二章 呪縛の継承8
次の日から、私とマイケルの間は、少しぎくしゃくしたものになった。マイケルは徹底してマドラスから出ることを主張しつづけ、私はそれを避けていた。彼がその話に触れようとすると、シャクティのところに行ったり、壁の棚や窓を修理するなどして誤魔化した。いままで協力しあってきた我々兄弟に、はじめて気まずさが漂いはじめた。私はもう彼の兄としてではなく、一人のサピエンスとしての生き方を選んでいたのだ。
数日経つと、マイケルはふさぎこむようになった。私が差し障りのない話題を向けても、返ってくるのは気のない答えばかりだった。無理もない。私自身がそのように仕向けていたのだから。
そんな状況に疲れたのか、次第にマイケルはここで暮らすことを咎めなくなった。言葉は出尽くし、私の説得が無理なことを悟ると、すっかり諦めが芽生えたようだった。となると、むしろ考えるべきは彼自身の身の振りだ。マイケルは、ついにアフリカに旅立つことを決意した。
打ち明けられたのは、向日葵の咲き誇る庭先だった。森での狩りから帰った私に、マイケルは何日かぶりに晴れやかな表情を見せた。
「兄さん、私は仲間のところへ行くよ。残念だけど、これ以上ここで兄さんを説得しているわけにもいかない。子供がいつできるかもしれないし」
なるほど、と私は得心した。もう一度策を練り直して攻勢をかける狙いがあるのでは、と構えていたのだが、マイケルはそのとき十七歳になっていた。はやければ、あと一、二年で子供を出産することになる。だからそれまでに仲間のコミューンに安住している必要があったのだ。
ノウスが我々の下を去るのも、結局は子育てのためなのだろう。家族を単位としたサピエンスの社会構成と、数人の同居人を単位としたノウスのそれとでは生活面での仕組みが違う。一体どんな力がそのような独自の社会を築かせたのか、ノウスには彼らなりの本能が組み込まれているのだ。
「そうか、行くのか。おまえにはたくさんの礼も言わなきゃいけないし、すまないとも思っている。せめて、せめてだ。無事に辿り着いてくれよ」
「いいんだよ、そんなことは。兄さんとは遠く離れるけど、私たちは兄弟のままだ。そうだよね?」
私はマイケルを抱き締めた。マドラスに来てすれ違いも生じたが、いざ別れとなると深い感慨でいっぱいになった。
マイケルの肩口から、二階のベランダにいるシャクティが目に入った。彼女は我々が抱き合う姿を黙って眺めていた。
「マイケルが新天地へ旅に出る。今夜はご馳走だ」
森で射止めたキジバトを掲げて、私は声を張り上げた。
二日後、マイケルはアフリカを目指してマドラスを後にした。私とシャクティは、灯台の建つ砂浜で彼を見送った。
「これが最後のお別れになるだろうが、おまえのことはずっと忘れない。こっちのことは心配するな。彼女と一緒にうまくやっていくさ。むしろ気掛かりなのは、おまえのほうだよ。アフリカは遠い。どれくらいかかるのか分からない。でも、きっとちゃんと着けるさ。おまえのことなら、な。元気でやれよ」
ぎゅっと唇をきつく結んだマイケルに、私は当面の水と食料の入った背負い袋を手渡した。
「ありがとう。兄さんも身体に気を付けて」
「あ、ちょっと」
シャクティは、マイケルに緑色に塗られたヒョウタン型の容器を差し出した。
「旅は長いんでしょう。疲れたら、これを飲むといいわ。栄養剤なの。昨夜、よく効く薬草を煎じてつくったのよ」
「ありがとう・・・シャクティ」
私は、はっと息を呑んだ。言葉とは裏腹に、シャクティに投げ掛けた視線には、まるで別の意思がこめられていた。ほんの数秒のわずかな間だが、その視線は敵対する相手を睨むような禍々しい光を発していた。滅多に怒りを現わすことのないノウスのマイケルが、明らかに憎しみをぶつけている。この期に及んでまでも。
シャクティは、自然な動作で髪をかきあげた。幸いにも、マイケルの視線に気付いていないようだった。私は取り繕うように、マイケルの腕を軽く叩いた。
「おまえを愛している。本当だ」
マイケルは頷き、握手を求めた。私はその手を握った。
砂浜を振り返りもせずに一人歩くマイケルの後ろ姿を我々は見送った。ともに育ち、二年以上も旅をした最良のパートナーが、はるか彼方の大陸へ行ってしまう。それなのに、二度と会えないという実感が湧いてこない。その姿が豆粒ほどに小さくなり、やがて波音にかき消されるように見えなくなっても。
私とシャクティは砂浜の木陰に腰を下ろした。
「ここで私と出会い、ここでマイケルと別れたのね」
「ああ。ここに来てから、いろいろなことが変わった」
うんざりするくらい陽気な青い空を仰ぎ、私は言った。
「淋しい?」
「そりゃあね。ノウスでも、たった一人の肉親なんだから」
「私、嫌われていたみたい」
「あいつは、故郷以外のサピエンスに馴れてないんだ。許してやってくれ。君を嫌っていたわけじゃない」
シャクティは唇の端にひきつった笑みをつくった。別れ際のマイケルの視線に、本当は気付いていたのだろうか。私は不安になったが、おそらくマイケルがほとんど彼女とコミュニケーションを取ろうとしなかったことを指しているのだろう、と思い直した。
「目的のコミューンまでは遠いのかしら?」
物憂げな声で、シャクティは聞いた。うつむくと、彼女の横顔はウエーブのかかった黒くて長い髪に覆われてしまった。
