三章 ナイルの奥へ9
サッドは夜のとばりに包まれていた。空には星がきらめいている。マイケルの疲労が激しかったので、我々は舟を漕ぐのをやめ、小さなアシの浮島で野宿することにした。
「なあ、マイケル。さっき、どんな気分だった?」
干し肉を渡し、私は恐る恐るマイケルに質問した。そっとしておくべきか迷ったのだが、なにも見なかったような態度でいられるほどまともな出来事ではない。それはかえって不自然だし、たった二人なのに変なしこりを残すのも後々困る。
「そうだねえ・・・パッと閃いたんだ。カバがどかないんなら、空を飛べたらいいなって。閃いたというか、軽く思った程度だね。そんなことができたら、暑い中でじっとしていなくてもすむのにってさ。私にもいつ舟が宙に浮いたのか分からなかった。前触れもなく雷が落ちたみたいなものすごい衝撃がきて、頭の中が勝手に念じていたんだ」
マイケルはそう言うと、胸の底の澱を吐き出すように大きな咳をした。食欲が出ないのか、干し肉に口をつけようとしない。
「念じていたって、どんなふうに?」
「さあ。具体的にどう言ったらいいのか。もしかしたら、舟が飛んでいるところを強くイメージしていただけなのかもしれない。深いところで、意識が弾ける感じがして・・・その後は自分が自分ではないようだった。本当はよく覚えてないんだよ」
「もう一度できそうか?」
私は試しに聞いてみた。
「嫌だよ、できない。すごく疲れているんだ。あんなの二度と御免だよ。兄さん、私は自分が気持ち悪い」
マイケルはずいぶんと滅入っていた。焦点も定まっていない。当たり前のことだ。誰だって突然、あんな特殊能力に目覚めたら混乱してしまう。冷静に状況を説明できるだけでも、たいしたものだった。
「“彼”が言ったんだ。怯えることはないって。だから心配するな。悪いことなんて、なにも起こらないさ。そりゃ、おれもちょっとばかりパニックになったけどな。でも、いまはこうして空にちゃんと星が見える。いつもと同じだ。さっき起こったことなんて、ちっぽけな出来事なんだ」
私はマイケルをなだめた。
「ありがとう。兄さんがふつうに接してくれて、助かるよ。でも心配しているとか、そういうのじゃないんだ。私は何者なのか。それが知りたいんだよ」
「おまえには確かに、変化が起きているんだろう。だけどそれは、おまえが別人になるということじゃない。そうだろう? いままでの経験や記憶、人格はすべてそのままだ。それが、おまえという人間だ。“彼”の存在も関係ない。おまえの本当の兄弟は、おれだけだよ」
そうだね、とマイケルは薄く笑った。しかし体調が悪いのか、その声は抑揚がなく沈んでいる。私は浮島の上で仰向けになった。
夜になっても湿気は治まらなかった。体力を消耗した身体に、沸騰したゼラチンのような重い空気がのしかかる。昼夜を問わず息苦しい。身体がまいる前に、神経がいかれてしまいそうだった。
マイケルは干し肉をやっと三分の一ほど食べると、荒い息を吐きながら倒れ込んだ。目を開けていることすら辛そうだった。
「具合、大丈夫か? いま薬を煎じてやるから」
私は、辛うじて半目を保っているマイケルに呼び掛けた。
「だるいよ。身体がいうことを聞かないんだ。ここは暑すぎて・・・」
マイケルはうなされながら、眠りに落ちていった。




