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一章 サピエンスを求めて 7

 ランプの灯が透き間風に吹かれて、弱々しく揺らいでいた。一度は爪の先ほどに縮まった炎が、風の止んだ合間を縫ってまた燃え上がる。炎は蠕動するように、小さくなったり、大きくなったりを繰り返す。その度に、部屋の壁には奇妙な形の影が現れたり、闇と溶け合ったりしていた。

 夜が深まるにつれ、いくらか底冷えがした。寒暖の差が激しい高原は、昼と夜とではまるで別世界にいるみたいだった。きっと空気の質感が違うせいだろう。昼間のどこか間延びした空気が、闇が増すとともに張り詰めていく。夜の冷気は、叢に潜んだ獣の視線のように鋭かった。

 我々は夕食をすませ、団欒にふけているところだった。私とマイケル、ヘーラ、レン、レンの親であるパオがいた。ヘーラの子供は、別の部屋で眠っていた。レンも夕食を終えると、すぐにうたた寝をはじめていた。起き上がるのも面倒だったらしく、腹をさすっているうちにその場で横になってしまったのだ。気が付いたら、軽い鼾をかいていた。

 我々は床に車座になって食事をしていたので、その中心にはまだ用済みの食器と土鍋が置かれたままだった。頃合を見計らって、私は話を切り出した。

「なあ、マイケル。おれはおれなりに考えたんだが、やはりマドラスに行くことにするよ。でも場所が分かった以上、おまえは無理に付き合うことはない。後は一人でもなんとかなる。このコミューンの人たちが許してくれるなら、おまえは〈コール〉が来るまでここに残れ」

「なんだい、急に。兄さんは一人でマドラスに行くつもりかい? 場所が分かったからって、それは無茶じゃないのかな。これまで二人だったから、なんとかここまで来られたんじゃないの? ましてやノウスじゃない兄さんだけで、砂漠や山を越えるなんて。私を気遣うのは嬉しいけど、肝心のマドラスはまだまだ遠いんだよ」

 マイケルの意見は当然だった。むしろその畳み掛ける口調には、逆に私を気遣っていることが窺えた。ちょうど後片付けをしようと立ち上がったヘーラはもう一度食器を床に戻し、私とマイケルの話を見守ろうとした。

「ヘーラが言うには彼女はとても危険なのだそうだ。おまえもそれを感じているんだろう? 正直、なにが危険なのか見当もつかないけど、仮に魔女のような女でも、おれは彼女に会わなければいけない。言ってることは分かるよな? それがおれの宿命なんだ」

「宿命? この先はコミューンの気配が少ない。命を落とすことだって、充分にあり得るんですよ」

 もう一人の同居人であるパオが、たしなめるように低い声で言った。彼はレンの親なのだが、ノウスは一個体の遺伝子を子がそのまま受け継ぐため、二人はそっくりの顔かたちをしている。十八年前のパオは今のレンと同じ姿だったろうし、十八年後のレンはパオの生き写しになっているはずだ。丸い顔も、腹の突き出たずんぐりした体型も、彼らがずっと遺伝的に受け継いできたものの一部だった。

「パオ、あなたたちの厚意は非常にありがたい。我々のような見ず知らずの他人にここまで親切にしていただいて、感謝の言葉もありません」

「我々ノウスは、遠くにいても常にお互いの存在を感じあっている。他人ではない、仲間だ。それは、あなたがサピエンスであっても変わりない」

「おれにとっても、彼女は仲間なのです。いや、おれにとっては、サピエンスの仲間なんてもはや彼女だけなのかもしれない。我々はお互い一人なんです。なのに、このままでは死ぬときまで孤独でいつづけなければならない。もちろんあなた方の言葉に甘えてここに移住すれば、寂しさをまぎらわすこともできるでしょうが、おれはずっとその女に会わなかったことを後悔する。自分を卑怯で冷酷だとも思うでしょう。彼女が尋常でないとしても、それは孤独への絶望感によるものかもしれない。ならば救えるのは、おれしかいないんです」

