三章 ナイルの奥へ2
それからおよそ一週間後、エジプト南部に差し掛かると回避不能な障害物が現れた。アスワン・ハイ・ダムだ。
すでに機能を失っているとはいえ、ダムは我々の行く手を完全に阻んでいた。お手上げだ。私は舟から降り、マイケルを待機させて、ダムを偵察した。
それは理不尽なほど大掛かりな建造物だった。ダムの手前では川幅がぐんと広くなっているというのに、高くぶ厚い壁がナイルをびっちりと塞いでいる。私はダムの上にある通路を歩いた。対岸に着くまでに三、四十分はかかった。距離にして三キロ以上はあるだろう。つまりダムはそれだけ長い。先人たちの技術力に、私はつくづく感心した。
通路を歩きながら、我々が来た下流のほうを覗いてみた。水力発電用の疎水が間断なく流れている。無論、ダムとしての使命は終わっているので、ただ上流から来た水を流しているにすぎない。ダムを挟んで上流側は、ナセルという人造湖につづいていた。
私は帆かけ舟を譲ってくれたコミューンの人たちのことを懸念した。ダムは野放しにされているから、いずれ決壊する。そのとき人造湖に一旦貯められた莫大な量の水が、一気に下流を襲うことになる。いまも持ちこたえていること自体が、幸運なのだ。
彼らのコミューンはずいぶん下流だし、川岸から離れた場所にあるから、濁流が攻め入っても最小限の被害で食い止められるだろう。それよりも上流では、街の廃墟も古代遺跡も川岸の緑地帯も、大洪水によって壊滅するに違いないが。
私のおぼろげな記憶では、アスワン・ハイ・ダムが建設されたのは五百年以上も昔、二十世紀のことだった。その後も何度か大規模な改修が行われ、アスワン、ルクソールなどの上エジプトに、水力発電による文明の明りを供給しつづけていた。工業生産の要としても重要な占めていたという。
しかし本来の建設目的は別のところにあった。毎年、定期的に氾濫するナイルをコントロールし、農業の生産向上を図ることだ。この目論見によって農産物の収穫量は革命的に増加したのだが、いくつかの弊害も生じた。私の読んだ本によれば、ダム下流の流れが穏やかになり、水温も高くなったため、田に引いた水が淀んでしまい住血吸虫が大量発生したという。住血吸虫とは巻貝を媒介にする寄生虫の一種だ。感染するとまず肝臓障害をおこし、腹水がたまり、やがて死に至る。だから私はナイルではずっと巻貝を食べていなかった。
いずれにせよ自然というのは油断できない。霧のようにいつの間にか背後に忍び寄り、その足元に種を撒くのだ。
「駄目だ、舟は諦めるしかない」
私はマイケルのところに引き返すと、そう告げた。舟旅が快適だっただけに、意気消沈してしまう。
舟を担いでダムを渡ることができればいいが、我々には川岸に引き上げることさえほとんど不可能だった。川岸は緩やかに隆起して陸につづいているから、丈夫なロープと車輪のついた荷台があれば、二人でも重い舟を運べるかもしれない。しかし辺りはまばらに草が生えているだけの赤茶けた大地だ。利用できそうなものなどなにもなかった。
「じゃあ、歩いていくしかないね」
ダムを恨めしげに見上げる私に、マイケルは割り切って言った。
「やむをえないな。明日からまた徒歩の旅だと思うと、正直嫌になってきたよ。今日はここで、ゆっくりしよう」
我々は近くに廃屋を見つけ、そこを寝床に選んだ。家具類をばらして火を焚き、途中で釣った六十センチほどの魚を串焼きにした。
「ところでさ、シャクティが死んでそろそろ三年じゃなかったかな?」
魚の骨にしゃぶりつきながら、唐突にマイケルが言った。
「三年? そうだな、それぐらい経つな」
私は腰紐の袋を手に取った。布越しにさらさらとした髪の感触が伝わる。正確には、三年と十二日だった。荷袋の中には手制の暦帳がしまってある。マイケルの前ではとぼけてみせたが、私はシャクティのことをかたときも忘れたことがなかった。
