一章 サピエンスを求めて 5
旅に出て八カ月が過ぎ去った。旅の途中で、サピエンスの生存情報を提供してくれた相手がトルコのアナトリア高原にいると分かり、我々は彼のコミューンに立ち寄ることにした。幸運なことに、そこはインドへ向かうルート上に近かったため、大きな迂回をする必要もなかった。だが、すべてが上手くいくわけではない。我々は、そのコミューンに足留めされることになった。長旅の影響で、私が病に伏してしまったからだ。
故郷を後にしてから、我々はチロル地方を抜け、ウィーンでドナウ川をつかまえてそれに沿って進み、流域の峠をいくつも越えてきた。黒海にぶつかってからも野をかきわけて南下し、筏をつくってボスポラス海峡を渡った。嵐に見舞われたり、野犬の群れに襲われたりもした。覚悟していたこととはいえ、アルプスの山奥しか知らない我々にとって、自然はあまりに多様で、無慈悲なまでに過酷だった。ここまで生きて来られたのが不思議なくらいだ。
そして未知の世界に対する緊張感で疲労は限界を越え、目的のコミューンに足を踏み入れた途端、私はそのまま地べたに倒れこんでしまったのだった。
目覚めたのは、熱気の立ち込めた部屋の中だった。壁は古い日干しレンガで、天井には太い梁が横切っていた。寝台に寝かされていた私は慎重に身体を起こし、周囲を見回した。それほど広い部屋ではない。やたらと暑いのは、通気が悪いせいのようだった。
「気が付きましたか」
そばには一人の若いノウスがいた。床に座って臼を挽いていたらしい。彼はその手を休め、こちらに近づいてきた。
「どうも、とんだ迷惑をかけたようだ」
倒れた記憶はかすかにあった。私はこの家に担ぎ込まれ、介抱されていることを悟った。
「いや、まだ起きないで。もうしばらく横になっていてください」
立ち上がろうとする私の両肩に手を当て、彼は諭すように制した。
「すまないが、喉が渇いてしまって・・・水をもらえるかな?」
私が頼むと彼はにこりと微笑み、土鍋に水を入れ火にかけた。浅黒い肌。腰布を巻きつけただけで、上半身は裸だ。太い眉と節くれだった指が男性的だが、ぴんと張った乳房に母性が漂う。隣の部屋で、赤ん坊が泣いていた。
「身体が弱っているので、冷たい水はよしたほうがいいでしょう。少し温まるまで我慢してください」
私は頷いた。ひどく身体がだるかった。頭に綿を詰め込まれたような違和感がある。
「マイケルはどこに?」
「いま、畑に行っています。もう帰ってくる頃でしょう」
心配ない、という顔で彼は言い、湿った布で汗まみれの私の身体を拭いた。ふいに私はマルーシュカのことを思い出した。彼女が死んだとき、私とマイケルは彼女の身体を洗い清めたのだ。我々は数え切れないほどの人の死に顔を見てきたが、マルーシュカのそれはまるで天使のように安らかで神秘的だった。
マイケルが帰ってきたのは、それから間もなく、夕食の支度が整った頃だった。
「兄さん、大丈夫かい?」
部屋に入り、私の意識が回復したことを知ると、マイケルはほっとした表情を浮かべた。
「お疲れさん」
畑仕事を手伝ったのだろう、マイケルは泥まみれだった。大ぶりの甕から桶で水をすくい、手や顔を洗う。一緒に旅をしてきたのに、マイケルにはまだ体力的な余裕が感じられた。
「兄さんはずっと眠りっぱなしだったんだよ。ここに着いたときのことは憶えているかい?」
「うっすらとは。おれはどれくらい眠っていたんだ?」
アナトリア高原には多くの湖や沼が点在している。それらを縫うようにして歩いていた時点から、すでに頭が朦朧としていた。どこをどう進んできたのか、ほとんど覚えていない。やがて高原に人家の陰を認めたところで、ぷっつりと記憶が途切れていた。
「兄さんは、三日間気を失っていたんだよ」
マイケルは私の顔色を窺いながら、ゆっくりとした口調で言った。
「三日もだって?」
私は驚いて、聞き返した。ちょうどそのとき、窓から差し込む日の光は、夕暮れの色彩を帯びていた。我々がコミューンに着いたのはいちばん日の高い頃だったから、気を失ったといってもせいぜい半日のつもりでいたのだ。
「そう、三日だよ。外の世界は故郷とはまるで違う。私だって本当はくたくたなんだ。それに兄さんは獣から私を守るために、夜だってろくに寝ていなかったし・・・」
