一章 サピエンスを求めて 3
二十三歳のとき、私の住んでいたコミューンは全滅した。両親も、ほかの住民たちも、病や寿命で次々と土へと還り、人類復興は夢物語に終わった。最後に死んだのは羊の放牧役をしていたマルーシュカという女性だった。重い風土病にかかっていたので、私はマイケルに彼女を看病させた。
マイケルは私の弟で、ノウスだ。ノウスに男女の性別はないが、一般的に「弟」とか「彼」などの男性称が用いられている。昔ノウスには男性的な外見が多かったためらしいが、定かではない。
マイケルにマルーシュカを看病させたのは、ノウスがあらゆる病気に感染しにくいからだ。同じ母体から生まれても、ノウスとサピエンスとでは血液や免疫抗体の仕組みが違う。天然痘やコレラなどの悪性の疫病にもかかりにくいうえ、汚染にも強い。実際彼らは私には住めないような土地で暮らしていることもある。
マイケルは山から薬草を採ってきたりして、献身的にマルーシュカを看病してくれたが、病状は悪化するばかりだった。すでに手遅れなのは承知していた。ただ、この世にいるサピエンスが自分一人になるのかと思うと、どうしようもなく怖かった。
「兄さん、残念だけどマルーシュカはもう長くないよ。ここにいるのは私と兄さんの二人だけになってしまう」
ある夜、マイケルは私にそう告げた。私が様子を見に行ったときも、マルーシュカはもはや呼吸をするのがやっとで、起き上がることもできなかった。目の色は灰色に濁り、一日の大半は意識がないという。我々にはこれ以上、彼女に施してやれる手段がなかった。
「マイケル、おれは旅をしようと思う」
意を決して、私は切り出した。ずっと以前から考えていたことだ。ここで畑を耕して生きていくにしても限界がある。怪我でもしたら、すぐさま飢えて死んでしまうだろう。結局残された道は、コミューンを出るしかないのだ。
「旅をして、どうするの?」
「まだほかに生き延びている人たちがいるかもしれない。ここでなにもしないで死を待つよりは、仲間を探したほうがいい。どれだけ外の世界が危険でもな」
マイケルは無表情のままだった。おそらく彼は、私の考えを予想していたに違いない。そして今、私が伝えた言葉の裏には、マイケルとの決別の意が込められていることも感じ取っていただろう。
「兄さんは、きっと一人で旅をするつもりなんだろうね。でも私も付いていくことにするよ」
今度は私が予想していた答えが返ってきた。ずっと一緒に暮らしてきた身内同士なら、当然のことだ。マイケルは私の旅をサポートするつもりでいる。しかし、私にはそれを受け入れられない理由があった。
そのときマイケルは十五歳になっていたのだが、その年頃になるとノウスはみんなコミューンから離れていくのが常だった。サピエンスが、彼らを追い出すわけではない。そんなことをしても貴重な労働力を失うだけだ。彼らはある日突然、天に導かれるかのように我々の下を去り、別のノウスのコミューンに移住していった。だから、最終的にはマイケルも仲間のところで生活するつもりなのだろうと、私は考えていた。
「おまえはノウスのコミューンに行くんじゃないのか? 旅はそれまで待つつもりだ。すぐにじゃない」
「まだ〈コール〉がないんだ。それに〈コール〉があっても、行かなくちゃいけないわけでもないし」
「〈コール〉があっても行かないのか? 仲間と暮らしたほうが幸せだろう?」
私は問い質した。
「そのときになってみなければ分からないけど、兄さんを一人にさせるなんて。ましてや旅をするなら命懸けじゃないか。二人で助け合ったほうが、ほかの人が見つかる確率も高くなる」
「おまえのほうこそ、へたに旅なんてしたら新しい移住先から離れてしまうかもしれない。それこそ命取りになりかねないぞ」
「構わないよ。あるいは近づくかもしれないし。ほかのノウスはこのコミューンを出て行ったけど、それはまだサピエンスの仲間が残っていたからだよ。でもマルーシュカが死に、私が出て行ったら、兄さんは本当の一人ぼっちになってしまう。そんなのは、兄さんだって望んでないだろう?」
私はマイケルに感謝しながらも、素直に納得することはできなかった。マイケルの話したとおり、いままで〈コール〉があってもコミューンに残ったノウスは一人もいないのだ。だいいちに、そのためにコミューンの人口は減っていったのだから。
