二章 呪縛の継承9
その後のシャクティとの生活は、平穏そのものだった。ヘーラやマイケルが憂慮していたようなことは、なにも起こらない。それどころか我々は日増しにお互いの気を許し合いつつあった。
私はときに狩りに出たり、海や川で釣りをしたりした。二人で畑を耕していると、束の間の安らぎが永遠に約束されたようでもあった。
しかし、それというのも、マドラスという恵まれた土地のお陰だった。マドラスはかなり暑苦しいが、雪など降るわけがなく、森には一年中草木が生い茂っている。私はシャクティに食べられる植物やキノコの種類を教わり、鹿や豚の姿を追った
だが、ここも楽園ではない。マラリアやコレラ、黄熱病などにいつ感染するともしれないし、猛毒を持った蛇もいる。そして気候の問題。
「今年は天候が安定しているけど、一昨年は雨ばかり降っていたわ。川が氾濫して、すぐそこまで押し寄せてきたのよ。やっと治まったと安心したら、次の年はバッタの大発生。この建物の壁もびっしりとバッタで覆い尽くされたわ」
思い切り渋面をつくって、シャクティは言っていた。
このような異常気象は、高度化した産業活動の副産物とも言えた。二十世紀に勃発した偏西風の異変による世界的な異常気象ラッシュは、その後、数百年に渡って自然のバランスを崩しつづけ、いまも断続的に我々を苦しめている。故郷のコミューンも度々、大雪や寒波に見舞われていた。どこまでが過去の悪影響によるものかは判別できないが、すべてが純然たる意味での自然災害とも思えない。
旅の間に見た、累々たる街の廃墟。朽ちてなお、土に還れない異質な屍たち。その姿は、あまりに無残で儚い。
雨の降る日になると、シャクティは私に旅の話を催促した。マドラスからほとんど出たことのない彼女にとって、外の世界の話は新鮮なのだ。我々はテーブルに向かい合って座り、時折窓を叩きつける雨音を気にしながら、うたかたの時を過ごした。
「おれとマイケルは、黒海に着くまでドナウ川に沿って来たんだ。流域にはノウスのコミューンが散在していて、食料も補給できるし、なにかと都合がいいからね」
その日も昼から降りだしたスコールのため、我々は畑仕事を中断し、部屋に閉じ篭っていた。窓を閉めているので、ひどく蒸し暑い。シャクティの父親が作ったという扇風機が、ガラガラと耳障りな音をたてながら生温い空気を送っていた。
「大きな川なんでしょう、ドナウって?」
「そうだね、昔はヨーロッパいちの国際河川だった。ウィーンやベオグラードといった大都市も、ドナウの流域で繁栄していたんだ。とくにハンガリーの首都だったブダペストは、なんていうか哀愁が滲んでいたなあ。廃墟にさえ優雅さがあるんだ。我々は王宮の建つ丘から、石畳の残る街並みを見渡した。ちょうど夕暮れ時だったな。紫とオレンジの落陽に染まる街を眺めていると、いまでも生活の匂いがした。路地裏からひょっこり誰かが出てきて、こんばんはなんて話し掛けてきそうな、さ。そんな街は、ちょっとないよ」
テーブルの上にはマンゴーが置かれていた。シャクティはマンゴーを半分に切り、片方を私に渡した。
「それから?」
雨はまだつづいている。私はさらに旅の記憶を呼び起こした。
「ドナウといえば、面白いものを見た。下流には途方もなく広いアシ原があって、そこにペリカンが生息しているんだ。ペリカンは知ってるかい?」
マンゴーを齧りながら、私は聞いた。
「知ってるわ。嘴の下に袋のついた鳥でしょ。でもドナウになんているのかしら」
「きっとアフリカ辺りで冬を越して、また戻って来るんじゃないかな。あれだけ身体がでかいんだから、海だって渡れるさ」
シャクティはクスクスと笑って、そうかしら、と言った。
「それは想像だけど、ドナウにいたのは嘘じゃない。ペリカンは大集団で暮らしているんだ。餌を獲りにいくときは、上昇気流に乗って一斉に飛び立つ。何千羽ものペリカンが空を旋回して、渦をつくるのさ。遠くから見ていると、まるで竜巻が発生したみたいだ」
「ふうん」
「それとトルコにある古代遺跡もすごかった。カッパドキアだったかな。地面なんて灰色で、ほとんど緑が生えてないんだ。殺風景なんてもんじゃない。動いているものは風だけだ。街の廃墟もあったけど、あんなところでよく生活していたよ」
「で、どんな遺跡なの?」
「キノコみたいな形をした大岩が延々と連なっている、それだけさ。奇怪な土地だった。たぶん自然の侵食作用かなにかでできたのだろうけど、はるか昔の人たちはその大岩をくり抜いて住居にしていたみたいだ。ヘーラのコミューンは、その西のほうにあるんだ」
