第七章俺と花火と交錯する想い
第七章俺と花火と交錯する想い
夏休みに入ってからも、サークルメンバーの予定は合わず、徒に時間が流れていった。
そもそも、一〇〇人以上の予定を合わせるというのが無理な話なんだ。誰しもが、休みには何かしらの予定を突っ込むもの。別々に行動する二十人の空いている時間を狙うのであれば、前もって差し押さえでもしない限り実現不可能だろう。
だから俺は特に大きなイベントもなく、生徒達がいないというのに何故か湧いてくる生徒会の仕事に忙殺されて毎日を送っていた。
テントの在庫確認、レンタルテントの発注、生徒会倉庫に詰め込んで一年間忘れ去られていた看板とかペンキの確認、その他諸々に時間が奪われていく。
「先生達も手伝ってくれれば良いのにな」
「生徒の主体で行事をやることになってるんだから、これくらい生徒がやらないと」
「生徒主体って、絶対に先生が働きたくないから作った言い訳だと思うんだが」
「馬ぁ鹿。先生が全部やる方が、馬鹿な生徒達のフォローをするより楽に決まってんじゃん」
「普通、ここで先生側につくか? どんだけ真面目なんだよ」
生徒会のメンツとか文化祭実行委員とかがやっている仕事を手伝いながら、俺と紫藤は口と身体を動かし続けた。
紫藤はスカートの下にジャージを履いている。ならジャージに着替えろよと思いはするものの、それは『ダサい』のだろう。まあ、紫藤の事だから周りの奴等がしているのを真似ているだけだとは思うけど。
スカートがめくれる度に律儀に元に戻す様子を眺めては、ならスカートは脱いで良いんじゃね? とは思ったが、言ったら無粋だと殺されるだろうと思って、口には出さない。
生徒会の仕事は昼休みを挟んで午後になっても続き、もう惰性と慣性に従って仕事をする俺達はゾンビの様にのろのろと動いた。社会人って朝早くから夜遅くまで働くんだろう? 俺、到底できる気がしないんだけど。
それでも、手を止めることなくひたすらに歩き続けると、いつかは仕事は終着点を迎える。社会人になる事への不安を感じながらも仕事を続けていると、今日やることになっていた仕事が一応片付いた。
その頃にはすっかり日は傾いて、もうそろそろ暗くなりそうだった。グラウンドから聞こえて来ていた、サッカー部やラグビー部、野球部の声がいつの間にか止んでいる。
「なあ、今から花火観に行かん?」
帰り支度をしていると、副会長が誘ってきた。
「あれ? 今日ってサークルの日でしたっけ?」
近くに紫藤がいるから、デートと言及するのがためらわれた。だが俺の舌足らずな問いも、ちゃんと伝わってくれたらしい。
「いや、あれとは関係ない。生徒会のメンバーで行こうかなって思っただけだ」
いつもなら面倒臭くて断っていただろう。だが、うちのドライフラワーとの隔絶された心の距離を一歩でも近付けるチャンスだと思った。
「ねえ、紫藤はどうする? 花火大会行く?」
それは、先輩達とデートをしていなかったら出なかった発想だと思う。でも、女子を誘う事へのハードルが著しく下がっていた俺は、特に意識することなくに誘えていた。
「遅くなるね」
「親、そういうの厳しいの?」
「門限は七時よ」
「今時門限あんのかよ・・・・・・」
「普通だと思うけど」
「うん、普通ではないな」
じゃあ無理なのかなと思い、じゃあ俺も断ろうかと考えていると紫藤が鞄をとって俺の横に並んできた。
「別に良いよ」
誘いに乗るときも偉そうなんだなぁと、この時改めて思った。
「じゃあ、船越達も参加な。一度帰ってたら間に合わないから、直接行くぞ」
そういう副会長に連れられて、生徒会の十人くらいで電車に揺られ、会場に向かう。会長、江宮先輩ももちろん来ている。
紫藤は制服の上にグレーのパーカーを羽織った。
「冷房とか寒いから」
制服の上に可愛らしいパーカーを一枚羽織るだけで、無骨な制服姿に花が添えられるのだから驚きだ。