〈コール〉とは、ノウス特有の能力のひとつだ。サピエンスと暮らすノウスは、ある程度成長するとテレパシーのようなものを受信する。世界には何百ものノウスのコミューンがあるらしいが、そのうちのどこに行けばいいのかを感知するのだという。たいていのコミューンは我々の住んでいるところから遠く離れていて、無論お互いに面識もない。そこに住んでいる者たちの名前や人となりすら知らない。それなのに〈コール〉を受け取ったノウスは、未知のコミューンに迷うことなく辿り着けるのだという。
私は一緒に暮らしていたノウスが〈コール〉を受けたとき、その心境について訊ねたことがある。彼は「お互いの気持ちが呼び合っている」と、夢を見ているような顔で答えた。
そんな事情もあり、私はとりあえずマイケルの同行を保留にした。しかしいくらマイケルが主張したところで、彼に〈コール〉が訪れたと同時に旅立つという気持ちは変わらなかった。それがお互いにとって、もっとも自然な道のはずだ。私はサピエンスとしての死に場所を求め、マイケルはノウスとして安住の地へと赴く。お互いを待つ未来は、朝日と夕日ほどの違いがあるのだ。
数日間、私は無為のままに過ごした。畑で働き、羊を放牧し、パンを焼き、近くの川で魚を釣った。雑草を刈り、山でマルーシュカのための薬草を採り、それを煎じた。いつもとしていることは同じだが、私はどこかに大きな隙間を抱えていた。まるで人形になったみたいに、感情が薄れていく。マルーシュカの容態と歩調を合わせるかのように、私の心は枯れていった。
看病から戻ったマイケルが、いよいよマルーシュカが危篤を迎えたと私に伝えた。
「彼女、苦しんでいるのか? 最期は、おれが看取ってやらないとな」
「もう少しは持つと思う。明日か明後日が山だろうね。まだ辛うじて意識はあるから、言うことがあるならはやいほうがいい。私は今晩、彼女の家に泊まるから、もしものときは呼びに来るよ」
さっぱりとした口調だった。私と同様、すでに心の準備を済ませているのだろう。
「マルーシュカは、きっとおれの行く末を案じている。だから、はっきりと伝えておきたいんだ。おれが旅に出ることを」
「実は、そのことで朗報があるんだ」
「朗報? こんなときに、一体なにが?」
テーブルに乗せた蝋燭が、マイケルの表情を照らしていた。嬉しそうな顔を見るのは、久し振りのことだった。
「ついさっき、マルーシュカの家を出ようとしたとき、誰かの意識が教えてくれたんだ。どこかの町の廃墟で、サピエンスを見掛けたって」
「なに?」
一瞬、言っている意味が分からなかった。言葉が見つからない私に、マイケルが地図はあるかと聞いた。私は慌てて棚に保管してある世界地図を取り出した。図書館から拝借してきたものだ。
「どの辺りか分かるか?」
急激に胸が高鳴り、祈るような気持ちで私は聞いた。
「波長が弱かったから自信がないけど、たぶんこの辺りだと思う。」
マイケルが指差したのは、インド亜大陸の南端だった。
「その相手とは、もう一度交信できそうか?」
「いや、何度か試したけど、駄目だった。でも教えてくれた人は、きっとほかの土地に住んでいるよ。旅をして近づけば、もっと詳しいことが分かるかもしれない」
ノウスは〈コール〉のほかにも、遠隔地にいる不特定多数の相手と意思の疎通ができる能力を持っている。簡単な信号(悲しいとか、嬉しいとか、淋しいとかの基本的な感情)ならいつでも感じ取れるそうだが、それ以上になるとコンディションによってかなり波があるらしい。すべてのノウスはこのスピリチュアル・ネットワークを通じてひとつに繋がっている。たとえ地の果てにいようとも、彼らは一人ではないのだ。
この能力を利用して、我々はサピエンスの生存の有無を確かめようとしたのだが、歓喜すべき結果は得られなかった。それらしき情報が入ってくることもあるにはあった。しかしそれらははっきりとした所在が掴めなかったり、所在が掴めたとしてもアメリカ大陸やオーストラリア大陸からのコンタクトであったりした。いずれにせよノウスの能力は不完全なものだし、得られた情報も漠然としていた。噂話に毛が生えたようなものだ。そんなもののために、命を賭けてまで大西洋やインド洋を渡る気などなれはしない。我々には航海術も造船技術もないのだ。
「ということは、おまえにサポートしてもらうしかないというわけだな」
