二章 呪縛の継承
マドラスはチェンナイとも呼ばれていた、南インドの東海岸に栄えていた都市だ。地図には港と国際空港の記号のほかに、人口五百万人以上を示す記号があるので、周辺の経済的中心地だったことが推測できる。往時は異国からの貨物船や飛行機が乗り入れ、ビルの狭間で人々がざわめきあっていたのだろうが、いまはその栄華の面影もない。
私とマイケルが南インドの東海岸に到達したのは、アルプスのコミューンを旅立って二年と数カ月が経過した頃だった。自然の荒々しい洗礼を受けながらも、ようやく眼前にヤシの木立ちに彩られた大海を認めると、私の胸は熱く打ち震えた。
しかし、問題はそれからだ。我々が東海岸のどの辺りにいるのか見当がつかない。東海岸と一口に言っても、それは南北数百キロにも渡っているのだ。最後に立ち寄ったコミューンは、デカン高原の中央部に位置し、その西にはハイダラバードという街の廃墟があった。そこから東海岸のちょうど中間点に向かって進んだのだが、マドラスはさらに南にあるはずだった。
我々は来る日も来る日も、海岸に沿ってひたすら南下した。灯台を探すためだ。
灯台はヘーラが教えてくれたマドラスの目印だった。かなり崩壊が進んでいるが、おそらくいまも建っているだろう、という。この時代、いくら大都市だったとはいえ、目印でもなければ、ほかの街の廃墟と区別ができない。ノウスが住んでいれば別だが、マドラスの付近にはその気配がないようだった。
灯台を見つけたのは、ある雨上がりのことだった。
「あった。あれだよ」
雨宿りした菩提樹から出ると、雲の散った空の下に塔のようなものが建っていた。菩提樹は高台にどっしりと根を下ろしていたので、見晴らしはいい。篠突く雨が煙幕を張っていなければ、もっと簡単に見付けていただろう。
灯台までの距離は、二キロほどだった。海岸線から少し離れたところには、朽ち果てた寺院やビルがひしめいていた。
「あれだな、きっと」
私は興奮を抑え切れず、足早に歩き出した。もう何日も海岸を探索していたので、方向を誤ったかと弱気になっていたのだ。そこに、ふいに目印が姿を現わした。旅がゴールを迎える実感が、爆発したように込み上げてきた。
実際にそばまで行ってみると、灯台は白砂の浜にぽつりと佇んでいた。ふつうの灯台とは異なる三角柱の構造で、赤と白の太い縞模様に塗り分けられている。観光的な要素もあったようで、高さはおよそ四十メートルと大きい。倒壊こそ免れているが、外壁は虫喰いのようにボロボロだ。穴の開いた箇所からは海鳥が飛び立つ。海鳥にしてみれば、巣作りをするのに好都合なのだろう。
「うん、これだよ。周辺の景色もヘーラのイメージとぴったりだ」
マイケルはもちろん、ヘーラの記憶に残っていた灯台の像をあらかじめ読み取っていた。その像が目の前の灯台と一致したようだ。これだけ特徴のある外観なら、間違える心配もない。
我々は砂浜を抜けて、街中に入った。インドでも有数の大都市だったはずなのに、高い建物はあまりなく、こぢんまりとしている。道端には野草に混じって、赤や黄色の強烈な色彩を帯びた花が咲いていた。たとえ人気のない廃墟でも、海に面した街はどこかのんびりとした趣があるものだ。
市街の跡でいちばん目についたのが古い寺院だった。インドのほかの地域と同様に、マドラスもまた古い寺院が数多く残っている。インドではヒンドゥー教という宗教が風土に密着していた。寺院の壁一面にはその神々の姿のほかに、象や牛などの動物がびっしりと彫られている。しかし、もう彼らを崇拝する者はいない。
しばらく進むと、異様な光景にぶつかった。巨大な瓦礫の山だ。粉々に砕け散ったレンガがうずたかく積み上げられている。天から途方もなく大きな足が下りてきて、そのまま建物を踏み潰してしまったかのようだ。
そのレンガ群はかつてひとつの建物だったと思われたが、そんなことも感じさせないほど徹底的に解体されていた。自然に崩れ落ちたというよりは、故意に取り壊されたらしい。あるいは破壊されたと言ったほうが正しいのかもしれない。地面に転がったレンガには、小さな穴が開いているものがいくつもあった。それは、おそらく銃痕だった。瓦礫の隙間には、悪夢の名残りのように一丁の自動小銃が挟まっていた。
「兄さん、あれなんだろう?」
マイケルがすぐそばにある、二メートルほどの横長の板を指差した。丁寧に土を払ってみると、「高等裁判所」という文字が浮かび上がってきた。
「ここは裁判所だったんだな。なんらかの理由で、暴動が発生したんだろう。それにしても、見事に破壊されたものだな」
注意すると、近辺の建物にも銃痕が残されていた。しかし、裁判所のように完膚ないまでの攻撃は加えられていない。状況的には裁判所で抗争が起きて、まわりに飛び火したらしい。
「マドラス、か」
私の胸に、希望と不安が交錯した。