ヘーラと聞いて、シャクティのマンゴーを齧る手が止まった。砂浜で初めて会ったときも、シャクティはヘーラのコミューンの話を持ち出したら動揺していた。
私は思い切って訊ねることにした。
「シャクティ、君はなぜヘーラのコミューンの人たちと暮らさなかったんだい?」
「あの人たちは--」
テーブルを指で叩きながら、シャクティは口を開いた。
「私たち一族を憎んでいたわ」
「どうして?」
「そのヘーラとかいうノウスからは、なにも聞いてないの?」
「いや、聞いてない。彼はアナトリア高原へ向かう途中で、遠くから君を見掛けただけだと言っていた。ちょうどコミューンが全滅した直後に」
私は嘘をついた。実際はそこに彼の両親がいて、シャクティに近づくなと戒めたのだ。
「そう、ノウスには関係のないことだから、当然かもしれないわね」
シャクティは青ざめた顔で、瞼を閉じた。
「もしよかったら教えてくれ。君たちの間にあったことを」
「あなた誤解しているわ」
テーブルにぱたんと手を伏せ、シャクティは苦く笑った。テーブルは輪切りにした丸太に脚を付けただけの粗い作りだが、黒ずんでかなりの年季が入っていた。人工的な明るさのなかで、その使い古された趣が柔和な印象を与えていた。
「私たちの間にはなにもなかったのよ。ずっと以前には、もしかしたら表立った揉め事があったのかもしれない。でも私が生まれてからは、ほとんど没交渉という感じだったわ。実際、話したことなんて一度もないんだから」
「それにしても、妙じゃないか。この時代に背を向け合うなんて」
「彼らは私たちのことを疎ましがっていた、それは確かね」
「まさか縄張り争いでもしていたわけじゃないよな?」
「いいえ。仮にそうだとしても、距離がありすぎるわよ。彼らは、私たちが未だにこの建物を維持していることが気に入らなかったのね。人はもう文明を忘れなければいけない、と主張としていたの。差し詰め私たち一族は、神の意志に歯向かう反逆者ってところね。彼らにはサピエンスの滅亡をあるがまま受け入れるための信念があったのだと思うわ」
「この太陽光による照明が、対立の要因になったわけか」
私は天井に灯る明かりを見上げた。
「それも、ひとつだけど。薬の研究をしていることで、彼らは私たちを悪魔呼ばわりしていたわ。研究をやめろと、脅しに来たこともあった。塀から石を投げられたりもしたわ」
「暴力を振るわれたのか?」
シャクティは、首を横に振った。
「それほど大袈裟なものじゃないわ。彼らは舟で漁をするから、この近くに来たついでに気紛れで嫌がらせをする程度よ。客観的に考えると、あの人たちは私たちが怖かったのかもしれない。いまでは、そう思うわ。何百年も外と接触せずに黙々と研究をつづけ、昔ほどの機能はないけど太陽エネルギーで生活を支えている。この連中はなにを考えているんだ、なんて気味悪がっていたんでしょうね。きっと研究に没頭するあまり、一族が閉鎖的だったのもいけなかったんだわ。でも私たちも必死だったのよ。ここで研究を投げ捨てたら、代々の犠牲が無駄になるだけじゃない? それにもし研究が成功していたら、彼らだって私たちにすがりついていたはずよ」
シャクティは、結局かなわなかったことだけど、と自嘲気味に言った。
「そう。分かったよ、シャクティ。つまらないことを聞いて、悪かった」
私はそれ以上、詮索するのをやめた。彼女が話したことは事実だろうが、そのさらに先には真実があると直感していた。いまの説明では、砂浜で彼女が動揺した理由がはっきりしない。見知らぬ人間からいきなり対立グループを口にされれば、もちろん構えるに決まっているが、あの激しい困惑はそれを通り越していた。多少の諍いはあっても、基本的には没交渉の関係なのだ。しかも私はよそ者である。
しかし私には、それより一歩を踏み出すつもりはなかった。真実を知り、彼女の秘密の扉を開けてしまえば、なにもかもが終わりを告げてしまう予感がした。私とシャクティの間にある、堅く透明な壁がそれ以上のことを拒んでいた。その壁を壊すことは、私にはできない。シャクティを失うことが、ただ怖いから。
「あの人たちにはなんの恨みもないわ。お互い友好的ではなかったにせよ、サピエンスの仲間がいっぺんに死んだのは、私にとってもショックだったのよ」
雨はさらに勢いを増していた。窓枠に嵌めた戸板を割れんばかりに激しく叩きつける。扇風機の音すら、かき消されて聞こえない。ただ、ダダダダダダダダダダという破壊的にけたたましい音が部屋中に響き渡っていた。