し当てても、いっそ手で潰そうとしても何も反応を示さない「ハート」に、三人であれこれ考えたもののどれも何も起こらない。

 半信半疑で口に含んでみると、するりと溶けた。

「?!」

「あ、正解っすかね」

 反射的に飲み込んだ喉を伝い、左胸に淡いが灯って消えた。

「どうですか、エソラ……エソラ?」

 ヒメの声が遠くなる。

 視界の端に、緑色の目の電子コウモリが映る。

 ――ひとでなしだな、ひとじゃないからか?

 流れ込んできた記憶は、あの日の記憶。

 アリスが死んだ日の記憶。

『泣きもしないんだな』

 オズはアリスの兄だ。しばしばこの家を訪れては、一緒に暮らそうとアリスを説得しようとし、その度に断られていた。やって来るたびにエソラは隠れていた。アリスにそうしなさいと言われていたのもあったから、彼女も気づいていたのだろう。単なる焼きもちだとアリスはわらったけれど、違うことは分かりきっていた。でも、アリスの気休めが嬉しかった。嘘でも嬉しかった。

 そんな彼女は、もういない。

『お前が殺したんだ。』


 違う、違う。

 俺だって生きていて欲しかった。

 なのに、どうして泣けなかった?


「俺は大切なひとが死んだとき、泣けなかった」

 ――俺は、アリスのこと好きじゃなかったのかな。

 ああ、やっぱり迷子のようだと思った。

 願ったことを忘れられてしまった――自分に願ったことを忘れてしまった流れ星。

「そんなことないです。そんなので、気持ちは測れないですよ」

「じゃあ、どうしたら分かる?」

「気持ちに単位はありませんよ」

 だから、科学じゃなくて魔法なんでしょうと怯える肩を引き寄せる。

 冷たい、体温の低い身体。

「かなしすぎると、泣けないこともありますよ。嬉しくて、涙が止まらないことだってありますよ」

「でたらめだ」

「そうですよ、心なんて、気持ちなんてでたらめです」

 ――だから、

「だから、エソラはひとでなしなんかじゃないです」

 膝を立てて抱きしめているヒメの肩に、あたたかい感触がした。

「怖い……こんな、怖いよ」

 泣きじゃくるエソラの涙はあたたかくて、愛おしかった。

 生きることが怖いと泣く姿は、命そのものだから。

「大丈夫ですよ」

 現代っ子らしからぬ高めの平熱の身体が役に立たないかと、膝立ちでぎゅっと抱きしめる。

 生きることが怖かったのは、ヒメも同じだ。

「望まれて生まれてくる命なんて、きっとひと握りくらいです。でなきゃ幸せって呼べません。比べられるから、幸せと、そうでないほうに別れるんですよ。――エソラは、望まれて生きてるでしょう?」

「のぞまれて……?」

 そう、望まれて生きてる。

 背中をさすっていた手を離して、エソラの頬を両手で挟んで目を合わせる。

 届け。

 ひと握りでもいいから。届け。

「望まれて生きていることは、きっと、望まれて生まれることに引けを取らないくらいの幸せです。幸せも、不幸せも、そもそも比べることではありませんけれど。でも、生きていてほしいって、エソラは博士さんに願ってもらえたのでしょう?」

 だったら、忘れちゃいけません。

 幸せとか、嬉しい記憶は、かなしみですぐに消えてしまうから。

 幸せは、忘れてしまえるから。 

「不安になるなら、ヒメが言ってあげます。エソラに生きていてほしいって、何度でも言うですよ」

 涙をぽろりとこぼして、エソラは言った。 

「おれ、博士に生きていてほしかった……ほんとだよ」

「知ってますよ」

「なんで?」

「だってエソラは博士さんのこと大好きですもん。好きな人には生きていてほしいって思うものですよ」

「うん……うん、俺、生きていてほしかった」

「エソラは優しかっただけです。――優しいは、傷つきやすいですから。生きていくには少し鈍くしたり、避けたりしなくちゃ、砕けて壊れてしまうんです」

 エソラは、誰より優しいです。

 エソラは涙で濡れた目を丸くして、わらおうとして、また泣いた。

 ほんとうに優しくて、どこまでも優しい男の子だ。

「……ウォーロックは、世界で一番優しい魔女の名前だったんですね」

 腕の中の、優しくて寂しがりの男の子と、彼を生かすことに全てをかけた科学者を思って、ヒメはエソラが泣き止むまで、ずっと背中をさすっていた。


「原動力は電気じゃなくて熱なんすね」

「そう。だから俺は防寒対策に勤しんでるんだよ――奇抜な服で」

「根に持ってるんすか?」

「……」

「……それ、腰と胸元はいいんです?」

「知らない。博士が魔法陣を織り込んだ、防寒素材で出来るから」

「奇抜な趣味っすね」

「博士はいいんだよ。……ひび割れは、リミット寸前のサインなんだと思う。乾きより、冷えてひび割れるって方が正解なんだ。俺に体温がほとんどないの、知ってるでしょ?」

「老化現象っすか?」

 ヒメに抱きしめられていたのが不満だったらしいロードが絡んでくる。

 ヒメがたしなめるも、真っ赤な目と鼻では太刀打ちなんて出来ないことは分かっているので話を戻す。

「埋め込まれたのは、死ぬ寸前まで博士が改良を重ねてメンテナンスもしてくれた一級品。でも、本物の心臓を持っていても生き物は必ず死ぬ。ばらまかれた魂の欠片を集めても、正直ひび割れが消えることはないと思う。本物の心臓には、ならないと思う。それでも、行こうと思うんだ」

