二章 呪縛の継承11
我々が暮らす建物の内部は、かなり広かった。三階建ての構造だが、一階だけでも部屋が十四室ある。そのほとんどが使われてなく、机や寝台や用途不明の機械類が放置されたままになっていた。シャクティの先祖は最初、六十人ほどでこの建物に暮らしていたというが、その倍の人数でも軽く収容できる規模だった。
マイケルの指摘したとおり、建物には少なからず異様な雰囲気があった。夜更けにしんとした廊下を歩いていると、足音が冷たく無機質的に反響する。どこからか低く機械音が聞こえてくる。その響きは決して心地よいものではない。建物は生きてこそいたが、そこで生活していると暗い地の底に放り込まれた気分にさせられた。一人で部屋にいるときなどはひどく落ち着かない。あるいはそれは、私が人工的な空間に慣れていないせいかもしれないが。
建物のそばには小さな湖があった。街に人が住んでいた頃は、森を流れる川をせき止め、貯水池として利用していたのだという。河口には赤錆びだらけの水門が残されていた。
私は一日の用事をすべてすませるとその湖に出掛け、水浴びをするのを習慣としていた。蛍光灯の明かりよりも、頼りない月明かりのほうがかえって心を和ませてくれる。物音ひとつしない部屋で染みのついた壁と睨み合っていても、息が詰まるだけだった。
生暖かい風の吹く夜だった。私はいつものように湖畔で着ているものを脱ぎ、水の中に入っていった。かすかな水音を聞きつけて、叢で寝ていた象の親子がこちらの様子を窺う。鼻を持ち上げ、荒い息を吐く。が、私が無害と分かると、巨体を横たえ再び眠りに就いた。
両手両足を伸ばし、ぷかりと水面に浮き漂いながら、私はマイケルのことを考えた。マイケルがアフリカに向かってから、もう二カ月が経とうとしていた。私がノウスならその無事を確認できるのだが、残念ながらそういうわけにもいかなかった。
突然、水を叩く音がし、静寂が打ち破られた。闇の中では、いっそう大きな音に聞こえる。私は水面から頭だけを出し、周囲に注意を払った。五メートルほど離れたところで、小さな波紋が揺らめいている。魚が跳ねたのかと思ったが、そうではなかった。
ふたつの人影が、湖畔から私を手招きしていた。
「やっぱり、あんただったね」
用心しながら近づいた人影から声が漏れた。
「その声は」
相手の顔は、暗闇の中でまだおぼろげだ。しかし、いま聞いた声とずんぐりとしたシルエットには覚えがあった。
「よかった、あんたは無事なようだ」
私はさらに近づき、丸い笑顔に呆然とした。
「レン。なんでここに? 君は確か、パシャスだったか」
影の正体は、ヘーラの同居人レンだった。彼の隣には同じコミューンのパシャスもいた。あまり話したことはないが、顔は覚えている。私は全裸だったのを思い出し、木の枝に掛けていた服を着た。
「あんたが外の世界は面白いというから、後を付けてきた。苦労したよ」
「冗談だろう?」
私は返答に詰まった。ノウスがただの好奇心で旅などするわけがない。ましてやアナトリア高原からマドラスに来るなど、常識ではあり得ない話だ。若いレンとパシャスがいなくなれば、働き手にも困る。
「マイケルはどうしてますか?」
パシャスが聞いた。不安の色が浮かんでいる。私は事態が飲み込めずにいた。
「マイケルなら、〈コール〉を受けてアフリカに旅立ってしまったよ。いまはここにいない。君たちなら、それくらい分かるだろうけど」
「それが、そうじゃないんだよ。あんた騙されてる」
レンは失望の入り混じった、複雑な表情をつくった。
「マイケルは、ここにいます」
パシャスが私に鋭い視線を浴びせた。
「そんなはずはない。マイケルの姿なんて、おれは見てないぞ」
言いながらも、自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。水浴びをしたばかりだというのに、嫌な感じの汗が背中を伝う。
「だから、騙されてるんだよ。私たちはマイケルを助け出さなければいけない」
「騙されてるって、どういう意味だ?」
「例の女だよ。マイケルを利用しようとしている」
「しかし、アフリカ行きはマイケル自身が決めたことだ。それに、おれはちゃんと海岸で彼を見送った。ここにいるはずがない」
「落ち着いてください、ブルース。あなたは本当になにも知らないのですね?」
パシャスが聞いた。私は、知らないと答えた。
「あなたの弟のマイケルは、あの建物の中にいます。間違いありません」
「気配があるのか?」
レンとパシャスは重々しく頷いた。
「なあ、どうなってるんだ? なんで君たち二人がここにいる?」
私は湖畔の木にもたれ掛かった。頭を抱えてみたが、そうしたところでなにひとつ整理できない。
「そうだな、あんた驚いただろうな。私たちがいきなり現れたもんだから。じゃあ、そこから説明しようか。答えは簡単。あんたたちがコミューンを出た後、しばらくしてから後を追うことにしたんだ。どうにも、胸騒ぎが収まらなくてね。彼女は、やはり危険すぎる。マドラスでまずい事が起きても、そこから助けに出たって間に合わない。ほかのノウスが察知してくれたところで、この近くに仲間はいないからさ。あんたたちが出て行った後で、もっと強引に止めるべきだったと後悔したんだ。嫌な勘というのは、よく当るからね。それにヘーラやパオも、日増しにあんたたちのことが心配になっていた。私たちの頭の中は、あんたたちのことでいっぱいだったんだ。その精神の揺れは、同じコミューンの住人にも影響してね。みんなが、いても立ってもいられなくなってしまったんだ」
