二章 呪縛の継承5
急な斜面を下った平坦な草っぱらの真ん中に、シャクティの“隠れ家”は建っていた。石造りの堅牢な塀に囲まれ、まるで要塞のようだ。広い前庭には、小さな(しかし、一人で食べていくには充分な)畑と水の枯れた泉水が設けられていた。
私とマイケルは、シャクティに案内されて建物の中に入った。と同時に、突然、廊下の天井に白く眩い照明が灯った。遠くの壁までもが、その明かりを受けて反射する。ランプの灯とは比較にならないほどの光量だ。そこには、ないはずのものがあった。
「太陽エネルギーを利用した照明よ。屋上に大きな鏡みたいなものがあったでしょう。あれで日の光を吸収して、バッテリーに蓄えるの」
屋上の銀パネルはこのためか、と私は納得した。故郷の図書館でソーラーシステムの写真を何度か見たことはあるが、実物を目にするのは初めてだった。
「まさか、君が造ったのか?」
「そんなわけないじゃない。こんなご時世に、どうやって造るのよ。ここはずっと昔、工科大学の研究施設だったの。図書館の資料やもろもろの記録によれば、太陽エネルギーの研究にいちばん力を注いでいたみたい。彼らはよほど優秀だったのね。全体的な機能は落ちているけど、メンテナンスを怠らなければ、未だにこの建物の電力は太陽エネルギーで賄えるのよ。蛍光灯も半永久的に使えるし」
私とマイケルが度肝を抜かれた様子を、シャクティは横目で楽しんでいた。信じられなかった。そこには科学文明が残っていたのだ。等間隔で廊下の天井に埋め込まれた、半透明の細長く平べったいボックス。そこから放射される光は、まさに奇跡だった。
「驚いた?」
言葉を失ったままの私とマイケルに、シャクティは悪戯な微笑を見せた。
「おれの記憶だと、太陽エネルギーや風力発電などのクリーン・エネルギーは、文明社会が崩壊する以前にかなり実用化されていた。でもそれはほとんどが補助的な役割で、主力はガス化石炭や天然ガス、あるいは石油や原子力だったはずだ。とくにこういう膨大な電力が不可欠な施設は、それらのエネルギーに依存せざるをえなかった」
私は意味もなく壁を叩いてみた。ぴたぴたと扁平な音がするだけだった。
「ふうん。あなた、ちゃんと過去のことを調べているのね」
「子供の頃、父親に文字を教わった。近くの廃墟には図書館があって、片っ端から本を読むことが義務付けられていたんだ。父や、おそらく母とほかの仲間たちも、おれに人間社会の歴史を学ばせたかったのさ。はっきり言って、苦痛以外のなにものでもなかったけどね」
「分かるわ。私も同じだった。学ぶこと自体が苦しいんじゃなくて、過去のことを詰め込むのが堪らなく嫌だったのよ。だって知れば知るほど、いまの自分たちが救いようのない存在だとはっきりしてくるわけでしょう。物心のつかないうちは、疑問も持たずに言われるままアルファベットを覚えたりしたわ。ところが成長して、私たちサピエンスは事実上の滅亡種なんだと分かったら、生きることさえ馬鹿らしくなった。その上、こんな運命の一族に生まれるなんて。いまは諦めたけど、自分で自分を呪っていた時期もあるわ」
自分で自分を呪う。シャクティがそう口にしたとき、マイケルの眉がぴくりと反応した。
「こんな運命、か。もっともだよ。呪いたくもなる」
私の相槌に、シャクティの口元が微妙に歪んだ。辺りの空気を凍りつかせるような、冷たい薄ら笑い。首筋に、誰かに撫でられたような感触が走った。天井に灯る奇跡の明かりが、シャクティの影をいっそう濃くする。その影は呪いという言葉が表面化したような凄味を宿していた。
「あなたも滅亡種として生まれた可哀想な人だと思うわ。でも私の言った運命とは、それとはまたちょっと違うのよ。ねえ、いつまでも廊下で話しているのもおかしいわ。こっちに来て」
シャクティは再び微笑をつくると、私とマイケルを一階の奥にある部屋に通した。がらんとしていた室内には、無骨な丸太のテーブルと椅子が四脚置かれていた。ここでもソーラーシステムによる照明が灯されている。出入り口の向かいには、大きな窓があった。さすがに窓ガラスは耐用年数が尽きたようで、代用として戸板が二枚嵌め込まれている。シャクティは、右側の戸板に手を掛けた。立て付けが悪くなっていて多少てこずりはしたものの、戸板が左へと移動し、庭から風が入りこんできた。窓枠に溝を作ってスライド式にしてあるのだ。窓枠には、何度も補修をした跡が残されていた。
「この戸、もう修理しないと駄目なのよ。この間は、どうやっても閉まらなくなっちゃってまいったわ。もし大雨でも降ったら、部屋中がびしょ濡れでしょ」