そんな紫藤の隣を歩きながら、もしかしたら本当に、いつか俺と紫藤は付き合い始めるのかも知れないなぁなんて思っていた。それは多分、妥協じゃない。諦めでも、自暴自棄でもない。一年以上という二人の時間が生み出した、新しい恋の芽だった。
会場の最寄り駅に着くと、「男手、男手」と言って、男子が飲み物の買い出しに行く事になった。女子は場所取りと言って、先に行ってしまう。
「これが最善の方法だってのは分かるんですが、今一納得できません」
そういう俺の不平、不満、苦情を、心の広い副会長は笑いながら受け流してくれる。
「まあまあ、良いじゃないか」
人数分プラスアルファのペットボトルとつまみの入ったビニール袋を持って、女子の後を追う。ビニール袋が指に食い込む痛みを感じながら、浴衣姿の人達を追い抜かしていく。
毎年なんかしらの形で来ているからわかる。畑の奥の広場が会場になっているこの花火大会では、途中の獣道を入ったところに人通りはない。
そこに江宮先輩と副会長をぶち込めば、二人っきりにできる。本道を外れた道の閑散とした様子を眺めながら、俺はそう思った。
LINEで江宮先輩に連絡する。
――二人っきりになるの、今日はどうですか?
返信は中々来なかった。その間に俺達は川を渡り、背の丈ほどに伸びた雑草の間を練り歩く。
そして、広場に出て、女子に合流したくらいでやっと返信が来た。
――オッケー、別に良いよ。
そのメールを確認すると、駅から会場までの裏ルートの乗った地図を送る。中学校の頃、迷いながらも見つけ出したその裏ルートを通る人間はほとんどいない。
――途中、俺と副会長が抜け出すので、そうしたらそのルートを通ってきて下さい。
ブルーシートを広げて座っている紫藤や会長のところに座り、紙コップを配る。そして、手に取ったペットボトルを互いに注ぎ会い、花火の開始を待つ。
俺等が落ち着いた頃には、開始まであと一時間近くあった。暇だなぁ、と思ってまだ薄明るい夜空を見上げると仄かに星が輝いていて、それだけでもう十分に綺麗だった。
「ねぇ、トランプしない?」
暇つぶし、と言うことなのだろう。三年の先輩がトランプを取り出した。他の三年生もやる気になっていたので、俺達二年が何を言うこともできずただ成り行きを見守った。
「でも、何やるの? 大富豪?」
「一人の手札が五枚の大富豪とか、何もできないじゃないか」
「じゃあ、何やるのさ?」
「インディアンポーカーだな」
そう言って、副会長は自分の頭にトランプを乗せた。
「掛け点十点から」
そう叫んだ副会長の脳天には、ダイヤの一が煌めいていた。わざとやっているんだとしたら凄い機転だし、わざとじゃないとしたら神がかり的な引きだ。
「じゃあ私もぉ」
そう言って一枚取って、会長も自分の頭にトランプを乗っける。ハートのクイーン。さすが会長だ。
じゃあ俺も、俺も、と周りの先輩達がトランプを頭に乗せていく。俺も一枚取って頭の上にのっけた。
「ポイント計算するの面倒臭いじゃない? 十回やってビリだった回数が一番多かった人が、屋台で何か買ってくるってことでぇ」
会長がしれっと罰ゲームを宣言する。お代は多分、敗者持ちなんだろうなぁ。
「ねぇ、海渡君。私変えた方が良いかなぁ?」
俺の手札がキングじゃない限り、クイーンは最強の手だった。
「どっちでも良いんじゃないですか?」
「海渡君だったらどうする?」
「俺だったら、変えます」
「じゃあ、変えない」
「意味分からないですよ」
「だってぇ、海渡君って性格悪いじゃない? 絶対に良い手札だって分かっちゃった」
会長の俺に対する信用って、そんなにないのかよ・・・・・・。
「じゃあ会長、俺は変えた方が良いですか?」
「替えなくて大丈夫だよぉ」
訊いて早速後悔した。会長の満面の笑みからじゃ、今一判別が付かない。