 私は最後に、自分を救えるのも彼女しかいない、と付け加えた。

 しかし、と口ごもるパオに代わって、マイケルが言った。

「兄さんの気持ちは、ここにいるみんなも承知しているよ。マドラスに行かずにはいられないのは、当然だろうね。でも、私のことなら心配しなくていい。一緒に行くよ」

 その発言とは裏腹に、ヘーラやパオは曖昧な表情を浮かべていた。女のことに加え、旅の過酷さを懸念しているのだろう。

「確かに、おまえがいれば心強いよ。でもおれのサポートは、もう終わりにしていいんだ。もうじき〈コール〉が来て、おれたちは別々に暮らすことになる。早いか遅いかの話だろう。それなら、いまがタイミングだ。ここから先、おれたちは兄弟じゃなく、一人のサピエンスとノウスとして生きていくべきだ」

「もっと冷静に考えてみなよ。パオの言う通り、この先はコミューンがあまりなさそうだ。ということは、それだけ環境が厳しいということだよ。汚染地帯が広がっている可能性だってある。兄さん、本当に一人で行ける自信があるの? マドラスに辿り着かなければ、その人を救うことだってできないんだよ」

 私はなにも答えなかった。自信などあるはずがない。これまでの旅でさえ、マイケルがコミューンの位置を探し当ててきたから、度々屋根の下で身体を休めたり、食料を補給できたりしたのだ。私一人だったら、どうなっていたか分からない。

「マイケル、その女がただの女ではないことは、もう分かっていますよね。ブルースの心情は察するにあまりありますが、はたして彼女の心が容易に人を受け入れるのかは難しい気がします。たとえ最後のサピエンス同士だとしても、彼女はすでに戻れないところにいるのかもしれない。私が感じた狂気とは、そういう類のものです。まさか私の思念が元で、こんなことになるなんて。最初から、そのことを伝えられていれば」

 蝋燭が揺らめく度に、ヘーラの顔には複雑な陰影がつけられた。私には、それが彼の胸の内を現わしているかのように見えた。インドにサピエンスの女がいると教えてくれたのはヘーラだが、今のような展開は予期せぬことだ。自分のわずかな情報を頼りに旅に出る人間がいるなど、彼は知らなかったのだ。

「おいおい、嘆かないでくれよ。おれは君には感謝しているんだぜ。あのときマイケルとの交信が遮断しないで、すべてが伝わったとしても、おれはやはりマドラスを目指したよ。もっとも、その場合はマイケルがきちんと教えてくれたらの話だがな」

「ちょっといいかな」

 寝入っていたはずのレンの声が、突然聞こえた。彼はパオの背後で身体を横にしたまま、視線だけを我々に向けていた。

「すまない、起こしてしまったか」

 私が詫びると、レンは太い腕を支えにして、大儀そうに上半身を起こした。

「うん、まあ。話だけは耳に入ってたんだけどね。どうやら、あんたは命を捨ててでもマドラスに行くつもりらしい。そもそも、そのための旅なんだから、私自身はもう止めるのはよすよ。でも、それならマイケルを一緒に連れて行ってほしいな。彼はすっかり気持ちの整理がついているみたいだ」

 レンが言うと、ヘーラやパオはじっと息を潜めて押し黙った。マイケルの精神に触れようとしているのだ。

 やがて彼らは瞼を閉じ、深い溜め息をついた。

「なるほど、マイケルはいままで彼女に対して強い恐怖心を持っていた。しかし、もうそれは消えている。ブルースを兄として慕う気持ちが勝ったのでしょう」

 私はマイケルを見据えた。さっきからの一歩も引かない態度といい、まだ子供だと思っていたのに、強い意思を持ったたくましい目をしている。

「いいのか?」

 その目が、私を折れさせた。

「兄さんがマドラスに行かないと納得できないように、私もできるだけのことをしないと後悔する」

 ぐっと顎を引き締めて、マイケルは私を見返した。

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