二章 呪縛の継承2
その日からさっそく、私とマイケルは女を探すことにした。それらしき遺留品や足跡がないか、街中を調べ回る。有効な手掛かりは、なかなか見つからなかった。かつては何百万人もの人々が暮らしていた都会の廃墟で、たった一人の人間と出会うというのは、決して容易なことではないのだ。
マドラスには二本の川と、市内を南北に縦断する一本の運河が流れていた。濁っていて飲み水には適さないが、砂浜に生い茂るヤシの実がそれを補ってくれる。雨水や川の水を飲むより、はるかに衛生的だ。さらにいたるところには果物がなっているし、灯台に行けば海鳥の卵も手に入る。ときには豚や鹿と鉢合わせることもあって、食べる物には困らない。道具があれば海で魚を釣ることもできるのだ。女が何者かは知らないが、ここで生きていけないことはない、と私は思いを強めた。
我々は灯台から少し離れた建物をねぐらに定めた。以前は劇場として使われていたらしく、四、五百人を収容できる客席と舞台が設けられていた。ひどくカビ臭いことを除けば、居心地は悪くない。客席はスプリングが飛び出し、舞台の床は歪んで波打ってしまっている。それでも耳を澄ませていると、時空を超えて人々の喝采の声が聞こえてくるようだった。劇場に染みついた文明人たちの残留思念。それが私を懐かしい気持ちにさせた。
「なかなか見つからないね」
十日ほど経った頃だろうか。ひび割れの入ったロビーの壁を眺めながら、マイケルが呟いた。毎日の捜索も実を結ばず、女は影ひとつ見せない。
「探してない場所もまだ多いし、メッセージも残してきた。そのうち向こうが、気付いてくれるさ」
わざと呑気を気取って、私は答えた。
我々は劇場の前に焚き火の跡や食いかすを残したり、毛皮を巻きつけた旗を立てたりして、自分たちの存在をアピールしていた。ある程度の間隔をおいて、街の建物の外壁などに「海岸近くの劇場にて待つ アルプスから来たサピエンスより」という文字を刻んでもいた。こうしておけば、女のほうから接触してくることが期待できるからだ。
最悪なのは彼女がほかの場所に住んでいて、たまたま偶然、なにかの事情でマドラスに来たところをヘーラが目撃していたら、という可能性だ。それほど遠くではなくても、隣街くらいならあり得ることだ。マイケルの心配する通り、十日も探しているのに、足跡ひとつないのも妙なことだった。捜索の範囲を広げることも、私は考えつつあった。
もっとも、正確にはマイケルは手掛かりがないことを心配しているのでなかった。彼の頭の中にあったのは、意図的に女が姿を見せずにいるのでは、という懸念だった。
「でも、向こうは警戒しているんじゃ?」
マイケルは、猜疑的なニュアンスが込められた言葉を投げ掛けた。それは態度にも現れていた。マドラスに着いてからのマイケルは落ち着きがない。街中を歩いていても、音もしない物陰をじっと睨んでいたりする。私とは別の意味で、常に用心深く周囲の動きに気を配っていた。
「警戒? なぜ? つまり、おまえは彼女がわざと見つからないようにしている、と言いたいのか。でも、彼女だってこの時代に生きるサピエンスだぞ。たとえ遠くからでも、おれの姿が目に入ったら、放っておくわけがないだろう」
「それはそうだけど、兄さんは変だと思わないのかい?」
「なにが?」
「彼女が、ヘーラの故郷のサピエンスたちと暮らさなかったことをだよ。彼女だって、ヘーラのいたコミューンの存在を知っていたはずじゃないかな。歩いてたった二日の距離なんだから。それなのに、こんな時代なのに、離れ離れだったなんて。彼女は、人を拒んでいるようにも思えるよ」
まあな、と私は頷いた。マドラスに着いたことで有頂天になっていたが、そこがいちばんの留意すべき点なのだ。
「詳しくは調べようもないけど、双方が反目していたのは確かだろうな。彼女の親や仲間たちがいるとしたら、あるいはグループ間の対立だったのかもしれないが。でも、いずれにせよ、ここで起きたことはおれとは無関係だ。よそ者のほうが、むしろ彼女にとって安心なんじゃないかな。おまえ、気付かなかったか? 壁にメッセージを残すとき、わざわざ最後に『アルプスから来たサピエンスより』と加えているのはそのためさ。彼女に地理の知識があるかはともかく、それで遠くから来た人間だってことは察しがつくだろう」
「へえ、そんな計算をしていたんだ。でも、それは彼女が無害だと思っているからだろう?ここに着いてから兄さんは、ヘーラの警告を忘れているみたいだ」
マイケルは、あくまで彼女が危険人物であることにこだわっていた。
「忘れてはいない。そう見えたとしても、それはおれとおまえたちノウスの置かれた立場が違うせいさ。おれは、まずその女に会わなければいけないんだ。こちらも警戒していたら、向こうだって警戒する。そうだろう? まず、こちらがオープンにならなくては。ちゃんとコミュニケーションを取らなければ、なにもはじまらない。もちろん、おまえの不安も理解できるさ。彼女はヘーラのコミューンの人たちに、かなり忌み嫌われていたようだからな。呪われた女はオーバーだけど、諍いから人間不信になっていることは充分考えられる。そういう意味では、もっと慎重に行動したほうがいいのかもしれない」
「私だって、手助けをするためにここに来たんだ。彼女がはやく現れることを願ってはいるけどね」
マイケルは一旦区切ると、訴えるような真剣な眼差しで私を見詰めた。一呼吸置いてから、話をつづける。
「兄さん、それでも、彼女には注意したほうがいい。そんな人でないことを願うけど、私たちに危害を加えることだって」
「よせよ。そこまで怯えることもないだろう。女一人になにができる? だいいち危害を加えたところで、得することはない」
「彼女は女でも、母さんやマルーシュカとは違うんだ。小さい頃、母さんが話してくれた御伽噺に、よく魔女が出てきたよね。魔女というのはふだん優しいけど、いざとなったら残忍な性格をあらわにする。ヘーラのイメージの彼女を見たとき、そのことが頭に浮かんだよ」
私は、首を振った。童話の憎まれ役を引き合いに出すほど、幼稚な喩えをするとは予想もしなかった。
「きっとそれは、ヘーラが両親に彼女の悪い噂を聞かされたせいだよ。それとも、彼女は魔法を使えるのか? だったら、泥の人形でもいいから、新しい仲間をつくってもらうさ」
「とにかく、もし彼女に会っても、油断しちゃいけない。すぐには信用しないでほしいんだ」
私の軽口を聞き流して、マイケルが強く念を押した。
「分かったよ。油断はしないが、おれは彼女をはやく見つけたい。そうすれば、おまえも心置きなくアフリカに行ける」