「紫藤はどう思う?」
「替えた方が良いんじゃん」
うわー、これもイマイチ分からねぇ・・・・・・。
「じゃあ、勝負で良いか?」
だから、俺は手札を変えず、一週目は手札を変える人は誰もいなかった。どうせ一で変えてない時点で、副会長がビリであることに変わりは無いはずだ。
「オープン、インディアン、ポーカー!」
そんな掛け声に合わせてカードを表にする。
「はい。船越の負け」
「嘘ぉ!?」
一に負ける訳が無いだろう? そう思って自分の出したカードを見たとき、周囲の人達の反応の意味が分かった。
そう、俺のカードはクラブの一だったんだ。
通りで、誰もカードを変えようとしなかったわけだ。俺以外の奴等には、変えても変えなくてもビリが分かってたのかよ。
「じゃあ、船越が負け一ね。次行こうか」
そう言って、また各々が頭にトランプを乗せていき、勝負が続いていく。
お互いにお互いを騙し合いながら、お互いの言葉を疑いながら、笑ったり、怒ったりして一戦一戦重ねて行った。
結局、副会長四敗、俺三敗、あと一敗の人が三人という結果になった。
「分かったよ! 買ってくれば良いだろ? 買ってくれば!」
ビリを決める十回目の対戦で、俺が四、副会長が二という相変わらずの底辺争いに辛うじて俺が勝利すると、副会長がふてくされて立ち上がった。
「ああ、先輩。一人じゃ持てないと思うんで、俺も手伝いますよ」
「ああ、悪いな」
「いえ、底辺を争った仲間のよしみです」
最後の勝負に勝ったとき、はっきり言ってもの凄く嬉しかった。こうも簡単に副会長を隔離することに成功するのかと、運命を司る神様に感謝したい衝動に駆られた程だった。
まあ、勝てたのはどう考えても紫藤のお陰だったんだけどさ。
どういう風の吹き回しか、紫藤が嘘を吐かないことに途中で気付いた俺は、会長や江宮先輩に訊きながら、さりげなく紫藤に訊いて点数を調節した。
どうして紫藤が俺を助けてくれたのかは分からなかったけど、有り難かったのは言うまでもないだろう。紫藤としては、面倒臭くてどうでも良かったからかも知れないけどさ。
――今から裏ルート通るんで、入り口を確認して下さい。
そうLINEを送ってから、先に歩き始めた副会長に駆け寄る。
「正規の道を通ると、会場に来る人達の流れを遡る事になるんで大変ですよ。こっちから行きましょう」
そう言って、俺は裏ルートに案内する。
「へぇ、こんな道あるんだ。こういうの知ってるって、この花火大会にはよく来るのか?」
「まあ、毎年来てますよ」
いつも一緒に来る人とは今年は一緒じゃないですけど、とは言わなかった。そう、去年までずっと隣を歩いていた夏目は、もう俺の隣にはいない。
裏ルートは、ショートカットでもある。少し歩くと直ぐに屋台が並んでいる所に着くことができた。
焼きそばやお好み焼き、たこ焼きにチュロス・・・・・・。祭りっぽいと俺等が思ったものを片っ端から買っていく。どうせ自腹なんだろうとは思っていたが、せっかく皆で食べるんだから豪華にしたかった。
「なあ、船越。人間関係って、インディアンポーカーみたいじゃないか? 自分だけが、自分の置かれた状況が分からなくて、周りの反応を見て身の振り方を変えていくんだ」
「それって、よく言われているのと逆ですよね。人は自分の事しか分からないって言うのは、よく耳にしますけど」
「だからさ、本当は自分自身が分からないんじゃないかなって思ったんだ」
いつもムードメーカーとして頑張ってくれている副会長らしい発想だと思った。
「副会長は、サークルで告白してみようと思っている人っているんですか?」
「候補はいるんだけどね」
「候補って、まさか何人かにアプローチして、上手く行った人を選ぶつもりですか?」
違う、と言って欲しかった。だって、副会長は久米村先輩のためにサークル活動を立ち上げたような、一途な先輩であって欲しかったから。
