三章 ナイルの奥へ4
それからも我々は炎熱の砂漠地帯で決死行をつづけ、アフリカの奥地を目指した。たった二人で渡り歩けるような環境ではないのに、野垂れ死ぬ気がしなかった。肌は火ぶくれをおこし、脳味噌が溶けそうなくらいに暑い。体力も極限までに消耗していく。土地は徹底的に乾燥し、ナイルからわずかにでも外れた場所では、生命の存在が極端に希薄だった。熱砂では小さな虫がうごめいているが、空にはハゲタカすら飛んでいない。死にかけた獲物さえ、ここにはいないのだ。とても生き延びられる世界ではないが、我々は生き延びた。
アスワン・ハイ・ダムで舟を捨てたとき、マイケルは山で遭難しても心の支えがあれば助かるのだと言った。私はその意味を実感した。
サソリの声を聞いてからというもの、私の気力は暗示をかけられたように衰えることがなかった。このまま地べたに倒れ込んで、いっそう流砂に埋もれてしまいたいと思っても、膝は崩れずに一歩一歩前に踏み出した。私はモーゼで、“彼”は神だった。すべての体力が風に奪い去られたときには、“彼”が腕を掴んで支えてくれると信じていた。たった一度の短い交信だったが、危機を感じ取ってくれる相手がいるだけで心強くなる。いや、そんな簡単なものではないのかもしれない。“彼”の放つ超常的な存在感が、私に旅を放棄することを許さなかったのだ。
“彼”の下へ辿り着くこと。
私には、いつしかそんな使命感が芽生えていた。その絶対的な目標が精神的な血肉となり、旅を支えていた。
そんな具合に命からがら砂漠地帯をやりすごし、我々はスーダン中部に到達した。恐るべき不毛の大地も、この辺りまで来るとナイルに大小多数の河川が注ぎ込み、いくらかの潤いを見せている。ノウスのコミューンもある。我々は久し振りに、砂漠の野宿から解放された。
私とマイケルが厄介になったのは、ムカマとチャンダギというノウスの家だった。二人とも黒い肌を持ち、二メートル近い長身だ。ムカマには一歳半くらいの子供がいた。
「このコミューンにお客が来るなんて珍しいことですが、それがサピエンスとはね」
ざっくりと割れた西瓜を差し出して、ムカマが言った。すでに聞き慣れた台詞だった。
「それにマイケル、あなたの気配はとても変わっている。ちょうどサナギが成虫になるために力を蓄えているような、そんな印象を受けますね」
「もしかして、あの人となにか関係が?」
チャンダギが長躯を縮めながら、おずおずと聞いた。
「あの人って?」
マイケルが、ひょっとしてというニュアンスを混ぜながら聞き返した。
「会ったことはないけど、このずっと南に強い精神波を持った人がいるんだ。君の気配はその人のとよく似ている」
「たぶんそれは、私たちの目的地にいる人のことでしょう。なぜか私と兄さんを“弟”と呼んでいるんです」
マイケルは、覚束ない足取りでそばを歩いていたムカマの子供を抱きかかえ、膝の上に乗せた。子供は舌たらずな発音で、しきりにマイケルに話し掛けた。顔を知らない来客に、興奮しているだろう。死産した子が育っていれば、これぐらいの年齢になっているはずだった。
「この子の名前は?」
「クセタです」
さっきまではしゃいでいたクセタは、あっという間にマイケルの膝の上でうたた寝をしていた。
「子供は正直ですね。あなたに抱かれて安心しきっている」
「え?」
マイケルはクセタの髪を撫でる手を止めた。
「マイケル、私たちの生活はナイルとともにあります。ナイルには魚もいるし、洪水があれば栄養分を含んだ土を運んで来てくれます。ナイルなくして、私たちは暮らせない。あなたとあの人の気配からは、そんなふうな力強さと優しさを感じます」
マドラスを出た後、立ち寄ったコミューンでも決まって似たことを言われたものだ。同時に“彼”を感知している人間も、目的地に近づくにつれ増えていた。中東地帯ではその数もまばらだったが、この辺りでは常に“彼”の強力な精神波の影響を受けているのだろう。ムカマがナイルを譬えに持ち出したのは、自分たちの日常がそっと見守られているような安心感があるからだった。
マイケルは立ち上がり、柱に吊り下げられたハンモックにクセタを寝かしつけた。自分の気配が変化しつつあるという自覚は、マイケルにはあまりないようだった。
「私と兄さんは、三年以上も困難な旅をつづけてきました。外の世界は、あなたたちが想像する以上に陰惨なものです。いつ死んでもおかしくなかった。それでも無事にここまで来られたのは、“彼”と仲間たちのお陰です。“彼”の能力は特別だけど、私はその力を少し与えてもらっているだけですよ。私の記憶を見てみますか?」
「ええ、興味があります」
ムカマとチャンダギはこめかみに手を当て、マイケルの旅の記憶を探りはじめた。そばにいるから同調は難しくないが、見るのには長い時間がかかった。我々の苦難の歴史は、かれこれ五年半ほどになる。
「シャクティか、可哀想な人だ」
同調が終わった途端、予期せぬ名前が出たので、私は一瞬うろたえた。チャンダギは大きな掌で、私の膝を軽く叩いた。
ムカマは腕を組み、溜め息をついていた。
「そうですか。子供を亡くしていたんですか。気の毒なことをしました」
「それにしても外の世界は、すごいものだ。海なんて私たちは見たことがない」
チャンダギとムカマは顔を見合わせて微笑んだ。
クセタのぐずる声が聞こえた。浅い眠りから目覚めてハンモックから出ようとしているのか、手足をバタバタと動かしている。ムカマは愛しそうに我が子を抱きかかえ、粥状のスープを匙にすくって飲ませた。
私は小用をすますついでに家を出て、辺りをぶらついた。ここはナイルの本流からやや外れたところに位置し、その支流に沿って赤褐色の花穂をつけたモロコシ畑がある。対岸は潅木の生えた砂原で、牛が放牧されている。このコミューンの人たちはふたつのグループに分かれていて、片方は季節によって牛とともに別のキャンプに移り住み、遊牧生活をするのだという。
ムカマとチャンダギはベースに残って、モロコシを栽培するグループだった。彼らの住居はいささか風変わりで、土壁を塗り固めた箱型の造りなのだが、高さが二メートルそこそこしかない。住人のほとんどが一メートル八〇以上はあることを考えると、あまりにも天井が低い。家に出入りするときは、わざわざ腰を屈めなければいけないのだ。チャンダギによると、その不便な構造は砂嵐への防御対策なのだという。
確かにこの辺りでは、突発的に砂嵐が吹き荒れる。強力なものになれば、地響きをたてながら木々をへし折り、あらゆるものを天空に吸い上げる。人間だって巻き込まれたらただではすまない。
そして砂嵐は気紛れだ。いつ彼らの居住地を直撃するとも限らない。住居はそんな緊急時の避難場所でもある。だから砂嵐に飛ばされないように重心を低く造っているのだ。
またそれぞれの住居の前には、背の高い壷が置かれていた。ふつうと違う点は、穴の開いた専用の台があり、そこに壷を嵌め込む仕組みになっているところだ。これは気化熱を利用した冷却法だった。水は蒸発する際に外部から熱を吸収していく。壷は素焼きでできていて、炎天下にさらしておくと表面から水が染みだし、蒸発する。このとき壷の水は熱を奪われ、ひんやりと冷たくなるのだ。私は同じ仕組みの壷を、いくつかのコミューンでも見掛けたことがあった。
いまでもサピエンスの知恵は、こうして部分部分で生きている。