「そうか」
三日間も眠りつづけていたことへのショックと、とりあえず大きな問題もなく生きていたことへの安堵感が交互に押し寄せた。いずれにせよ、体力を戻せばまた旅をつづけられる。少しの静養と思えばいいのだ、と私は気持ちを切り換えることにした。
「ヘーラ、ありがとう。あなたが介抱してくれたお陰です。兄さん、この人が付きっきりで看ていてくれたんだよ」
マイケルはさっき私の身体を拭いてくれたノウスに向かって、礼を述べた。ヘーラと呼ばれたそのノウスは背もたれのない椅子に座り、乳飲み子を抱えていた。
「いいんですよ。私も昔はサピエンスにお世話になった身だから」
私はマイケルを見た。何が言いたいのか分かるとでもいうように、マイケルは瞼を伏せて頷いた。
「なるほど、君が情報を提供してくれたのか」
ヘーラは乳飲み子をあやしながら、そうなりますね、と答えた。彼の赤ん坊は生後数カ月ほどで、木綿の布の中からしきりに手を伸ばしていた。
「私の親はサピエンスです。あなたたちの言う〈コール〉を受けて、三年ほど前にこのコミューンに来ました」
「というと、君がインドで見掛けたサピエンスとは両親たちのことかい?」
ヘーラは首を横に振った。
「私の両親は、共にこのコミューンに住んでいました。しかし、二人ともしばらく前に亡くなっています。故郷のコミューンが全滅してしまったので、ここに移住させたのですが・・・」
過去を思い出したのか、ヘーラは言葉を詰まらせた。
「故郷のコミューンとは、サピエンスの?」
話しからすると、ヘーラと我々の境遇は似ているようだった。少なくとも、この時代にサピエンスと暮らした経験のあるノウスは稀だろう。旅の途中でも多くのノウスと出会ったが、彼らにとって私こそが初めて接するサピエンスだった。
「そうです。故郷ではサピエンスが暮らしていました。十数人の仲間たちがいたのですが、はやり病にやられて。あっと言う間のことでした。たまたま私たち一家は漁に出ていたのですが、コミューンに戻るとそこには信じられない光景が広がっていました。住人が全員、身体に赤い斑点を浮かべて、そこかしこで冷たくなっていたんです。漁に出ていたのは、一昼夜です。たったそれだけの間に、故郷は腐臭に覆い尽くされた死の世界になってしまったんです。両親は狂ったように激しく泣き叫びました。でも得体の知れない病原菌に侵された場所からは、一刻もはやく出なければいけない。私には数日前から〈コール〉が来ていたので、留まろうとする両親を強引に舟に戻して故郷から離れました」
ヘーラの目にはうっすらと涙が滲んでいた。いまでもその出来事が、彼に重くのしかかっているようだった。
それにしても、と私は愕然とした。なんという話だろうか。数年前までサピエンスのコミューンは、ほかにも存在していた。しかし、それは突然現れた病原菌らしきものによって、たった一昼夜でこの世から抹殺されてしまったというのだ。
「君も大変な目に遭ってきたんだな。せっかくサピエンスのコミューンが残っていたのに、いまはもうないなんて。おれにとっても、悲しいことだよ」
ようやく私は声を絞り出した。ヘーラの両親の年齢は分からないが、十数人の住人がいたのなら自分たちの存命中にコミューンがなくなるとは思っていなかっただろう。未来がないと知りつつも、最後の住人にならずに済むことを救いにしていたかもしれない。それがなんの予兆もなく、生の世界に置き去りにされてしまったのだ。私にはまだ一人なることへの気持ちを整理する時間があったが、彼らにはそれすらなかった。それはどんな激痛も及ばない悲しみだったに違いない。
「私の両親も、あなたに会えていたら。彼らもほかに生きているサピエンスがいるのかが、いつも頭にあったようです」
ところで、と私は言った。
「話を元に戻していいかな。よければ、インドにいるというサピエンスのことを聞きたいのだけど」
ヘーラとマイケルが、互いの顔を見合わせた。私が眠りつづけていた間に、二人は情報の確認を済ませていたらしい。しかし奇妙なのは、二人のぎこちない態度だ。特にヘーラの表情には、悪い報せでも打ち明けるかのような気まずさが滲んでいた。