「ああ。だって、言ってみて、駄目だったら次に行った方がよっぽど生産的だろ?」
だが、副会長から返って来た言葉は、案の定俺の一番嫌いな色をしていた。
「それは、恋って言わないと思います」
やはり俺は、恋愛に効率とか、生産性とかを求める考え方に、嫌悪感を抱いてしまう。
「他にいくらでも女の子はいる。それに、一人を追うことは、非効率だし生産性もない。そういう事が全部分かっていて、それでも割り切れない。不安でいっぱいになって好きだって言えない。そういうのが恋なんだと思います」
「彼女も出来たこと無い人間がよくそんな事言えるよな」
「その場しのぎの恋愛は経験した事はありませんけど、もの凄く好きな人を他の人に持って行かれることは経験しました。だから、言えるんです」
「それは、いつもは一緒に花火大会に来てくれていた娘かい?」
俺が余りにも驚いていたからだろう。副会長は笑いながら説明してくれた。
「だって、もの凄く寂しそうな顔をしていたからな。さっきの船越は」
「なんか、自分の事だけが分かっていないって言う言葉の意味が何となく分かりました」
「そうか」
副会長は両手に焼き鳥や焼きそばの入ったビニール袋を持ったまま、肩を揺らしながら大笑いした。
「船越、俺だって怖いんだよ。だからさ、ちょっとぐらいふざけさせてくれても良いだろ?」
だから、小声で副会長がそう言ったように聞こえたのは、聞き間違いだったのかさえも俺には分からなかった。
――そろそろ戻るので、こっちに来て下さい。
獣道を引き返すとき、江宮先輩にそうLINEをした。そして、五分後に携帯が鳴るようにも設定する。
生徒会の仕事の話だとか、夏休みになってからやっている事だとか、そういう他愛もないことを話ながら二人で歩いていると、丁度半分くらい行ったところで携帯が鳴った。
携帯を耳に当て、会長と電話している振りをする。
「はい、船越です。・・・・・・はい、あー、そうですね。はい・・・・・・はい。あー、直ぐ行きます」
携帯をポケットに戻して副会長の方を向く。
「なんか分からないんですけど、早く戻るように言われたんで戻りますね」
「俺も付いて行くよ」
「でも、副会長に持って頂いているの、焼きそばとかお好み焼きとか、型崩れするものばっかりじゃないですか。先輩はゆっくり来て下さい。では」
そう言い残して俺は駆け出す。去年まで毎年歩いていた道だからか、舗装も手入れもされていない道でも、俺はすいすいと走ることができた。
走り始めて数秒で、副会長の姿が草むらに消えてしまう。
「ああ、江宮先輩」
更に少し走ると、ゆっくりと歩いてくる江宮先輩にぶつかりそうになった。
「副会長、この後ろに付いてきているんで。頑張って下さい」
「海渡くぅん、怖いよぉ・・・・・・。もの凄くドキドキして、もう色々と無理なんだけどぉ」
「大丈夫ですよ、先輩。先輩は十分に魅力的です」
「・・・・・・うん。ありがとう」
そう言う江宮先輩の顔は、ほんのりと上気して赤っぽく、でも人形の様に固かった。
そうして先輩が、ゆっくりと、でも確実に進んでいく後ろ姿が背の高い草で見えなくなるまで見送って、俺はその後をゆっくり付けて行った。
こんな事は約束していない。ただの俺の興味本位である。
「笑美・・・・・・」
呻くような副会長の声が草むらの向こう側から聞こえて来た。さらにもう少し歩くと、草と草の間から二人の姿を見ることができた。あちこちで泣きわめく、虫や蛙の大合唱に息を忍ばせて、二人の様子を観察する。
「今日は誘ってくれて、ありがとね」
「おう」
そう副会長が呟いたきり、暫く二人は何も言葉にしない。江宮先輩の火照りを冷やすかのようにヒューと吹いた風が、辺りの草をなびかせた。
「どうした? こんな人気の無いところに来たら危ないぞ」
