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一章 サピエンスを求めて


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目覚めたとき、あたりの匂いで昨夜雨が降ったことが分かった。

寝床の藁や土がむきだしの床、壁の隙間からも湿り気を帯びた空気が漂っていた。

この季節に雨が降るのは、あまりないことだ。私は起きあがり、部屋の窓から外を覗いた。道端には小さな水溜りができているが、もうほとんど乾燥している。雨音に気付かなかったということは、夜中の暗闇にまぎれながら静かに地表を濡らしたのだろう。

窓のすぐそばをマイケルが通った。水汲みを終えたばかりで、ぱんぱんに膨らんだ革袋を背に担いでいた。

「おはよう、兄さん」

マイケルが私に声を掛けた。私も、おはよう、と朝の挨拶を返した。

畑では、すでにチェチェたちが仕事をはじめていた。頭上に振りかざした鍬を、精魂込めて地面に打ち下ろす。何度も、何度も。生きていくのに必要な食物を得るために。

そんな光景を眺めながら、なにから書けばいいのだろう、と私は考える。そしてこのパピルスに綴ろうとしていることに、どれほどの意味があるのか、と。

そもそも誰に向けた文章なのか、それすら私には分からない。果たしてこの時代に、文字を読める人間がどれほどいるというのか。このコミューン(集落)でも文字を読めるのは私とマイケルとチェチェだけだ。しかしマイケルは私の弟で、チェチェとも十年来の仲になる。二人とも私の人生の大半を知っている。

それでも私は書かずにいられない。いまこの至福の時を過ごしながらも、私には最後のサピエンスとしての義務がある。そう、伝えるべきことが私にはあるのだ。

どうか、語らせてほしい。それがせめてもの救いなのだから。


私の名前はブルース。ちょうど四十年前、アルプスの麓で生まれた。西暦にして二四八二年のことだ。

「おまえが生まれたときは大騒ぎだった」

 父は時折、遠くを見るような目をしてよくそう言っていた。

「なにしろ十三年ぶりのサピエンスの赤ん坊だったのだからな」

 十三年ぶりのサピエンスの赤ん坊。その言葉の中に私の人生のすべてが集約されている。同じ兄弟でも八つ下のマイケルは、そんなことを言われなかった。私とマイケルは血が通っていながらも現世人類と新世人類という人種的相違があったからだ。

 父と母は、私の誕生が意外だったのだと思う。二人ともサピエンスだったが、自分たちが同種の人間を産むとは、実のところ想像もしていなかったのではないか。もっと厳密に言うと、サピエンスは生まれないでほしいと、心のどこかで願っていたはずだ。自分たちの赤ん坊はノウスでいい、と。

 ノウスとはラテン語で、「新しい、未知の」を意味する。彼らにはホモ・ノウスという生物学上の名称があるが、通常は略してノウスと呼ぶ。そして我々、現世人類ホモ・サピエンス・サピエンスも、サピエンスと略すことで彼らと人種の区別をしている。

 「未知の人間」ホモ・ノウスは我々サピエンスの後継者である。バトンは完全に彼らに渡された。サピエンスはいま、その歴史に幕を下ろそうとしている。猿人、原人、旧人、そして新人。人類はゆっくりと進化してきた。その流れの変わる瞬間に、我々は生きているのだ。

 しかしノウスには、いままでの人類やその祖先とは大きな違いがある。そのひとつが、彼らが両性具有であるという点だ。

 ノウスには男と女という区別がない。彼らは、一人ひとりが精巣と卵巣を併せ持った雌雄同体なのだ。ある程度の年齢に達すると、誰もが異性との生殖行為なしで妊娠し、子を産むことができる。生まれてきた子供には、父親も母親もいない。中性的な顔立ちをした、一個の親がいるだけだ。

 そうすることで――両性具有たることで、新世人種は生物的袋小路から抜け出すことができたのだ。

猿人アウストラロピテクスが直立歩行を覚え、原人ホモ・エレクタスが火をおこしたように。


 進化は文明の発展とイコールではない。サピエンスが謳歌した高度な文明社会はとっくの昔に死んでしまった。ノウスは、サピエンスの叡智の結晶を受け継ぐことをしなかった。それは彼らが、単純に文明を拒んだからではない。彼らの持つ種の総意とも言うべき先天的な傾向が、新たな暮らしを築かせたのだ。数千万の人々が生活するメガロポリスも、そこにそびえる天を突くような高層ビルも、電車も、バスも、飛行機も、もちろん学校や病院やテレビや情報機器も、ノウスにとっては無用のものだった。いまそれらは呼吸を止め、荒れ果てたまま雨と風に身を任せ朽ちている。まるで巨大になりすぎた鯨の遺骸のように。

 ノウスがサピエンスの遺産を受け継がなかった背景には、あらゆる因果関係が重なっている。しかし、そのことについて説明する前に、まず私の生い立ちを語っておこう。


 私の生まれたアルプスのコミューンには、二十人ほどのサピエンスが住んでいた。彼らはみんな人類復興主義者たちだった。「人類復興主義」とは以前の文明社会を見直し、もう一度サピエンスの手で理想社会を築こうという考えだ。そのため彼らは人口を増やす努力をしたが、生まれてくる子供はほとんどがノウスだった。私が生まれたのはちょっとした遺伝子の気紛れで、私以後そのコミューンでサピエンスが生まれることは二度となかった。

「ブルース、いいかい、聖書という古い読み物に、知恵の木の実を食べたことが人間の最初の過ちだと書かれてある。三千年以上も前からそのことが分かっていたのに、人間は自分の欲望に目覚め、どんどん賢くなっていった。そして光が影をつくるように、賢さは愚かさを生む。そのふたつを兼ね備えたものが文明というものだったのだよ」