「ブルース、我々ノウスは嘘をつくのが苦手なんです。そんなことをしても、私たちはお互いの心の変化を読めてしまいますからね。人を騙せないんですよ」
「どういう意味だい?」
私はヘーラの真意が汲み取れず、問い質した。
「彼女の姿を見掛けたのは、このコミューンに来る途中でした。距離があったので、たぶん向こうが我々に気付くことはなかったでしょう。場所はマドラスという都市の廃墟で、私たちはそこから丸二日歩いたところに暮らしていたのです。」
「彼女? そのサピエンスは女なのか? 一人だけだったのか?」
「一人です。遠目だったので年齢は見当がつきませんが、少なくとも年寄りではありません。案外、若いのかもしれない。私の両親は彼女の存在を以前から知っているようでした。私が彼女の姿を見つけると、父は私に彼女に近づくなと戒めました。あれは呪われた女なんだ、と」
「呪われた女?」
大袈裟な表現だった。自然と私は、嘲りに近い笑いを漏らしていた。
「詳しいことは知りません。でも両親は、彼女の血にはサピエンスの邪悪な部分だけが受け継がれているんだ、と話していました」
「あまり人気者ではないみたいだな。ほかに君の両親はなにか言ってなかったかい? 彼女に仲間がいるとか、避けている理由とか。どんなことでもいいんだけど」
「いえ、彼女の姿を見たのも話を聞いたのも、そのときが最初で最後です。それ以上聞いても、両親はなにも答えてくれなかったでしょう。そんな雰囲気でした。きっとコミューンでも、彼女のことを知っている人間はほかにもいたと思います。でも誰も口に出さなかった。貴重な仲間なのに、一緒に住むことすらしなかった。それだけの理由があったのだと思います」
ヘーラはぐずる赤ん坊をなだめながら、それ以上はなにも分からないと首を振った。最後の“それだけの理由”という言葉が、重い余韻を残していた。
「たぶん君は、その女が危険だと言いたいのだろうね。だから、行くな、と。でも、そういうわけにもいかない。まずは会って確かめてみることが先決だ。だってもしかしたら、世界に残っているサピエンスはおれとその女だけかもしれないんだぜ」
呪われた女だろうが魔女だろうが、一向に構わない。その女の存在こそが、私の唯一の希望だった。
「ヘーラ、これは仕方のないことなんだ。忠告してくれてありがとう」
マイケルは、うなだれて赤ん坊の顔を眺めるヘーラに言った。その口ぶりからすると、ヘーラは一度マイケルを説得しようと試みたようだった。彼が困惑しているのは、赤ん坊が不機嫌なせいだけではない。よほどその女に悪い印象があるらしかった。
収穫は、マドラスという地名を掴んだことだ。情報としては不充分だが、目的地が絞れたことは大きな前進だった。ここまで来た甲斐があった、と私は胸を撫で下ろした。
私の体力はそれから日に日に回復していき、一週間ほどで家事を手伝えるようになった。
ヘーラのコミューンには五十人ほどのノウスが暮らしていて、日干しレンガ造りの住居にそれぞれ数人単位で同棲している。これはサピエンスの家族とは異なり、単に畑仕事や家事を効率的に分担するためだ。親子・兄弟以外は血の繋がりがなく、まったくの他人同士がひとつ屋根の下で小さな共同体を営んでいる。
ヘーラも二人の仲間と同居していたが、彼自身は赤ん坊がいるため、外には出ず家の雑役をこなしていた。私は彼の手伝いをし、かまどでパンを焼いたり、山羊の乳を搾ったりした。
たいていノウスのコミューンは、どこも三十から五十人くらいで構成されている。基本的には水源の近くに住み、田畑を耕したり、放牧をしたりというシンプルな暮らしぶりだ。彼らは仲間の心を感知するあの特殊な能力により、平穏な協力関係をつくっている。そこで安心して子供を育てるのだ。ノウスのコミューンでは、ただ風のように時が過ぎていく。
ところでこのコミューンのあるアナトリア高原は、紀元前九〇〇〇年頃のものと言われる世界最古の遺跡が発掘されている。周囲はほとんど起伏のない平原だ。そこにはかつて麦が自生し、野生の羊や牛も繁殖していたため、人間にとっても住みやすい土地だったという。いま我々人類は最低限の文明の下で、気紛れな自然に依存した生活を営んでいる。結局のところ我々は、まわりまわって同じ場所に戻ってきただけなのだ。