「ここにはたくさん部屋がありそうだけど。下手したら、いつも窓の修理をしてなくちゃいけない」
「私一人だから使っている部屋は、ごく一部なの。ほとんどの部屋は、窓をずっと閉めたままにしている。外から見れば、分かるでしょ?」
「ああ、なるほど」
彼女の言う通り、窓と思われる外壁の部分はほとんど戸板で蓋をされていた。
「さあ、そこに掛けて。いまお茶をいれるわ」
シャクティは穏やかな口調で我々を席に着かせた。一瞬寒気すら感じさせたさっきの表情が嘘のようだった。だが、マイケルは相変わらず黙ったままだ。一言も喋らない。マイケルの心中は聞かなくても分かっていた。いまのシャクティの振る舞いも演技ではないだろうが、あの冷たい笑いは彼の確信をさらに強固にしたはずだ。
とりあえず、彼女の身の上を聞いてみよう。それからマイケルとも話し合えばいい。
そう考えながら、私はなんとなくシャクティを目で追っていた。彼女は、確かにお茶をいれていた。だが、私はその動作に釘付けにされた。
シャクティは水の入った陶器製のポットを、部屋の隅にある銀色の台の上に置いた。円盤状のつまみをひねる。台に面したポットの底が、うっすらと赤味を帯びてきた。
私は台に近づき、その赤味に両手をかざしてみた。炎とは違う温かさの熱が、じわじわと伝わってきた。
「あんまり近づけると、火傷するわよ」
茶葉を用意しながら、シャクティが声を掛けた。
「これ、電磁調理器か。そうだろう?」
「そうよ。じゃあ、こっちはなんだか分かるかしら?」
隣の台に乗っている箱状のものを指して、シャクティは聞いた。
それはちょうど一抱えするくらいの大きさで、正面は把手の付いた半透明のガラスになっていた。その脇にはボタンやスイッチが並んでいて、中には平らな皿が置いてある。調理器具の一種に間違いなかった。
「オーブンレンジ?」
私は当てずっぽうで言ってみた。
「すごいわね、正解よ。でもこれは故障していまは使えないの。ずっと昔から大切に扱われてきたんでしょうけど、もういい加減寿命なのかもね。実はこれが壊れたから、あなたと会うことができたのよ。試しに直してみようと思って、代わりの部品を探しに街に出たら、人のものとしか見えない足跡を見つけたの。でもよその人を見るのなんて、初めてみたいなものだから。どうしていいか混乱して、あんな態度を取ってしまったんだわ」
「なるほど。滅多に街に出ないなら、このオーブンレンジが壊れたことに感謝しなければ。まあ、そうでなくても、おれは意地でもこの建物を探し当てただろうけど。なんにせよ、手間が省けたよ」
冗談ではなく、本気で私は言った。シャクティの住みかは発見するのに困難な場所だったが、一年かかっても二年かかっても捜索をつづけるつもりだったからだ。もちろん彼女が偶然街に出て、私を見つけたことが幸運であるには違いない。
「そう言えば、こんなことになったものだから、部品探しをすっかり忘れてたわ。いままで何度も修理しているはずだから、もしかしたら使える部品は街には残ってないかも」
「ところで、君は器具の修理ができるのかい? 話しの筋からして、ここにある設備のすべてを君が管理しているみたいだけど。正直、言葉もないね。サピエンスだけでなく、生きた機械まで見られるなんて」
驚きの連続だった。この建物をいまの時代に維持するために、彼女はどれほどの技術を持っているのか。シャクティの育った環境は、私とはまるで異なるもののようだった。
「残念だけど、死んだ器具のほうがはるかに多いわよ。いまも使えるのは、この建物の歴史のなかではごく一部ね。私たち一族は数百年もの間、工夫に工夫を凝らして、なんとか生き残った照明やら器具やらの寿命を延ばしてきたの。つまり、ここに生まれた誰もが、メンテナンスの技術を受け継ぎ、次に伝えてきたというわけ。無論、私もそのなかに含まれるわ。子供の頃からコードをつないだり、モーターをいじったりしていたもの。なんだか変な話。こう言うと、まるでこの建物のために生きてきたみたい。まあ、それも間違いではないわね。一族の使命のためには、この建物が必要だったんだから」
「使命?」
再びシャクティの横顔が、一瞬、翳った。さっきとは少し違う雰囲気だが、大きな瞳が憂いをはらんでいる。その奥に漂うぞくっとするような寂寥感に、私は吸い込まれそうになった。
彼女はお茶をいれ、テーブルに着くと、自分の一族について語りはじめた。それはシャクティというサピエンスに課せられた重い宿命の告白でもあった。