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四章 “エージェント”6

 翌日、チェチェは私とマイケルをコミューンの南にある草原に連れ出した。雲ひとつない素晴らしい天気だった。金色になびく叢をインパラが闊歩する。スリムな体格だが、竪琴のように湾曲した角がたくましい。

 草原は古い地層の残る崖に沿って広がっていた。遠くには湖がかすんで見える。その対岸には悠然とそびえる山並み。昨日夢で見た草原と、どことなく似ている風景だった。

 崖は大地溝帯の一部に違いなかった。大地溝帯とは、アフリカ東南部からトルコにまで達する、巨大な地殻の割れ目だ。そして、人類発祥の地でもある。ここでは四百万年以上も昔に人類が直立歩行した跡や、最古の猿人の化石が発見されている。いま、我々はその進化の行われた場所に立っていた。

「二人ともキリンは見たことあるかい?」

 地べたに腰を下ろして、唐突にチェチェは言った。

 ない、と私は答えた。昨日と比べるといくぶん緊張もほぐれた。よく眠ったせいだろう、身体が軽い。チェチェの強壮剤は、効果てき面だった。

「ぼくは一度だけ見たことがある。この辺りにはキリンは棲んでないんだけど、どこかから迷い込んできたんだろうね。キリンがどういう動物かは知っているよね?」

 知っている、と私とマイケルは答えた。

 チェチェは青い腕をまっすぐ空に伸ばした。

「首がさ、こんなに長いんだ。ぼくの身長よりも長い。どうしてだか知ってる?」

「高いところにある葉っぱを食べるため」

 私は言った。

「その通り。でもキリンの先祖は、首が短かった。長くなったのには理由がある。そうだろう?」

 私は黙って頷いたが、奇妙なことにチェチェの顔はみるみる硬直していた。気配が変化していることが、私にも感じ取れる。マイケルも困惑の表情を隠しきれなかった。

 チェチェは本題に入る前に、こう前置きをした。

「ブルース、マイケル、これから君たちに話すことは、あくまでぼくの想像なんだ。真実じゃない。自分が本当は何者なのか、ぼくにもよく分からないんだ。

「分からないって、どうして?」

 私が言うと、チェチェは首を横に振った。

「君たちがぼくに会って戸惑っているように、ぼくも君たちにあって戸惑っている。二百五十年生きてきて、たいていのことには驚かなくなったけど、やはり君たちとの出会いはある種の暗示なんだろうな」

「いま、なんて? 二百五十年生きてきたって・・・」

 チェチェは私の言葉を手で遮った。まばらに草の生えた土の上で仰向けになる。陽射しの強さに目を細め、一呼吸置くと、話しをはじめた。


「そもそも、ぼくがこんなふうな身体になったのは子供を殺されてからなんだ。ここに来る前のことさ。ぼくが生まれた頃は、まだサピエンスが辛うじて文明社会を営んでいてね、ひどい時代だった。世界中が秩序を失い、いつもどこかで暴動が起きていた。戦争だって頻繁に発生していた。争いを止めようとした人間が、いつの間にか引き金を引いている。いま思えば、よく生き延びられたものだよ。

 そんな荒んだサピエンス社会にあっては、ノウスが巻き添えを食うこともよくあった。なにしろ被差別種だったからね、無秩序の中では徹底的に弱い立場だったんだ。それでもおおっぴらに銃で撃たれるほどじゃない。ノウスを擁護してくれる団体もあったし、サピエンス社会と一線を画して生活していれば、なんとか危険を減らすことができた。ところが、それも束の間だった。文明がまさに瀕死の状態になると、ノウスの安全はどこかに消えてしまった。理性を完全に失った一部のサピエンスが、ノウスを手当たり次第に殺戮しだしたのさ。ぼくはロンドンの郊外で生まれたのだけど、〈コール〉を受けてヨークシャーの森のコミューンに住んでいたんだ。仲間たちはみんなハンターの噂に怯えていた。匿ってくれるサピエンスもいたけど、それが罠だという話しも聞いた。もういつ襲われてもおかしくない状況だったんだ。ぼくたちは一箇所に留まっているのは危険だと判断して、遠くの山に逃れた。でも数人のハンターがその後を追ってきた。そしてある日、ぼくたちを襲撃した。いまでもはっきり覚えている。狩りから帰ると、隠れ家は焼き払われ、辺り一面血の色なんだ。地面には銃の薬莢と仲間の死体が転がっていた。その中にはぼくの子供もいたよ。まだ四歳だったのに、彼らは見逃してくれなかった。

 それから間もなくして、行き場のないぼくに二度目の〈コール〉が来た。いまのコミューンだね。ぼくの身体はその頃にはずいぶん変化していて、胸や肩の一部が青くなっていた。身体つきもサピエンスの男に近づいていたから、それでノウス狩りから逃れることもできた。精神能力が強くなっていったのも、その頃だよ。どうしてそんなことになったのか、いまも謎のままさ。嘘じゃない。本当に分からないんだ。なぜ肌が青くなったうえに、二百五十年も死なずにいるのか、誰も教えてくれない」

「我々が“弟”というのは?」

 私は適当なところで質問した。チェチェ本人を前にすれば、いまの話しもさほど奇怪には思えない。真顔で二百五十年生きていると言われても、それを否定するには、チェチェという突然種の誕生した理由が解明されなければいけなかった。そしてその理由は、本人にも不明だという。

