二章 呪縛の継承6
「私の先祖は文明社会が危機に瀕していた頃から、ここに住んでいたのよ。マドラスはドラヴィダ文化という古い伝統の残る街だったのだけど、ある日、ちょっとした紛争が起こったの。あなたたちが寝泊まりしていた劇場跡の近くに、大きな瓦礫の山があったでしょう。あれは高等裁判所だったの。対立グループの片方があそこに立て篭もったために、徹底的に破壊されたのよ。注意して見れば、街にはそういう傷跡がいくつも残っているわ。
伝え聞いた話では、紛争の原因は一言では言い表せないらしいわ。当時、二二〇〇年頃には街の人口が十数万人まで激減していて、誰もが混乱の最中にあったのね。だって、その百年前までは七百万もの人々がマドラスにいたのよ。
もっとも、そんな終末的状況はマドラスに限ったことじゃないけど。気候の急変、新種の病、壊滅的な食料不足、希望を失った人たちによる暴動と破壊・・・数え上げたらきりがないわね。あなたたちも承知の通り、その頃世界は不治の病の末期症状に襲われていたのだから。
でも、インドをはじめとするヒンドゥー文化圏の紛争の場合は、ノウスの存在が絡んでいたわ。両性具有というのは、ノウスほど完全ではないにせよ、昔からいたの。彼らは性染色体の異変者だった。カースト社会においては決して恵まれた地位ではなかったけど、一方では聖なる存在として扱われていたわ。祝い事の席に招かれたりしてね。どうしてかというと、ヒンドゥー教の主神の一人シヴァがアルダーナーリシュヴァラ、つまり両性具有の主として崇められていたからよ。
そういうわけで、サピエンスがノウスに淘汰されていくにつれて、ヒンドゥー教は激しく分裂していったわ。ノウスの存在を認める者と、そうでない者。あるいは来世に望みを託して、シヴァの生地・ヒマラヤに移住していった者といったふうに。
その結果は言うまでもないわね。マイケルには悪いけど、人々は現実問題として、親元から離れて同類たちの下へ去ってしまうノウスが信用できなかったのね。もう宗教なんて意味がなくなっていたのよ。なぜなら先人たちはサピエンスが滅びることをはっきり悟ったのだから。そうして存在証明を失った反動が、ただでさえ少なくなったサピエンス同士を殺しあうことへと導いていったんだわ」
シャクティはそこで一旦、言葉を区切った。インドという文化的な特殊性が話の背景にあるものの、内容自体はさほど珍しくはなかった。高等裁判所が粉々になっていた理由を知ったくらいだ。
私はお茶を飲み干した。話はここからが本題のはずだ。
どうぞ、つづきを。
マイケルが彼女に向かって、初めて口を開いた。額には汗が滲んでいた。
軽く目を閉じると、すうっと息を吸い、シャクティは話を再開した。
「私の先祖は、でも、希望を捨てなかった。彼らは六十人ほどのグループで、紛争を避けてここに閉じ篭り、あるものを開発しようとしたわ。それさえあれば、世の中の騒乱がおさまると信じていたのよ。
そのあるものとは、サピエンスを産むための薬だった。ノウスの出生率をゼロにし、確実にサピエンスが生まれる秘薬を開発しようとしたのよ。彼らの目的は、運命の歯車を押し戻すこと。いくら環境が甚大なダメージを負い、次から次へと新種の病が現れようとも、種族として生き残ればまだやり直すチャンスなんていくらでもある。言い替えれば、人々は種の交代期を迎えてしまったことで、それすら神に許されないことに自暴自棄になっていた。ちょうど反乱を抑えきれず、王位を奪われようとする支配者のようにね。先祖たちはそのように考え、遺伝子のクーデターを潰すことにしたの。
具体的にどれほどの苦労があったのかは、私は知らない。とにかく彼らは荒んでいく世の中に溺れることなく、研究に没頭しつづけた。そして一定の段階に達すると、ついに自らの肉体を使って実験を試みたの。グループの中には当然、男と女がいたから、何組かのペアに試験薬を投与して生殖行為をさせたのね。残された記録によると、結果は四人の赤ん坊が生まれ、全員がサピエンスだったわ。そしてまた三人のサピエンスの赤ん坊。