「アフリカ大陸と言っても広い。ヨーロッパの何倍もの面積があるからね。マイケルがその広大なアフリカのどこに行こうとしているのか、彼自身さえ知らない。ノウスというのは、まったく大した奴らだよ。仮にエジプトあたりだとしても、ここからだったら相当な距離になる。さらに奥なら、自然環境も厳しい。いままでの旅よりずっと苦労が多いはずだ。そうまでしても、仲間のいる場所に行こうとするんだからな」
「ブルース、あなたはこれからどうするの?」
シャクティは私の肩に頭をあずけてささやいた。汗ばんだ肌に、彼女の温もりが伝わってきた。
「どうするって?」
「あなたもどこかに行ってしまうつもり?」
「どこに行けって言うんだい? もうサピエンスなんていやしないんだ。シャクティ、君さえよければ、おれはずっとここにいるよ」
シャクティは私に寄り掛かるのをやめて、沖を眺めた。海の上には黒い点がうごめいている。魚の群れを発見した海鳥が、集団で漁をはじめたのだ。
「最初の日に話したわよね。私の寿命は長くて四十年なの。私を産む前に両親の飲んだ薬が改良に成功していればいいけど、まあ期待できない話ね。十年もすれば私の身体は斑点だらけになって、骨と皮だけになるのよ」
私はシャクティの顔を覗きこんだ。空っぽの瞳が、私の心までも凍えさせる。
「おれは君と会えた、それだけで満足だよ。この時代に自分を必要とする人間がいるなんて、神に感謝したいくらいだ」
だが、彼女の瞳は冷たくなったままだ。
「あなたを必要とする人は、私以外にもまだいるかもしれない。私が子供だった頃のことよ。この砂浜にメッセージボトルが流れ着いたことがあるの。一緒に散歩に来ていた母と、波打ち際で見つけたのよ」
「メッセージボトル? 一体どこから?」
驚きはなかった。彼女の口ぶりが、期待を膨らませそうなものではなかったからだ。
シャクティは私をじらすように、たっぷりと間を取って口を開いた。
「がっかりしないでね。母はボトルを拾い上げると、大慌てで中に丸められた紙切れを取り出したわ。そして、そこに書かれているメッセージを読もうとしたの。その途端よ。母はがっくりと波打ち際に膝をついてしまった。私が覗き込むと、紙には染みがいくつも浮いているだけだった。よく見るとそれはびしょ濡れで、ボトルの中には海水が溜まっていたの。岩場にでもぶつかって、ひびが入って浸水していたのね。文字の痕跡なんて、すっかり消えていた。誰が、どこから、いつ送ったかなんて推測もできない状態だった。その不運なメッセージは落胆した母の手から落ちて、また波に運ばれてしまったわ」
「そうか」
私は一言だけ呟いた。シャクティは私の反応を確かめるかのように、横目を送った。
「厳密に言えば、この世にいるサピエンスは、私たちだけではないのよ。どこかで細々と暮らしている人たちが、ほかにもいるわ。あなたは、そう思わないの?」
彼女の言わんとしていることが伝わり、私はなんとも悲しい気分になった。彼女は私の行く末を案じくれているのだ。
「どこかにいて欲しいとは願うけど、居場所が分からないんじゃな。故郷にいたとき、ノウスにも協力してもらったけど、大した情報は集まらなかった。この長い旅の途中でもね。当てもないのに、旅に出ることはできないし、その気力もない。シャクティ、おれはここで落ち着きたいんだ」
「でも、私はあと十年・・・」
私はその言葉を遮った。
「おれだって、明日毒蛇にかまれて死ぬかもしれない」
「ねえ、現実の話をしているのよ。大切なことなの」
「頼むから、いまは薬のことについては言わないでくれ」
私はシャクティを抱き寄せた。身体中の血液がざわめき立つ。胸が痛い。ただ、彼女を離したくなかった。シャクティは少しだけ逡巡した様子だったが、そのまま私の腕に抱かれていた。
「あなたと会わなければ、私、死ぬつもりでいたのよ。もう少ししたら免疫力の低下がはじまる頃だから。一人でじわじわともがき苦しんで息絶えるなんて、冗談じゃないわ。そんなときにあなたが現れて、私の運命は変わってしまった。誰かがそばにいてくれることで、こんなにも安らげるなんてすっかり忘れていた。私はいいのよ。でもブルース、あなたは私と一緒にいることで、いつの日か地が裂けるほどの悲しみを味わうことになるわ」
それはつまり私が死ぬ日よ、とシャクティは付け加えた。
「これから副作用に対抗するための薬を開発すればいい。もしそれが駄目なら、仕方がないさ。君が苦しむ前に一緒に死んでもいいし、君の墓を守ってもいい。もしくはほかのサピエンスを探しに出ても。とにかく、おれは君と最後までいるよ。そう決めたんだ」
私は彼女の額に口づけし、黒い髪を指で梳いた。
「ありがとう。あなたの気持ちは分かったけど、いま結論することもないわ。ゆっくり考えていきましょう」
静かな声でシャクティは言った。
私はふいにマイケルのことを思った。アフリカへ行く途中には、いままで来た道を引き返すことになる。ということは、あの殺伐とした砂漠地帯にまた身をさらさなければならないのだ。しかも、今度はたった一人で。
砂漠だけでなく、この大地には無数の罠が仕掛けられている。自然はありとあらゆる方法を用いて、命あるものを生と死のふるいにかけようとする。ことに道具の使えない環境では、人間は蟻よりもか弱い。これは我々が長い旅の間で得た教訓だ。火を焚く枯れ枝一本なければ、人間は蟻にも劣るのだ。
どうか無事に辿り着いてほしい。私はそう願わずにはいられなかった。