一章 サピエンスを求めて 8
旅は相変わらず困難を究めていた。
我々はヘーラたちのコミューンを出発すると、カスピ海南岸のコミューンで体制を整え、イラン中部にある砂漠地帯の横断に挑んでいた。パオの忠告通り、アナトリア高原より東に進むとコミューンの数が半減し、荒廃した土地に街の廃墟がぽつりぽつりと現れるといった風景がつづいていた。これまでは三日も歩けばどこかのコミューンに泊まれたが、中東地域では下手をすると十日以上野宿を強いられる有様だった。
ともかくそんな状況下でも、マイケルの能力のお陰で、我々はマドラスに確実に近づくことができた。そして、さらに近づくためには砂漠を越える必要があった。
砂漠での最大の敵は、言うまでもなく陽射しだ。殺意の塊のように、四方八方から熱気が押し寄せる。ミイラ化したラクダの屍が転がり、サソリや毒蛇が知らぬ間に足元でうごめいている。砂漠とは果てしなく広い棺桶なのだ、と私は実感した。
我々はもう四日もそんな極限的な世界を放浪していた。マイケルは付近にコミューンの存在を感じているらしいが、どこまで行ってもそれらしきものは見当たらなかった。
「やはり夜は無理なんじゃないか?」
それとなく私はマイケルに聞いた。雲のない夜空には、月が白く輝いている。
我々は穴を掘ったり岩陰に隠れたりして日中の強烈な直射日光を避け、夜に砂漠を移動していた。日没後は大気が急激に冷え、震えるような寒さだが、昼の移動ほどは体力を消耗しないですむ。ただ心配なのは、コミューンのそばを通っても闇夜でうっかり見落としてしまう恐れがあることだった。
「私の目印は、気配なんだ。だから、昼も夜も関係ない。気配のする方向に進めばいい。ただ、こんなふうに木一本生えていないところだと、かえって距離感が掴めないんだ」
マイケルは度々足を止め、交信を試みようとしたが、うまくいかないようだった。存在をキャッチすることはできても、そこから相手の位置を絞り込むことができない。おかしな話だった。ノウスの能力は不完全だから、その日のコンディションによって交信の感度は左右される。しかし気配のある方向を割り出すだけなら、たいして難しくはない。いまのマイケルは、それすらままならないのだ。長く旅をしてきたが、これほどの不調は初めてだった。
私がマイケルの異変に気付いたのは、ちょうどこの砂漠地帯に入ってからだった。異変といっても、それははっきりとした変化が目に見えたわけではない。が、なにかがマイケルの精神を乱しているのは明らかだった。
食事や休憩中、あるいは移動しているときでさえ、マイケルは突然、ぴくりとも動かなくなってしまうことがあった。私が呼び掛けても、瞬きひとつしない。まさに魂が抜けてしまったような忘我の状態だ。
これと同じ光景を、私は何度か故郷のコミューンで見掛けたことがある。そのときはマイケルではなく、ほかのノウスたちだった。彼らはこのような半催眠状態が何日かつづいたあと、我々の下を去っていった。
となれば、原因はひとつしかない。マイケルは〈コール〉を受けていたのだ。
このことを予想していたヘーラは別れ際、私にある忠告を与えていた。
「私もサピエンスと暮らしていたから、〈コール〉の経験があります。年齢的に考えて、マイケルにももうすぐ〈コール〉が届く頃でしょう。問題はそのときです。旅の最中に〈コール〉が来たとしたら、それにどう対処するつもりなのか。あなたとの旅を選んだとしても、あのお互いの心を惹きつけ合う極上のシンパシーに、マイケルが逆らうことができるのか」
私はヘーラにこう答えた。それはマイケルが決めるべきことで、その結果、一人で旅をする事態になるのは、すでに覚悟している、と。
その言葉に嘘はない。もともと故郷を出るときも、ヘーラのコミューンを後にするときも、私はマイケルの同行を拒否しているのだから。
ただ、そうした我々兄弟の事情についてはともかく、私にはもっと根源的な疑問があった。なぜサピエンスと暮らすノウスにだけ〈コール〉が発せられるのか。ヘーラは「極上のシンパシー」という体験者ならではの表現を使っていたが、私にはさっぱり理解できない。ひとつだけ確かなのは、〈コール〉を受けたノウスの誰もが、それまでの生活を捨てて、その発信元へと旅立って行ったということである。
「兄さん、悪いけどちょっと休憩しようよ」
月明かりに照らされたマイケルの顔は憔悴していた。私も膝から下が石膏で固められたみたいで、足を前に出すので精一杯だった。
ちょうど近くには大きな岩があった。辺りには砂丘などなく、どちらかと言えば岩漠に近い。目星を付けた岩は下が窪んでいて、風よけにもなりそうだった。我々はそこに身を潜り込ませ、毛皮を被った。