 私が幼かった頃、父は子守唄を唄う代わりに、毎晩私にそう言って聞かせた。父はそのまた父に、同じ話しをされてきたのだろう。

「知恵を持つのは悪いことなの?」

 ある夜、私は聞いてみた。父はゆっくりと首を横に振り、こう答えた。

「何百年か前まで、人間はいまとは比べものにならないくらいの便利な暮らしをしていた。車や飛行機という乗り物がものすごい速さで行きたいところまで運んでくれ、水だってわざわざ川まで汲みに行かなくてもよかったんだ。ブルース、お前には分かるまいが、この地球には何十億もの人々が住んでいたのだよ」

「何十億ってどれくらい?」

 藁を敷いた寝台に横になり、父の手を握りながら私は言った。

「星の数よりずっとたくさんさ」

 それがどれくらいの数なのか、私にはさっぱり見当がつかなかった。ついでに言えば、地球というものもよく理解できなかった。コミューンから一歩も出たことがなく、外部の人間すら見たことのない私にとって、それは自分の立っている大地というよりも、どこか空想のなかの遠い世界を指しているように感じられた。

「お父さん、みんなはどこに行ってしまったの? どうして、みんないなくなってしまったの?」

 父は私の幼稚な質問に、しばらくの間うつむいていた。

「ブルース、私たちはもう一度やり直さなければいけないんだよ。森を傷つけることなく、川を汚すことなく、いままで人類が育んできた知識を、今度こそいい方向に活かすんだ。互いに愛し、喜びで満ちた国をつくらなければいけない。そうしなければ、私たちは先人たちのツケを払わされたままで終わってしまう」

 私の手をそっと撫でながら、父は言った。口元は微笑んでいながらも、その瞳には追い詰められた獣のような執念の光が宿っていたのをいまでも記憶している。

 数日してから父は、コミューンから丘を隔てたところにあるゴースト・タウンに私を連れ出した。小さな街の廃墟だ。アスファルトの陥没した箇所からは雑草が伸び放題に伸び、建物の大半は崩れかかっている。人間はおろか、動くものはひとつとしてなかった。不気味なくらい静まり返った街の空気には、重苦しい死の匂いが確かに含まれていた。

 街に入ってからというもの、父は一言も口をきかなかった。街に来た理由を訊ねても、答えもせずに黙ったまま足早に歩くだけだった。いつもは優しい父が、なにか重大な決断を前にし、それに私を巻き込もうとしているのが子供心に感じ取れた。私は泣き出したい気持ちを抑え、それでも置き去りにされないように父の後を懸命に追った。

 やがて父は大通りの一角にある、三階建ての建物の前で足を止めた。ほかの建造物に比べると保存状態も良く、玄関口までつづくなだらかなスロープの両側には彫刻の施された支柱が連なっていた。半開きのまま錆びついてしまった重厚な扉の隙間から足を踏み入れると、埃にまみれたロビーがあり、そのさらに奥には二メートルほどの高さの棚が規則正しく並べられていた。

「ブルース、ここは図書館という場所だ。あそこにある棚には、文明人が大切にしてきた知識や歴史、さまざまな気持ちを綴ったものがたっぷり詰まっている。本というのだよ。今日からおまえはここにある本を少しずつ持ち出して、文字を覚え、過去の人たちがどんなふうに暮らし、いなくなっていったのかを学ぶんだ」

 嫌だ、と私は全身を強ばらせて、それを拒否した。父の言ったことは、知恵を持つことになる。幼かった私にとって、それは悪いことだったのだ。死人の匂いが染みついたこの街の空気が、なおさらその気持ちを強くしていた。

 父はしゃがみこみ、私の両肩に手を置いた。そしてかたくなな態度で拒む私と視線を合わせると、こう言った。

「昔、この大地には何十億もの人々が住んでいた。お父さんがそう話したのを覚えているね?」

 私は父との視線を逸らしながらも、渋々頷いた。

「だけどこの時代に何人のサピエンスが生きているのか、もうお父さんにもコミューンのみんなにも分からないんだ。ほかのコミューンで暮らしている人たちがいるのか、その人たちはどこにいるのか、私たちには手掛かりひとつないんだ。生まれるのはノウスだけで、私やおまえや母さんのようなサピエンスはもしかしたら二度と生まれてこないのかもしれない。しかし、おまえにはまだ難しい話しだが、もしサピエンスが再び蘇れるのなら、これまで過去の人たちの辿った道を知っておいてほしい。そして本の語るあらゆる情報から、するべきこと、してはいけないことを覚え、間違いのない新しい世界を築いてほしい。ブルース、それが私から未来のおまえのために捧げられる唯一の希望だ」

 父は私をきつく抱きすくめ、静かに身体を震わせた。

 当時、私は六歳だったが、自分の置かれた状況がまったく飲み込めないでいた。コミューンにはノウスと呼ばれる子供たちがいて、彼らがなんらかの形で私と差異があるのは分かってはいたものの、科学は滅んだとか、文明を復興させるなどと言われても、それらは私とは無関係な大人たちの話だと思っていた。前述のとおり、二十人ほどの人間がかろうじて細々と生活しているコミューンが、私にとってすべての世界だったのだから。

 だが、物事はそう簡単ではない。

 我々のコミューンとはまるで異質な、廃墟と化したこの街。行き場のない未来とゼロに等しい希望に憐れみ、涙する父。私の世界観を根本から覆す強大な波が押し寄せてくるのを悟りながら、そのとき初めて、私はサピエンスであることを自覚した。

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