一章 サピエンスを求めて 2
私の生まれ育ったコミューンができたのは、およそ百五十年前のことだ。我々の何世代か前の先祖たちは文明社会が完全に息絶えたあと、方々で生き延びた人たちと出逢い、アルプスの山間に定住した。私の先祖は父方母方ともイギリス出身だが、そのほかにもフランス、スイス、ロシア、中国、タイ、トルコとさまざまな国の人種で構成されていた。当時は三百人を超える人々がいて、田畑を耕したり、狩りをしたりして、自給自足の共同生活を営んでいた。が、人口は人類を復興させるどころかみるみるうちに減っていき、百年もしないうちにその数は七分の一にまで落ちこんでしまった。
原因はいくつかある。飢えや病、あるいはアルプスに来る途中で気付かぬうちに放射能を浴びて死んでいった人たちもいるが、主因はノウスだ。当初、四、五人に一人は生まれていたサピエンスは、五十年もすると滅多に生まれなくなった。私の両親もかなりの低確立の中で産声を上げたのだ。
いや、誤解しないでほしい。私は別段、ノウスに対してなんらかの偏見を持ったり、憎んだりしているわけではない。いま私はこうしてノウスのコミューンに厄介になっているし、彼らは大切なパートナーだ。もし仮にここを追い出されてしまったら、私にはどこも行き場がない。ただ客観的事実として、コミューンが廃れたのはサピエンスの出生率が低下し、逆にノウスの出生率が上昇したためと言っているだけだ。ノウスは〈コール〉によって、やがて我々の下から離れ去ってしまうのだから。
図書館の資料によると、ノウスが出現したのは二十二世紀前半のことで、この年代は文明社会の終末期とも重なる。
その頃の社会は、世界中で閉塞的状況に追いこまれていたらしい。温暖化の進行、新種ウイルスの続発、人口増加による食料不足が叫ばれる一方で、海産の食物などには重大な害毒が及んでいた。人々はそれらをあらゆる手法で解決しようとしたが、悲しいことにひとつの解決策はまた新たな難問を生んだ。たとえば石油の代替エネルギーが普及することは産油国に危機感をもたらし、しばしば国際紛争の火種にもなった。ウイルスは研究者たちを嘲笑するかのように新たなタイプが次々と登場し、いくつかの地域を壊滅させた。そのようにして根本的な破滅要因が一向に解決されることなく、さらに複雑に枝分かれしていくなかで、希望は徐々に腐敗していった。バランスを崩した大気が、ホルモン異常をきたした魚たちが、狂暴化していくウイルスたちが、カウント・ダウンを唱えていた。そこから生まれたのは、滅びることへの恐怖ではない。諦観だ。誰もが明日を信じられなくなることは、おそらく人類はじまって以来のことだったろう。
ノウスは、そんな暗く呪われた時代のなかでこの世に生を受けた。果たしてこれは--文明社会が滅びようとするのと入れ違いに、ノウスが誕生したのは、偶然なのだろうか。答えはノーである。
サピエンスからノウスに移行したとき、そこには種としての遺伝子に“見えざる手”による介入がなされたのだ。そしてひとつだけ明言するならば、“見えざる手”とは神などという人間特有の概念を指したものではない。それは「進化の地図」にのっとった超自然的な作用なのだ。私はそのことを十年前、この青い肌を得るきっかけとなった森での瞑想で知った。
“見えざる手”は人類に染色体の革命をもたらした。それはおそらく人類史上もっともドラスティックな革命と言える。
サピエンスとノウスとの最大の相違点は、性染色体だ。我々サピエンスの性染色体は通常、男はXY型、女はXX型となっている。Y染色体がオスという性を萌芽させ、他方、X染色体がふたつあることで女は出産機能を獲得する。
ノウスはこのどちらでもない。ノウスの性染色体はXXy型で、男性特有のY染色体の切断片が、女性の出産を可能にするXX型染色体に付着している。だからノウスは両性具有になれた。
こうしたトリソミックスはサピエンスにもいた。一部の性染色体異変の男たちだ。彼らは外見上こそ男性なのだが、睾丸が小さく無精子症で、ときには乳房がふくらむことがあった。ひとつの身体に卵巣と精巣が備わっていることもしばしばだった。
ノウスと彼らの性染色体は類似している。しかしノウスはほかの染色体も微小にサピエンスとは異なるので、男性とも女性ともつかない不可解な容姿をしているし、同種の子供まで産んで文明人を混乱させた。
細胞の核にある染色体がわずかに変わっただけで、種の世代交代は起こる。すなわち、それが進化だ。