彼らは色めき立ったわ。百パーセントの確率でサピエンスが生まれてくる。男の子と女の子、両方がいる。これで種の保存ができる、そう思って歓喜したことでしょうね。
ところが、数カ月もすると問題が出てきた。生まれてきた赤ん坊のほとんどが、脳や内臓に障害を持っていたことが判明したの。赤ん坊は半年ももたずに死んでしまった。遺伝子に影響する薬だから、それだけ副作用も大きかったのよ。
計り知れないショックが彼らを襲ったけど、後戻りはできなかった。彼らは薬の改良に取り掛かり、また子供をつくった。今度は八人が生まれたわ。子供たちは一年二年とすくすくと育った。
彼らは研究の成果を世界に発表しようとしたけど、すでに世の中はそんな状態ではなかった。あろうことか薬を大量生産する技術も、もう人間にはなくなっていた。先祖たちは無念の思いを抱きながらも、子供たちに自分の知恵を授け、この世を去ったわ。
でも・・・先祖たちは知らなかったの。改良した薬にも致命的な欠陥があったことを。
ブルース、マイケル、私たち一族の寿命は長くて四十年なの。新しい薬の副作用で、三十を過ぎた頃から徐々に免疫機構が破壊されていくのよ。つまりちょっとした風邪でさえ命取りになるの。
二世代目がばたばたと死に、その事実に気付いた三世代目以降、再び薬の研究に取り組んだのだけど、彼らに許された時間はあまりに短かった。おまけに科学文明の手を借りることも、すでにままならない。だから三世代目は四世代目に、四世代目は五世代目に、それまでの研究成果を譲り渡してきたのよ。
私で十三世代目。薬の研究はなにひとつ進歩してないわ」
話が終わり、私はごくりと唾を飲みこんだ。口のなかが乾ききっているのは、熱さのせいではない。これが、シャクティの運命。一族の使命。あの冷たい笑いの意味が、私はようやく理解できた。シャクティは意外とさばさばとした表情で、頬杖を突き、窓の外を眺めていた。
「悪いけど、ちょっと外に出てくるよ」
マイケルは複雑な顔をして席を立った。いまの話をどのように受け止めたのか、兄である私も想像がつかない。シャクティに憐憫の情が生まれただろうか。それとも怨念の正体を明かされて、さらにナーバスに沈んだのだろうか。彼がノウスであることが、あらゆることを微妙にさせている。
「君の両親は?」
ほかに掛けるべき言葉があるような気もしたが、私にはそれくらいしか思いつかなかった。シャクティは庭を眺めながら、わずかな間を置いて答えた。
「母も父も、とっくに死んだわ。最期は指も動かせないくらいやせ衰えて。私にはなにもできなかった。本音を言えば二人を生かしておくことさえ辛かった。一緒に死のうかと何度も考えたわ。あなたも、同じ心境だったんじゃないの?」
まるで他人事のような抑揚のない声だった。それがかえって彼女の悲しみを物語っている。
「同じ心境、か。個体としては生きているけど、種としてはすでに死んだも同然だからね。でも、そんなことで悩むのも、おれは面倒だった。子供の頃、故郷にはまだ何人かのサピエンスがいた。彼らが亡くなって弔うのが、おれの仕事みたいなものだったし。ここには、ほかに暮らしていた人もいたのかい?」
見え透いた強がりを混ぜて、私は答えた。私が一線を越えずにいられたのは、マルーシュカとマイケルがいてくれたお陰だった。両親が他界した後も、二人がいたから正気を保てたのだ。
「小さかった頃はいたけど。みんな短命だったし、世代を重ねるごとに近親相姦の度合いも高くなっていたから。人数が減っていくのはむしろ当たり前ね」
私は改めて室内を見回した。電磁調理器、オーブンレンジ、白色の光を放つ蛍光灯。凄絶な歴史を持つ一族が、辛うじて守ってきた科学文明の残滓たち。この場所しかない。この建物こそが、我々最後のサピエンスにふさわしい墓標だった。