「人気が無いから、来たんだよ」
ゴクリ、と誰かが息を呑む音が聞こえてきた。
「えっとね、突然だし、フクちゃんの誘いに便乗する形になっちゃったし、今言われても困るって思っちゃうかもしれないけど、でも、でもさ、また二人っきりになれる事なんて無いだろうから、言わせてね」
一息にそこまでまくし立てた江宮先輩は、副会長に更に一歩近付いて、とうとうその言葉を口にする。
「好きです」
時が止まったと思った。虫の音も、梟の鳴き声も、蛙の声も、草のなびく音も、会場に向かう群衆のざわめきも、どんどん二人からフェードアウトしていき、世界全体が微かに震える副会長の口が紡ぐ言葉を待っているようだった。
「悪い。俺、好きな人がいるんだ。だから・・・・・・もの凄く嬉しいけど、ごめん」
停滞する空気を切り裂いた、恐らく江宮先輩の心も切り裂いただろうその言葉に抗議するかのように、再び虫や蛙の大合唱がフェードインしてくる。
江宮先輩の肩が震えているのが分かった。足もガクガクで、やっと立っているって感じ。でも、それでも江宮先輩は笑顔を作っていた。
「ごめんって言うなよ、うちが惨めじゃんか」
戯れるように江宮先輩は副会長の胸を小突こうと腕を上げた。副会長は優しい目でその拳を受け止めようと身構える。
江宮先輩の拳は、威力は高いが命中力の低い必殺技のように綺麗に外れた。そのまま副会長の背中に手を回し、ギュッと身体を近づけると、唇を会わせる。
江宮先輩からの急襲に副会長は驚いたのか、目を大きく見開いた上、顔を真っ赤にしてただ立ちすくんでいた。
こうかはばつぐんだ、って感じ。
「明日から、またうち等はただの幼馴染みだからな。変に意識すんなよ」
そう言って道を花火会場と逆方向に駆け出した江宮先輩の目から、夜空を覆う色取り取りの光を反射して七色に輝く小さな雫が散っていった。
まあ、駄目だったとは言え、江宮先輩の恋に決着が付いて良かった。だって、世界には決着の付かない想いが埋め立てられるのを待つ不燃ゴミのように積み上がっているんだからさ。
そうやって自分自信を納得させながら、会長や紫藤が待っているブルーシートの方に再び歩き始めた。
「え? 船越?」
夏の夜を包み込む温かさに胸を浸していると、予想外の声が会場に戻った俺に掛けられた。
「夏目・・・・・・」
「そっか、船越も来てたんだ」
夏目は全体として赤っぽい、ラ・ジャポネーズみたいな和服を着ていた。
「和服、似合ってんじゃん。滅茶苦茶綺麗だ」
「お、今年は素直だねぇ。いつもは減らず口利く癖に」
「臍が曲がってた事なんてねぇよ。夏目の方が、今年は綺麗なんじゃねぇの?」
「バカ」
手に持った青い巾着で、俺の胸の辺りを小突く。
「夏目が見つけてくれた裏道、使わして貰ったわ。夏目は、買い忘れたものあんの?」
「ちょっと飲み物をね」
「二リットルペットボトルので良いなら、余ってるからやるぞ。裏道使わせてもらったお礼だ」
「いいよ、そんなの」
「だって、そろそろ始まるぞ、花火。鈴木と一緒に見てろよ」
「違うよ」
「鈴木とじゃないのか? クラスの友達と?」
「鈴木だけど・・・・・・そうじゃなくて。なんで分かんないかなぁ」
巾着を持っていない右手で夏目が頭を掻きむしると、綺麗な黒髪が仮設ライトの光を浴びて艶やかに煌めいた。
「だって、あの道は二人で見つけたんじゃん!」
夏目は白く細い指先で、俺が歩いて来た獣道を指さした。俺と夏目が去年まで歩いていた獣道は、夏目の指の先で闇に包まれていた。
「一方的に重たい思い出にしないでよ」
俺が何も言わずに突っ立っていると、震える夏目の声が俺の周りの空気を震わせた。
「どうしても辛いって思って思い出しちゃうならさ」
夏目の顔を直視することが、俺にはできなかった。だって、夏目が泣いていることが何となく分かってしまったから。