三年の年月は、ほぼマドラスを出た後の日数でもある。インド亜大陸を横断し、中東地帯を渡り歩き、スエズ運河を越えてアフリカの土を踏んだのがついこの間のことだ。いままで以上に厳しい旅だった。地獄を歩くほうがまだましというものだ。私は道中で二度マラリアにかかり、マイケルは自分の子を死産した。逆算すれば受胎したのは例の事件のおよそ半年後だが、身重の身体で放浪生活をつづけたのがたたったのかもしれない。赤ん坊はノウスだった。シャクティの研究は結局、失敗だったのだ。
シャクティの一族、ヘーラのいたコミューンの人々、そして生を受けるはずだったマイケルの子供とシャクティ自身。目的はどうあれ、結果を伴わない犠牲はあまりに儚い。
マイケルはあらかじめ覚悟していたのか、死産の後遺症はないようだった。さすがに一週間ほどは立ち直れずにいたが、それを過ぎると、むしろ日ごと精力的になっていく気さえした。あるいはそれは、体力的なピークを迎えていたからだとも言える。マイケルは旅の間に二十歳の立派な成人になっていた。しかしそうしたことを加味しても、マドラスを発った頃のマイケルと、いまの彼とではまったくの別人だった。わずか三年の間で、マイケルを取り巻く空気ががらりと変わってしまったのだ。マドラスを発つ前、レンが指摘したとおりに。
「目的のコミューンまでは、まだずいぶんかかりそうだよ。この先はどうなっているのかな?」
私は首を横に振った。
「楽じゃないだろうな。アフリカ大陸は広いうえに、奥に進むほど生存条件が厳しくなる。おまけに我々はこの土地の水に慣れていない、もっともか弱い存在なんだ。無事にコミューンに辿り着ける確率なんて、蝶が海を渡るのと同じくらいなんじゃないか」
マイケルは唇をよじらせて、含み笑いをした。私と違って、はっきりと余裕を滲ませている。
「兄さん、たとえば山で遭難したとき、なにが生と死の分かれ目になると思う?」
「食料がなくなったとき」
私は少し考えてから、そう答えた。
「それもひとつだけど、もっと大切なことがある。心の支えがなくなったときだよ」
ふうん、と私は唸った。まあ、確かにそれもひとつの道理ではある。
マイケルはぱんと手を叩き、言葉をつづけた。
「私は引力のように〈コール〉に吸い寄せられて、ここまでやって来た。近づけば近づくほどその力は強くなる。兄さん、ここにいるのは私たち二人だけじゃないんだ。常に彼らも一緒にいてくれている。兄さんも〈コール〉を受けているんだろう」
「おれのは、おまえとは違うものだよ」
私は言ったが、旅をつづけるに従って、私を“弟”と呼ぶ者のささやきがはっきりと身体の内側で共鳴するようになっていた。誰かが私の心の中に棲みついていた。かすかな息遣いが、私の鼓動と重なる。じっとその声に耳を澄ませていると、漠然とだが“彼”の気配を感じ取ることさえできた。
“彼”の気配は、私に春の海を思わせた。穏やかですべてを包容する優しさに満ちあふれているが、同時にとてつもない力を秘めている。“彼”に比べれば、私の存在など雨上がりの水溜りみたいなものだった。
レンの言ったことは正しかった。“彼”は聖人のごとく神々しい輝きをまとっていた。“彼”の声に逆らうことなど、できはしない。我々は目に映らない運命の糸にたぐりよせられているのだ。でなければ、誰がナイルを遡ったりするだろうか。
「正直に言ってね、マドラスまでの旅よりいまの旅のほうがずっと楽なんだ。どんなに環境が過酷でも、遠く離れた彼らがいつも支えてくれている。だから私たちノウスは、たった一人で何千キロもの旅ができるんだよ」
私はマイケルの言ったことが納得できた。マイケルは私の数百倍もリアルに彼らの気配を感知している。「極上のシンパシー」はときには荒野を歩く者に生きる活力を与えてくれるのだ。
「おれはなぜサピエンスに生まれてきたんだろう」
砂の舞い上がる川岸を見やり、私は言った。