すっかり古びた背負い袋から、昼間に捕らえたジャコウネズミの肉を取り出した。マイケルに差し出すと、彼は青白い顔でそれを受け取った。定まらない視点が、体力だけでなく精神的にも不安定なことを物語っている。
「なあ、おまえ、〈コール〉を受けているんだろう?」
できるだけ、穏やかな口調で私は切り出した。いままではマイケルの自主性を重んじて黙っていたが、すでに死へのボーダーラインは間近にある。我々の手元にある食料と水は、粘ってあと一日分だけだった。
私は、言葉を継いだ。
「よく聞いてくれ。明日にでも次のコミューンに辿り着かないと、おれもおまえもここで干涸びてしまう。食い物はなんとかできても、水はなんともならない。体力だって、もう持ちそうにない。こんな言い方は卑怯だが、おまえがいる以上、おれはおまえの能力を頼りにしていた。しかし、これじゃまるで触覚を失った蟻と同じだ」
私が訴えると、アフリカ、とマイケルはなにかの呪文のように呟いた。
「ここから、ずっと南西。たぶんアフリカのどこか。そこに私の仲間がいる。彼らが私を呼んでいるんだ」
悪いことを告白するかのようなか細い声。自ら同行を望んだ責任から、マイケルは〈コール〉に逆らおうとしているのだった。
「やはり、そうか。次のコミューンに着いたら、おまえはアフリカに向かえ。マドラスとは方角も違うしな。なにより、いまのおまえの苦しそうで見ていられないよ」
「ごめんよ、兄さん。〈コール〉に逆らおうとすると、どうしても心が乱れるんだ。でも私はマドラスまで行くよ。そういう約束だからね」
「馬鹿を言うな。いまのおまえは、病人みたいなものだ。このまま一緒に付いて来られても足手まといだよ」
私はわざと冷たい台詞をぶつけた。
マイケルの肩が小刻みに震えていた。寒さのせいではない。潤んだ瞳には、涙が溜まっていた。激しい葛藤に揺れる心の痛みが、私にまで伝わってきた。
「マイケル--」
呼び掛けると、マイケルは突然、カッと目を見開いた。いままで見たことのない、なにかに取り憑かれたかのような近寄り難い形相。青筋の浮かんだこめかみに手を当て、聞き取れないほどの小声でぶつぶつと呟いている。
それは、長い時間つづいた。誰かと交信しているようだったが、交信は精神を安定させて行うため、ふだんは曇りのない穏やかな表情へと変わっていく。ところが、いまのマイケルは眉間にきつい皺を寄せ、半開きの口からは泡が吹き出ていた。頬は痙攣で波打っている。身体に雷が落ちたみたいな苦悶の表情だ。
私がなす術もなく呆気に取られていると、マイケルはガクンと肩を下ろし、ようやく我に返った。まだ泡の吹き出る口から、ううっという呻き声が漏れる。自分でも一体どうしたのか分かっていないようだった。
「信じられない・・・まさか、こんな」
マイケルは荒い息を弾ませた。
「大丈夫か、どうしたっていうんだ?」
私はマイケルを抱き寄せ、食料を包む布で額の汗や口元を拭ってやった。そんな子供のような扱いにも、マイケルはされるがままだった。自分の身に振りかかったことを理解するのに、すべての神経が注がれているらしい。
と、おもむろに彼は私の腕を掴んだ。痣ができそうなほど強い力だったため、私は反射的に悲鳴を上げそうになった。マイケルは、自分を制御することを忘れ、激しく興奮していた。痛さと異様な事態に私はすっかり総毛立っていたが、そんなこともお構いなしに、腕にはさらに力が込められた。
爪先が食い込む。私の顔が歪むにつれ、マイケルには得も言われぬ快楽を体験したかのような陶酔感が広がっていた。
「ど、どう説明したらいいのか・・・。私はいま、〈コール〉を送ってきた相手の精神に入り込んだんだ。いつもより、ず、ずっとずっと深く、ひ、ひ、光の渦に飲み込まれて。と同時に、誰かの魂が私の精神に訪れた。誰も触れなかった未開の部分を、か、彼は照らした。私たちは語り合った。お互いが目の前にいるより親密に。兄さん、まるで心の奥行きが広がった気分だよ」
もつれながら話すと、マイケルは私の腕をゆっくりと離した。さっきまで泡を吹いていた口元には、恍惚とした微笑さえ浮かんでいた。
これがヘーラの言っていた「極上のシンパシー」なのか。それとも追い詰められた精神状態が、マイケルの能力に変化をもたらしたのだろうか。マイケルの変わり様に、私は寒気を覚えた。
「なにがなんだか分からないが、大丈夫なのか? しっかりしてくれ」
うろたえる私に、マイケルは余裕の表情で頷いた。
「心配ないよ、兄さん。私もマドラスに行く。アフリカはその後だ。彼らは待っていてくれるそうだから。私の心に迷いがあったから、確かめに来てくれたんだ。もう、なんの問題もないよ」