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一章 サピエンスを求めて 4

 やがてコミューンから離れるにつれ、私の胸中には不安が募ってきていた。そのひとつが放射能汚染地帯だ。我々の住んでいた地域にも原子力発電所があったが、図書館の資料によると二十一世紀中に廃炉処理が施されていたため、放射能による影響はなかった。だが、外の世界が安全だという保証はどこにもない。文明の崩壊する中ですべての施設がきちんと処理されたとは限らないし、そのような土地の周辺では放射性物質が今もって残留していることになる。すべての原子炉が生み出したプルトニウム239などは、たとえ二十万年以上を経たとしても高い放射能を放出しているのだ。知らないうちにその毒牙にかかってしまう可能性は、決して低くはなかった。

 もうひとつの不安は、マイケルの出産期のことだ。ノウスはだいたい十八歳から二十五歳の間に子供を一人か二人、出産する。〈コール〉があっても私と旅をするというなら、その間に受胎するかもしれない。正直に言って、それは望ましい展開ではない。子供が生まれでもしたら、しばらくどこかに釘付けになってしまうだろう。〈コール〉を受けたら、やはりマイケルをノウスのコミューンに行かせるのが賢明だった。

 故郷のコミューンを発って二日が経っていた。すっかり日が暮れた森の中で、我々は一夜を明かすことにした。荷を下ろし、地図を広げてルートの確認をする。

「やはり東欧から黒海、そこからイラン、パキスタンと抜けて行くのがいちばん近道だ。かつて中東と呼ばれた地帯は二十一世紀に大掛かりな戦争があったそうだが、別ルートのヨーロッパの一部や中央アジアでも紛争が起きている。核施設だってこのあたりはいっぱいあった。四百年以上経っていても、危険なのはどこも変わりない」

 ルートの概略を説明しながら、私は道中で仕留めた兎の肉をライ麦パンに挟んで食べた。

「地図だけじゃ、情報が不足しているってことだよね。それにルート上にどの程度、ノウスのコミューンが散在しているかも大切なんじゃないかな?」

「ああ、その通りだ。途中にコミューンがあれば休憩もできるし、食料だって譲ってもらえる。でも、地図にはそこまで書かれてないからな」

 私は苦笑いして答えた。地図は二十二世紀のもので、その当時にはノウスだけのコミューンは存在していない。ただ湖や森、草原などの位置が分かれば、その周辺にコミューンがあるかもしれない。なくても、自然が食べ物を恵んでくれるだろう。

「試してみるよ」

 マイケルは食事を中断し、背中越しにある太いブナの木に寄りかかった。肺からゆっくりと息を搾り出し、深く目を瞑る。精神を集中させて、誰かと交信をしようとしているのだ。私は邪魔をしないように、おとなしくその様子を見守った。交信といっても、不完全なノウスの能力では暗闇を手探りするようなもので、たいした成果は期待できない。それでも指先がなにかに触れて、幸運な偶然をもたらすこともある。

 交信しているのか、していないのか、マイケルは時折首を前後左右に動かした。その動きにつられて、身体も小刻みに揺れていた。まるでうたた寝をしているようだった。彼の意識はどこをさ迷っているのだろう、と私は考えた。夜の森では、葉の一枚一枚でさえ意思が宿っているように感じられる。物心がついた時から、森には目に見えないなにかが存在している気がしてならない。それは自然に対する畏怖心によるものかもしれないが、マイケルの精神集中する姿は同様に私を少しだけ落ち着かない気分にさせた。

 集中は異様なほど長かった。穏やかだった表情には、海の底に潜っているような緊迫感がじわりと漂っていた。しかし私には、マイケルが誰かと繋がっているのか、釣り糸を垂れるようにじっと交信相手を待っているだけなのかも分からない。ただ徐々に呼吸が乱れはじめているから、かなりのストレスを堪えているのだろう。眉間に深々と浮かんだ皺がそのことを物語っていた。そこまで苦悶して交信する姿を見るのは初めてのことだった。ルートの情報を得るために、マイケルも懸命なのに違いない。

 硬直した全身から一気に力が抜けはじめたのを合図に、マイケルは交信を終えた。目をしばたかせ、森の空気を思い切り吸い込む。マイケルの顔には、なにやら充実感が漂っていた。

「ドナウ川と黒海、カスピ海、それにイラン高原。だいたいこの辺りにはコミューンが散在しているみたいだ。でもこれは、たぶん一部。ほかのエリアにもコミューンがあると思うよ」

 地図で場所を確認して、マイケルは言った。

「そこまで感知できたのか。上出来じゃないか」

 複数のエリアにコミューンがあることが分かって、私は率直に喜んだ。マイケルは交信が無理でも、広範囲に渡ってコミューンの存在を突き止めた。大きな成果だった。

「それと周辺のイメージも伝わってきたんだけど、どこのコミューンも自然環境はよさそうだよ。食料の補給にも応じてくれるってさ」

 やや間を置いてマイケルは言った。

「おまえ、そんなことまで分かったのか? まさか、おれを安心させようと騙してるんじゃないだろうな」

 私は唖然とした心持ちでマイケルを見た。私の知る限りでは、いかにノウスといえどもかなり調子がよくなければ、そこまで強く交信できないのだ。相手が近くにいるならともかく、風景のような視覚的イメージが伝わってきたということは、それだけ他者の精神に深く入り込んだという証拠だ。いま考えれば、マイケルはこのときすでにチェチェの影響を受けはじめていたのかもしれない。

「きっとこの森のせいだよ。なにか力強い精気が頭の中をきれいにしてくれるんだ」

 私の驚きを楽しむように、マイケルは無邪気に答えた。

 ともあれ、私は一安心した。とりあえずはノウスの協力が得られることが分かったのだ。

「それにしても、昔はいろいろな名前の国があったんだな」

 世界地図は各国を色分けして表示していた。そこにはあらゆる国や都市の名前のほかに、空港施設や鉄道網などが描かれていた。しかしパズルのピースが抜け落ちたように、地図にはところどころで空白がある。山脈や川の名前は書いてあるのに、国名や都市名もないのだ。きっと国が機能しなくなったためだろう。ここでどんなことが起きたのか、私には想像することすら辛かった。

 だが、言うまでもなく、いまの時代はすべてが空白地帯だ。国などというものは存在しない。私やマイケルが言っている地名は、たまたま地図にそう記されているから使っているだけだ。この世は、すべて空白なのだ。

 マイケルはいつの間にか寝息をたてていた。長い集中で疲れたのだろう。私は焚き火に枯れ枝をくべ、マイケルに鹿の皮をなめした上衣を掛けてやった。

 木の根を枕にして横になったが、妙に頭が冴えていた。無理やり目を瞑ると、コミューンの人々の顔が浮かぶ。仕方がなかったんだ、と私は呟く。おれには故郷を捨てるしかなかったんだ、と。

 どうしても寝つけずに身体を起こし、深い闇の一点をぼんやりと見詰めた。闇はすうっと近づいてきて、やがてぽっかりと口を開け、私を吸い込もうとする。そこは月の明かりも届かない、語りかける相手もいない、暗黒の世界。ふいに私はどうしようもない孤独感に駆られ、一人嗚咽を漏らした。


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