 そう言って立ち上がると、ヒメにマントの裾を掴まれた。

「どこに行くんです? エソラ」

「? いや、もうここは元通りになるし、次を探そうかなって」

 きょとんとするエソラに、札束を数えていたヒメはにっこりわらってみせた。

「そうですか。――じゃあ、三人で旅に出るなら、これくらいあれば当面は足りますね」

 紙幣のほうがかさばらないですし、見たところコインは純金ですのでこれだけあれば相当な価値があるでしょう。

 ピン、と必要な分の紙幣を数え終えたヒメの隣でロードも頷く。

「そっすね、車や銃のメンテナンスもそれだけあれば十分っす」

「え?」

 まったく、とヒメがため息混じりに腕を組む。

「次って、あなた場所は分かってるですか?」

「それは、地図があるし」

「それで場所がわかったとして、エソラはどうやってそこまで行くですか?」

「歩いてとか……」

「食事は? 寝る場所は? 迷宮を、魔宮を一人でどうこうできると思ってるんですか?」

「俺は時間がたくさんあるから、いいかなって」

「馬っ鹿じゃないの? です」


「私の大好きな街は、私がいなくても大丈夫です。でも、エソラは私がいないとだめだめですから、ついてったげます」


 にこっとヒメがたれ目を下げてわらう。

「本当は立ち直るまで見ていたいし協力したいのですけれど、ロードに専門家に渡りをつけてもらって、トレジャーハンターのツテを頼れば、ヒメたちがするより、もっと早く元通りになると思いますから」

 資金提供はできますからね、と口の端を上げる。

「この街、好きなんじゃないの?」

「大好きですよ? でも、もう月は戻ってきました」

 ヒメの仕事は、ここまでです。

 月を見上げるヒメの横顔は、優しい。愛おしいものを見る目だとエソラは思う。博士がいつも、エソラを見ていてくれた目と同じだと思った。

「それに、」

「?」

「魔宮に困ってるひとは世界中にたくさんいます。ヒメもこんなに困りましたもん。だから、三人で世界中の魔宮を攻略して、世界から魔宮も、ついでに迷宮もなくしてしまおうって思うのですよ」

「お嬢かっこいーっす!」

「へへ。でも、それにはロードと、エソラの力が必要不可欠です」

「俺も?」

「当たり前でしょう。付き合ってもらいますよ、世界の果てまで!」

 腰に手を当てて、ヒメが不敵にわらうから。

 エソラも、わらってしまった。

 不器用で、わらっているとわからない笑顔でも、ヒメは嬉しそうにわらいかえしてくれる。

「分かった。――よろしくお願いします」

「お、ようやく挨拶を覚えたっすね」

 ロードがキュートで早速連絡を取りながら、にいっとわらった。


「そういえば、」

「何?」

「エソラって、いい名前ですね」

 車に荷物を積み終えたヒメが、エソラを見上げてわらった。

「……ありがとう」

「いーえ、どういたしまして」

 ヒメが生きているうちは、生きていようかなとエソラは思った。

 それはきっと、エソラと明日をたくさん見たいと言っていた博士と同じ気持ちで、少しだけ違っていることを、エソラは分かっていた。

「あのさ、」

「なんですか?」

「……ヒメって名前も、いい名前だと思う」

 そう言えば、きょとんとしたヒメがにっこりとわらった。

「キラキラネームは現代っ子の嗜みですから」

「……あっそ」

 でも、ありがとうです。

 エソラが聞き返す間もなく落とされた囁きは優しくて。

「それじゃあ行きましょう! 次の目的地はウロコ岬の向こうです」

「結構遠いっすね、運転代わるっすよ?」

「大丈夫ですよー、ヒメにお任せあれ!」

 心配そうなロードにそう言って、ヒメは華奢な身体で大きな車のエンジンをかけてアクセルを踏む。

 ヒメが怒っても、泣いても、馬鹿みたいでも、見ていて腹が立って喧嘩をしても、エソラはいま、走り出した車の後部座席にもたれて座っている。

 結局、とどのつまり。

 箱を開いてみればからくりなんて簡単なもので、恐ろしいくらいにシンプルだ。

 空っぽの左胸のハートに、魂の欠片をすべて取り戻したら。

 いま胸に満ちているこの気持ちを、ヒメに伝えられるだろうか。

 くあり、と欠伸をひとつ。

 心地いいエンジンの振動、差し込む陽の光に誘われるままに、恋を憶えたエソラは目を閉じた。

 


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