一章 サピエンスを求めて 6
「ふうん、これが世界の形なのかぁ」
ヘーラの同居人は床に広げた世界地図を物珍しそうに眺めながら、私に話し掛けた。レンという名前で、このコミューンに多い東洋系の顔立ちをしている。年齢はマイケルと同じくらいだが、ずんぐりとした体型のためか愛嬌がある。
私はアナトリア高原を指差し、いまいるのはここだと教えた。
「色のついている部分が陸地だよ。国が崩壊して白くなっているところもあるけどね。おれとマイケルはこのアルプス山脈というところから来たんだ」
「遠いんだろうね。ここに着いた途端、気絶するくらいだもんな」
私は誤魔化すように頭をかいたが、レンは真顔だった。この高原から出たことのない彼が、地図上の距離感を把握できないのは無理もない。そもそも多くのノウスがそうであるように、彼は地図を見るのも初めてなのだ。
「まあ、これを見ただけじゃピンとこないだろうけど。世界はひたすら広い。途方もなく広い」
「あんた、ここが好きかい?」
唐突に、レンが聞いた。
「君は、どうなんだ?」
そのまま聞き返してみた。
「ほかの場所なんて知らないからな、よく分からない。でもここは、いいところだと思う。世界がすごく広くても、ここはいいところなんじゃないかな」
そうだよ、と私は答えた。初めて見た地図は彼に外の世界を意識させたが、それ以上の興味は湧かないようだった。想像がつかないというより、コミューンでの日々が彼の一部になっているからだ。コミューンと自分とは切り離すことができない。仲間を置いて旅に出るなど、レンの頭の中には欠片も浮かんでこないだろう。
「もっと住みやすいところはあるけれど、それはおれの感じたことだ。君にとっては、ここがいちばん落ち着く場所なんじゃないかな。仲間がいて、みんなと話ができて。違うかい?」
「あんたの言う通りだね。私はずっとここにいたいんだ」
レンは満足そうに、丸い顔をほころばせた。
「おれはいま、そのために旅をしているんだよ。ずっと自分がいられる場所を探しているんだ」
地図を広げていたのは、マドラスの位置を確認するためだった。ヘーラが例の女を見掛けたという都市の跡だ。このコミューンからは、まだかなりの距離があった。
「ヘーラ、君は故郷のコミューンからここに来るまで、どれくらいかかった?」
そばでバターを作っているヘーラに向かって、私は聞いた。ヘーラは、がしゅがしゅと山羊の乳の入った細長い筒を棒でかき回している。
「私と両親の場合は、ペルシャ湾まで舟で海を渡って来ましたから。故郷は海洋民族の集まりでしたのでね」
作業の手を休めないまま、ヘーラが答えた。
「でも君は、マドラスでサピエンスを見掛けたと・・・」
「ええ、マドラスは海沿いにあるのですが、ちょうど近くを通りかかったら天候が荒れはじめたんです。それでやむなく避難したというわけです」
ヘーラの言う通り、マドラスはベンガル湾に面していた。彼らのように舟で海を渡ることができれば格段に楽だが、我々にそんな技術はない。ここに来る途中で筏をつくってボスポラス海峡を渡ったとはいえ、外洋での長い航海は不可能だ。結局ひたすら陸地を歩くほか手がなかった。
「ブルース、どうしてもマドラスに行くんですか?」
棒をかき回すのをやめていた。神妙な顔つきだった。
「ほかに行くところなんてないさ」
私の返事に、ヘーラはもどかしそうに唇を歪めた。
「ここにいればいいじゃないか。私たちに遠慮することなんてない」
レンが会話に割り込んだ。彼は白い歯を浮かべ、地図のアナトリア高原を何度か指で叩いた。
「ありがとう。でも、そういうわけにもいかないんだ」
私が言うと、ヘーラは地図を挟んで私の真向かいに腰を下ろした。
「私は嫌な予感がするんです。彼女には狂気の匂いが漂っている」
「君は遠くから彼女を見掛けただけなんだろう?」
「ノウスとサピエンスには、少なからずコミュニケーションのギャップがあります。私にはどう説明したらいいのか分からない。でもマイケルは彼女に対する私のイメージを察知し、同じように危機感を抱いている。あなたの前では平然としていますが、彼の心は不安で大きく揺れ動いています」
「ただの一人の女じゃないか」
私にはヘーラがなぜそれほどまでに怯えるのか理解できなかった。たった一人の女になにができるというのだろう。
「怨念というのかな。ヘーラの見た彼女のイメージには、そんな悲しい影が付きまとっているよ」
レンがぽつりと言った。さっきとは打って変わって、ぼんやりと中空をさ迷う瞳。行かないほうがいいと言い、彼は地図の上に手をかざした。
怨念、と私は口に出して言ってみた。その言葉が、胸の奥深くで共鳴する。まさに私自身のことだった。
考えてみれば、この時代に生き残ったサピエンスは誰もが怨念を抱えているのではないか。滅びゆく種の一人に生まれてしまったという抗いようのない現実。天はなにを希望に、我々に生きていけというのか。
「マイケルと相談してみるよ」
私はそう言い残し、部屋を出た。
ヘーラのコミューンの北側には、浅瀬の川が流れていた。澄んだ水の中には、貝や小さな魚が棲んでいる。私は岸辺の木陰で仰向けになり、彼ら自然の紡ぎ出すゆったりとした時の流れに身を任せた。
おれは、なにをすればいいのだろう。単純な疑問が、私の想念を支配する。いくら自分に素直になろうとしても、答えはなかなか見つからない。怨念と口にした途端、私は自分の本性を垣間見た気がした。それをなだめるには、どうしたらいいのか。そのことを私は考えなければいけなかった。
マドラスで女を探すにしても、それからどうしようというのか。サピエンスの仲間を増やして、「人類復興主義」を実現させればいいのか。違う、「人類復興主義」なんて嘘っぱちだ。肝心のサピエンスが生まれてこないのに、そんなことができるわけがない。仮に万が一、サピエンスが再び頂点に立てたとしても、そこにどんな意味があるというのか。
時代遅れの種なら、黙って滅びるのが正解だ。このままヘーラのコミューンに居候して、ただ死ぬのを待つか・・・。
ふと頬に冷たいものが流れた。指先で確かめてみると、それは涙だった。
私は涙を拭い、身体を起こして対岸を眺めた。マイケルたちが畑仕事にいそしんでいる。ここでは麦のほかにトマト、ナスなどを栽培しているが、収穫が近いため、みんな忙しそうだ。
畑の後方には赤茶けた家々が並び、戸口の前では子供が山羊の乳を搾っている。ほかには、なにもない。なだらかな草原の丘の斜面には、淡い黄色の花が咲き誇っていた。
平和だ、と私は呟く。厳しい自然に翻弄されながらも、心の通い合う仲間と暮らすノウスたち。彼らは協力しあいながら畑を耕し、子供を産み、そして仲間に看取られてこの世を去る。死んでも一人ではないのだ。
私は孤独のうちに死んでいくのが怖かった。やがてそのときを迎え、人知れずじわじわと骨と化すことを考えると、たまらない気持ちになった。だがそれは、この大地のどこかで、ひっそりと生き長らえているサピエンスすべてに言えるのかもしれない。だとしたら、この地平の彼方に、私を求めている誰かがいるはずだ。
迷うことなどなかった。私には、その気持ちだけで充分だったのだ。数少ない仲間を、悲しみのまま永遠の眠りに就かせたくはない。旅をつづけよう、と私は決心した。