「要はおれたちが心配になって追ってきたのか。根拠なんて、ひとつもないのに?」
「そうだよ」
レンは事もなげに答えた。
「根拠といえば、ヘーラの見た彼女のイメージでしょうか。マドラスに行けば、最悪の可能性も拭い去れない。その最悪がなにかは分かりませんが、そう思わせる気配が彼女から漂っていたんです」
パシャスが静かな口調で言った。年は私と同じくらいだが、コミューンでは大人しく目立たない存在だった。
「ここには、二人で?」
「そうだよ。ヘーラは赤ん坊がいるし、パオまで留守にすると家の用事が大変だから。かと言って私一人で旅をするのも自信がない。みんなに相談したら、パシャスが手を挙げてくれたんだ。彼の子供はもう大きいから、ほかの仲間に任せられるしね」
二人の服装は、旅にもまれてぼろぼろだった。暗闇の中を注意して見ると、レンは以前より二周りほど痩せていた。
「同じ道を来たのか。おれたちはアナトリア高原からここに来るまで、一年以上かかったんだぞ」
「本当に世界は広いんだね。私たちのコミューンに着いたとき、あんたが気絶した理由が分かったよ」
「私も、旅がこんなに過酷だとは思いもしなかった。地面はまだずっと先につづいている。覚悟はしていたけど、もっと簡単に着くものだと侮っていました。一度、マイケルの精神が変調をきたしたときも、焦りました。私たちは彼の気配を追っていたのですが、あまりに乱れているので、場所が掴みきれなくなってしまったんです。あれは、何が起こったんですか?」
イラン中部の砂漠地帯で、マイケルが〈コール〉を受けていたときのことを言っているのだろう。あのときのマイケルは激しい葛藤と戦っていた。それが彼らの追跡行に支障を及ぼしたのだ。
「マイケルが〈コール〉を受けたんだ。でも彼はおれを置き去りにしないために、それに逆らっていた。あのとき我々は砂漠にいたんだが、マイケルの能力がほとんど役に立たなくなって、危うく死ぬところだったのさ」
「なるほど。ここにいる彼女とは、やはり無縁のことでしたか。あなたたちの身になにか起きたのかと気をもみました。でも、いまマイケルの精神が乱れているのは、間違いなく彼女のせいです」
説明を聞いているうちに、私は冷静さを取り戻した。パシャスやレンは、マイケルの気配を頼りにマドラスに辿り着いたのだ。その彼らが、建物にマイケルがいると言うのなら疑う余地はない。問題は、なぜ私がそのことを知らずにいるのかだった。
「マイケルは、生きているのか?」
「生きている、大丈夫だよ。ただマイケルの気配はひどく怯えている。辛い目に遭わされているみたいだ。だけど不思議なことに、すごく彼女を憐れんでもいるんだよ。どうしてだろう?」
レンは首を傾げて私を見た。私に答えを求めているようだが、マイケルがどんな状態にあるのかも知らないのだ。私は黙って首を横に振った。
「ブルース、あなたはあの建物で彼女と暮らしているんですね? 彼女もあの建物にいるんですね?」
有無を言わさぬ口調でパシャスが言った。
ああ、と私は力なく答えた。
「さっきマイケルと交信をしたのですが、彼は私たちに危険だから帰るようにと制しました。でも彼が危険というなら、なおのこと放ってはおけません。私たちはとりあえず事態を把握するために、森に隠れることにしました。そうしたら、あなたが水浴びに来たんです。あなたはマイケルと違い、恐怖感もなく自由に動ける身のようだった。私たちは、訳が分からなくなりました。だって、こんなときに、弟思いのあなたが平然と水浴びに来るなんておかしいでしょう。幸いにも、あなたは一人で絶好のチャンスだった。それで湖に石を投げて、あなたを呼んだのです」
つまり二人は私が事態に気付いていないことを見抜いて、マイケルのことを報せたのだった。
耳をふさぎたくなる心境だが、信じないわけにもいかなかった。マイケルが一人でアフリカへ行くことを決めたのには裏があったのだ。きっと砂浜での別れ際、シャクティに向けたあの憎悪を含んだ視線にも。
深く考えもせず、仕舞い込んでしまっていた疑問が蘇る。それらが、彼らの話と符合した。だいいちに二人がマドラスにいること自体が、なによりの証拠だった。マイケルはアフリカに行っていなかったのだ。
私の知らないところでなにかが起きていた。私一人がそれを知らなかった。気付こうともしなかった。マイケルがエマージェンシーを発していたというのに。
「本当に、マイケルは無事なんだね?」
「無事だけど、はっきりしたことは言えない。ずいぶん滅入ってるみたいだよ。彼はあの建物のどこかに監禁されているんだ」
「監禁? シャクティが、か」
「ブルース、彼女を信用してはいけない。彼女は狂気の塊なんだよ」
レンの言葉に、パシャスも頷いた。
狂気、呪い、邪念。そんな言葉がいつも彼女に付きまとう。
私はマドラスでの日々が、幻のように思えてきた。




