二章 呪縛の継承7
その夜、私とマイケルは一階にある一室をあてがわれた。ずっと使われていなかった部屋なので、照明を点けた途端、ヤモリやネズミが床を駆けずり回り、壁には蜘蛛の巣が張られていた。埃は溜まっていないから、多少の手入れはされているのだろう。それでも何年、いや何十年かもしれない。長い間無人だった部屋特有の陰気な匂いが、亡霊のように立ちこめている。せめて外の空気を入れようとしたが、窓に嵌め込まれた戸板はびくともしない。風の入らない部屋は、ひどく暑かった。
「まいったな、戸が開かない。廊下の扉を開けておくか。少々蒸すけれど、砂漠で穴を掘って寝ることに比べたら天国だな」
部屋には、寝台がふたつあった。藁もないむきだしの状態だったので、私は自分の寝る寝台を選び、毛皮を敷いた。荷袋を枕にして、身体を横たえる。疲れていた。いろいろなことがあった一日だった。昨日までは、夜になっても昼のように明るい部屋で寝るなどとは、考えもしなかった。
「兄さん、私と一緒にアフリカに行こう」
もうひとつの寝台に腰掛け、唐突にマイケルが言った。
「待てよ。まだシャクティを疑っているのか?」
「ここにいたら、とんでもないことになるよ。これ以上、彼女には関わらないほうがいい」
「なあ、昼間の話を聞いて、彼女の素性が分かっただろう。ヘーラのいたコミューンとの因縁は聞き出せなかったけど、おれには彼女が噂ほど冷酷な人間とは思えない。そりゃあ一族のいびつな宿命からすれば、まさに呪われているけどな」
マイケルは激しく首を振った。駄目だよ駄目なんだよ、と言いながら、くしゃくしゃになった顔で、私の意見を真っ向から否定した。私の気持ちはシャクティの擁護へと大きく傾いていたが、マイケルもまた、かたくなだった。
「この建物は気味が悪い。どう説明したらいいのか、恐ろしい欲望の気配を感じるよ。彼女が呪われた女と呼ばれるのは、きっとほかに理由があるんだ。たとえば、あの薬。さっきの話を聞いて分かったけど、彼女は兄さんを利用してサピエンスの子供を産むつもりだよ」
馬鹿なと思う反面、子供と聞いて、私の中に奇妙な高揚感が渦巻いた。
おれが、自分の子供を?
「マイケル、確かにこの時代、サピエンスの子供を産んでも、その子は不幸になるだけだ。それぐらいのことは、シャクティだって百も承知だよ。あんな欠陥品の薬なんて使うわけがない。おまえは面と向かって、ノウスが文明社会の崩壊にとどめを刺したと言われたことで、無意識のうちに彼女への嫌悪を膨らませたんじゃないか? それは一面では事実だけど、もちろんノウスのせいなんかじゃない。サピエンスが自ら自分の首を絞めたのさ。だいいち、シャクティがおまえを嫌っているようには見えなかったぞ」
まだサピエンスがそれなりに残っていた頃、ノウスは差別の対象でもあった。高度な社会を築いた種族の末裔としては、ノウスが知的レベルの低い出来損ないの種族に見えたのだ。いまは、そんな偏見などあり得ない。両者の溝はサピエンスの衰退により消滅した。ところが信じ難いことに、この建物には科学文明の最後の一粒が残されている。マイケルやヘーラは、それを守るシャクティに、そのような忌まわしい時代の名残りを嗅いだのかもしれない。
「油断しないで、と何度も言ったのに。兄さんは、彼女をよく知らないまま、もう心を許してしまった。そうなんだろう? 私だって、シャクティとの出会いを祝福したいさ。だけど、ごめん。できないんだ」
「別に謝ることなんてない。いずれにせよ、おれたちは正真正銘の孤独なんだ。彼女がどんな人間だろうと、見捨てるわけにはいかないさ」
「マドラスには、来るべきではなかったのかもしれない」
頬を張られたような、痛い一言だった。マイケルは弟であるとともに、恩人でもある。その彼が、後悔をはっきりと口にした。
「アフリカには、おまえ一人で行ってくれ。ここまで一緒に来てくれてありがとう」
マイケルは隣の寝台で横になって背を向けた。私は部屋の照明を消した。庭で鳴く虫の声が聞こえる。長い一日が、苦い味とともに幕を下ろそうとしていた。