「そういうことだね」
マイケルは、ほっとしたような笑顔を見せた。
インドの南部といっても広大だ。せめてサピエンスが目撃された土地の名前を知りたい。情報提供者のノウスとも会うことができれば、それ以上に有益な情報が得られるかもしれない。そのためには、どうしてもマイケルが不可欠だった。
「本当はおまえを説得して、一人で旅に出るつもりだったんだが。仕方ないな。でも、おまえはそれで後悔はしないのか。おれの我侭に付き合わなくてもいいんだぞ」
「我侭だなんて思ってないよ。兄さんの無事を見届けたら、私も自分の場所へ向かうから」
私は、ありがとう、と小さな声で礼を言った。しなびた心に水を与えてもらった気分だった。
「インドか。やっと地つづきの場所に可能性が現れた。駄目でもともとなんだ、行くしかないだろう」
私のなかで、希望という名の光が目を覚ましつつあった。それはおそらく、生まれて初めて体験する高揚感だった。
マルーシュカが息を引き取ったのは、その二日後だった。いまわの際、インドにサピエンスがいるらしいことを伝えると、彼女はこう言った。
「ブルース、これであなたを一人ぼっちにしないですみそうね。安心してみんなのところに行けるわ」
気管を患い、声にならないような声だった。それでも彼女の満たされた微笑みは、とても最期を迎えるとは思えないような優しさをたたえていた。
「いままで、ありがとう。あなたに、このことを報告できてよかったよ」
私は安らかに眠りつくマルーシュカに、お別れの声を掛けた。その表情は春風のように清らかで、二度と目を開けないですむ彼女がとても幸せに思えた。
マルーシュカは私の母と仲が良く、私やマイケルを実の子のように可愛がってくれた。ショーンという名のノウスを一人産んだが、彼は私の幼馴染でもあった。ショーンは七年前に〈コール〉を受け、ほかのコミューンに移住した。なにかの偶然で彼女が天に召されたことを感知し、彼方で悲しんでいるかもしれない。そうあってくれればいい、と私は願った。
マルーシュカの亡骸を土に還し、旅の支度を整えると、私とマイケルはコミューンに別れを告げることにした。背負った荷袋の中には三日分の干し肉とパンのほかに、薬草や磁石、肉切りナイフ、地図などが入っていた。それぞれ槍を手に携え、防寒用の毛皮と弓を荷袋にくくりつけていたが、これが長旅に適した装備なのか我々には自信がなかった。あまり荷物を増やしてもいけない気がするし、逆に手持ちの荷物だけでは不充分なのではと心細くなる。私もマイケルも、旅に関する経験はまったくのゼロだった。
「さよなら、だな」
コミューンの中心部である広場に立ちすくみ、私は言った。改めて言葉にすると、自分のしようとしている事の重大さにはっとしてしまう。我々は、もう再びこの故郷に戻ってくることはないのだ。生きるにせよ、途中でくたばるにせよ。
「そうだね」
マイケルが短く相槌を打った。
ついに住人のいなくなった木造の家々を、いまさっき降りだした霧雨が冷たく濡らした。軒越しには山の斜面に拓いたちっぽけな麦畑。毎年、森の落葉樹が金色の葉をまとい、秋が深まる頃になると、総出で刈り取った穂を脱穀したり、野に落ちた木の実を集めたりして、冬越えに備えたものだ。我々は雪に閉ざされた厳寒をしのぐために、大量の薪を用意しなければいけなかった。その季節、私は手のマメが潰れ、あかぎれができようと何万回となく斧を振り下ろし、ひたすら薪を割った。
そんな私に、母は羊の毛で編んだ手袋をプレゼントしてくれたことがある。父とマイケルにも靴下が贈られたが、私は薪割りで荒れた手を気遣ってくれる母の優しさが嬉しかった。
その協力者でもある羊たちは、マイケルによって柵から放たれ、いつもの牧草地へと散らばっていった。彼らの数も飼い主と歩調を合わせるかのように、たった六匹に減っている。私が子供だった頃には三十匹近くもいたのに。羊たちは自由の身になったとも知らずに、草を食みつつも我々の影を横目で追っていた。
灰色の雲の塊が気流に押しやられ、ピラミッド型の山頂が現れた。雄々しくとがったその威容は、どこか頑強な意思をイメージさせる。私は生まれた時から見慣れてきたこのシンボリックな山が好きだった。
「そろそろ行くか」
強く後ろ髪を引かれる思いで、私は号令を発した。
私とマイケルはそして、後戻りのできない一歩を踏み出した。