二章 呪縛の継承3
マドラスに着いてからというもの、朝起きてすぐに海岸を散歩するのが私の日課になっていた。山で生まれ育った私には、海が物珍しい。遮るものなどひとつもない洋々たる大海を前にすると、地球の奥行きが感じられるのだ。
地球は、これだけ広い。まだ生きているサピエンスがいるかもしれない。
水平線を眺めていると、そんな淡い希望が湧いてくるのだった。
捜索をはじめて、二週間が経過していた。女とは依然、巡り合うことができない。あと二、三日したら、探す範囲を広げるために、拠点をほかの場所に移すつもりだった。
海岸線を上るか、下るか。それとも内陸に進むか。砂浜で潮の香りをかぎながら、新しい候補地を検討していた。
浜は遠浅だった。汚れのない白い砂が、どこまでも敷き詰められている。波が打ち寄せ引いていく音は緩慢で優しいが、波の呼吸と音の聞こえるタイミングがどこかズレているような気もしてしまう。その不揃いな時間差のリズムが、また面白い。南から吹く風に、羽状のヤシの葉がそよいでいた。
ふいに背後で、砂を踏む音がした。マイケルが待ち侘びて探しに来たのだろうと思い、私は気にも留めなかった。
「あなたは、誰なの」
砂を踏む音が止まり、声がした。マイケルのものではなかった。
咄嗟に振り向くと、そこには女が一人、私を睨みつけていた。意外だったのは、女が槍を手にして、矛先をまっすぐこちらに向けていたことだ。槍の先端には、丹念に磨かれた金属の刃がくくりつけられていた。
私はなにかを言おうとしたが、うまく言葉が出てこない。槍への恐怖ではなく、突然、女が現れたことで動揺していたのだ。身体中からじっとりと汗が噴き出し、あっ、うっ、とかいう声にならない声が辛うじて喉から漏れた。
「あなた、サピエンスね」
女は目を丸くして、まじまじと私を見た。私の期待とは裏腹に、女に歓喜の色は窺えない。それどころか、驚きつつも警戒心を強めているようにさえ見えた。私という存在が、不気味な脅威として映っているふうでもある。
なにに怯えているのか、女は両手に持った槍を構え、二歩三歩と後退した。
「待って、逃げないでくれ。おれはブルースという者だ。君を探しにここまで来た」
私は両手を水平に持ち上げ、敵意のないことを示した。彼女は、私がサピエンスであることに恐れているようだった。
「私を探しに?」
女の視線が、さらに鋭くなった。矛先が、私の喉元に向けられる。
「君はサピエンスだろう? ノウスの能力で君の存在を知って、はるばるやって来たんだ」
「ふざけないで。誰が私のことを教えたっていうの」
「ヘーラというノウスだ。ここから二日ほど歩いたところに、サピエンスのコミューンがあったのは知ってるね? 彼はそこで生まれ育ち、コミューンが全滅した直後にそこを出た。そして、マドラスで君の姿を見掛けたんだ」
女の顔が、みるみる強張った。私の顎の下に槍を突きつけて牽制しながらも、指先が震えている。やはり、なにかある、と私は直感した。しかし余計な詮索は禁物だった。
「あなたも、そこにいたの? 正直に答えなさい」
厳しい口調とともに、再び槍に力が込められた。
「いや、もっと遠くに住んでいた。話せば長くなるが、おれは二年以上もかけてここに来たんだ。自分以外のサピエンスと出会うためにね。だから、抵抗もしないし、暴れもしない。おれを信用して、この槍を下げてくれないか?」
女は石のようにじっと黙り込んでいたが、私は視線を逸らさなかった。波の音が何度も繰り返されるなか、我々はそうして身動きひとつ、眉ひとつ動かさずにいた。やがて女は、ためらいながらも槍を下げた。
「いいわ。あのコミューンには、確かにあなたみたいな若い人はいなかったはずだから。信用しましょう」
自然と安堵の溜め息が漏れた。私は木陰に女を誘い、いままでの経緯について語った。
故郷のコミューンが全滅し、旅に出る決心をしたこと。ノウスの弟・マイケルの能力のお陰で、インドにサピエンスの存在を知ったこと。道中で情報提供者であるヘーラのコミューンに立ち寄り、病の看病をしてもらったこと。そして長く苦しい旅の末、ようやくマドラスに辿り着いたこと--
もちろん、女に関する噂については伏せておいた。
さっきの女の態度に不信感を持ちながらも、私の喋りはだんだんと早口になっていった。興奮と呼ぶには、生温い。原始の地球を覆っていた火山熱のようなとてつもない感情が、私の身体中を駆け巡った。
絶望の一点に集中していたエネルギーが、一瞬にして光へと変わっていく。
サピエンスは、やはり生きていた。