「“弟”? ぼくが、そう言ったのかい?」

 チェチェは身に覚えがないといった様子だ。

 私はマイケルと顔を見合わせた。

「ええ、あなたのそう言う声が、おれやマイケルの頭の中で聞こえていました。レンというノウスも、あなたとの交信でそう聞いたと」

 私が言うと、チェチェは上半身を起こし、膝を抱えてしきりに頷いていた。

「ふうん、これはもう確実だ。ぼくはそんな思念は送ってないけど、どこかで共鳴しあったんだな。ぼくたちの先祖の血が」

「先祖の血が共鳴しあう?」

「つまりその声は、ぼくに触発されて目覚めた、君たちの中の声ってことさ。逆にレンという人には、君たちに触発されたぼくが、無意識にそんな思念を送ったのかもしれない。なるほどサピエンスの君がぼくと交信できるようになったのも、そういうわけだったのか」

 一人納得しながら、チェチェはまた頷いている。

「いまひとつ言っていることが把握できないけど、その前に我々が同族だという根拠はなんですか?」

 私は聞いた。チェチェは、意を得たりという感じで、ふくみ笑いをした。

 空では鷲が翼を広げて旋回していた。獲物を発見した途端、太陽を背にして急降下をはじめる。がさがさっと草陰で物音がし、鷲はネズミに似た小動物を爪で掴んで、再び天に羽ばたいた。狙いをつけてから十秒もかからなかった。見事な手際だ。

「ぼくにはね、サピエンスの兄がいたんだ。ちょうど君たち兄弟みたいにね。親も当然サピエンスだった。まあ、数百年前にはよくあったことなんだ。サピエンスとノウスの兄弟なんてね。で、さっきも言ったように、これはぼくの想像にすぎないんだけど--君たちの何世代か前の先祖は、たぶんぼくの兄なんだ」

 マイケルの言っていた、一本の川の支流という言葉が脳裏に蘇る。

「なぜ、そう思うんですか?」

 訊ねたのはマイケルのほうだ。

「君なら、説明は無用のはずだよ。五年前、砂漠で錯乱状態の君とぼくは交信した。いや、あれは交信なんてものじゃなかった。たとえコミューンの仲間同士でも、あれほどの同調はできない。ぼくたちの魂が親密に触れ合えたのは、共通のルーツと同等の能力を持っているからなんだ。それは、いま君と会えて強く確信している。ぼくたちには同じ血が流れているのさ。君たちの先祖に、イギリス人はいるかい?」

「います」

 私とマイケルは答えた。両親は、ともにイギリス人の血を引いていた。

 チェチェは人差し指をすっと立てた。これが彼の癖らしい。

「ブルース、いまの話しはもちろん君も例外じゃない。マイケルとぼくが共鳴しあった結果、マイケルのそばにいる君もその影響を受けた。知らずに触発されていたんだよ。もっとも先祖の能力を持つ者なら、そんなのは当然だけどね。だからサピエンスの君と交信できるようになったんだ」

「おれには舟を飛ばすことも、蛍を操ることもできないけど」

 私は、自分が能力を持っていることを否定した。

「うん、あれにはびっくりした。ぼくだって蛍を使ってマイケルに精気を送れるなんて思わなかった。咄嗟の閃きだったんだ。きっと三人がそれぞれを刺激しあっている」

「三人?」

 チェチェは人差し指を私に向ける。

「そう、ぼくとマイケルと、そして君。だって考えてもみなよ。あんなものすごいマラリアの汚染地帯を通って来たのに、なにもなかったなんてさ」

「あれは、あなたが・・・」

「違うよ。荷袋にサソリがいたことは偶然感じ取れたけど、いくらなんでもあんな大量のマラリア蚊を防ぐなんてできるわけがない。それに、四六時中君たちを見守っていたわけでもないんだ。コミューンでの役割もあるし、睡眠も取らなきゃいけないからね」

「じゃあ、マイケルが・・・」

 チェチェは人差し指を左右に振る。

「君が自分で守っていたんだよ、ブルース。たぶん、ノウス並みの抗体を身につけたんじゃないかな。ぼくとマイケルのものよりは弱いけど、君にも絶対に能力がある」

 自信たっぷりに言うチェチェを、マイケルがきっと見据えた。

「蛍からあなたの精気をもらったとき、夢を見ました。いや、正確には夢じゃないんでしょうね。先祖の遠い記憶が断片的に、眠っている私の中で再生されたんです。起きてから兄に事情を聞いたとき、なんとなくあなたと私たちとの繋がりが見えました。だから、あなたが同族だという話しを、私は受け入れましょう。でも、肝心のところがまだ分からない」

「それは、我々がどうして常人にはない能力を持っているのかについてだね?」

 チェチェは気難しそうな顔になって、マイケルに問い質した。

「そうです。私はその能力の秘密を知りたいんです」

「ぼくたちにはね、“エージェント”の血が流れているのさ」

 チェチェは立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。

「“エージェント”?」

 私とマイケルは、オウム返しに聞いた。意味不明な言葉だ。チェチェと話していると、自分たちのペースが掴めない。

 私も立ち上がり、彼の横に並んだ。草いきれがする。初めて二本の足で立ったとき、猿もこの蒸れた緑の匂いを嗅いだのだろうか。そして青い猿は、直立の視線の先に未来を見ることができたのだろうか。

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