「・・・・・・うちと付き合わん?」
困った。
告白されて俺の中に一番最初に浮かんだ言葉はそれだった。そして何故か、次に浮かんだのは、生徒会倉庫の長机に座って一人で淡々と仕事をこなす紫藤の、どこか寂しげな姿だった。
どういう言葉を返せば良いのか、そもそも、YESと答えれば良いのか、NOと答えるべきなのかすら分からずに、だたこの場を切り抜ける言葉を、干ばつ時のダムの水の様に枯渇した言葉の泉から探し出そうとする。だが、そんな好都合な言葉は当然の様に湧いてこなかった。
「・・・・・・船越?」
不安そうに夏目が見上げてくる。その目の潤んだ夏目の顔は異常なほど可愛くて、思わず眼を逸らしてしまった。
そして、逸らした視線の先に、紫藤の姿を見つけてしまう。紫藤は俺達からほんの数メートル先で、寂しそうな顔をしながら俺達を見詰めていた。
俺の視線を追った夏目の表情が、憎悪の籠もったものにみるみる変わっていった。
怒りが決壊した夏目は、俺が止める間もなく紫藤の方に駆け出した。慌てて追いかけた俺が夏目に追いつく頃には、もう夏目は紫藤のねずみ色のパーカーを握り上げていた。
「やっぱり、お前か」
紫藤はいつもの好戦的な表情は何処へやら、怯えきった眼で鬼気迫る夏目を見詰めていた。
「返せよ! あんたにとっては、数いる生徒会役員の一人かもしれないけど、うちにとってはたった一人の幼馴染みなんだよ!」
夏目が力一杯、一回り小さい紫藤の身体を近くの木に押しつけた。紫藤は眼を瞑ったまま、歯を食いしばって、ただ耐えていた。
「なんか言いなさいよ!」
それでも、荒い呼吸を繰り返しているだけで紫藤さんは何も言わなかった。せめてもの抵抗なのだろうか、夏目の着物をしっかりと掴んで放そうとはしなかった。
さすがに止めようと、俺が夏目の腕を掴もうとした時、夏目の身体が派手に吹き飛んで、左向きに倒れ込んだ。
「ねぇ、何をしてるの?」
会長の手が夏目に伸びているのを見て、俺は何が起こったのかをようやく察した。
「私ぃ、あんたが嫌い」
そう言う会長は、このまま勢いで人の一人や二人殺しても奇怪しくなさそうな程に、深くて黒い目をしていた。
「夏目ちゃんはぁ、なんでまだ海渡君と接することができてるのかなぁ? 一度手を離したんだからぁ、潔く引くべきじゃない?」
「そもそも会長がいなきゃ、こんな事にはなってないんだよ!」
柔らかい皮膚と皮膚がぶつかり合う音が響いた。勢いよく立ち上がった夏目の手が宙を大きく舞い、会長の顔が右に大きく回る。
再び夏目の方を見た会長は、噛みついてきた瀕死の兎をどう料理しようか悩むライオンのように凄惨な表情を浮かべていた。
軽くステップを踏んだと俺が認識した次の瞬間、会長の拳が夏目の顔面に直撃する。そして、休むことなく、左ストレートをよろけた夏目にぶつける。
キャっと言いながら、再び後ろ向きに倒れた夏目を、会長は遠慮無く蹴り始めた。
「ぐあ・・・・・・ぐふっ・・・・・・んうっ・・・・・・はぁあ・・・・・・がっ・・・・・・ぐっ・・・・・・がぁあ」
夏目のうめき声だけが夜闇に響く。通路から外れたところにいるせいで、邪魔が入らないのを良い事に、やりたい放題だ。
「な・・・・・・か、会長! なにやってるんですか!」
状況に呑まれていた俺は、正気に戻ると直ぐに会長を止めに入った。
「その娘が、先に突っ掛かって来たんだよ!」
「元はと・・・・・・言えば・・・・・・一ノ瀬先輩が・・・・・・悪いんですよ!」
「最低な事をしてるのは、あんたよ! 鈴木君の気持ちを弄んで!」
「会長には関係ないじゃないですか! 一々うちの邪魔して! 何様なんですか?」
「何様でもないよぉ? ただ、あんたがムカつくだけ」
「良いじゃないですか! うちだって、ずっと船越が好きだったんだから!」
会長の足下でそう叫ぶ夏目の向こう側に、鈴木の姿が見えた。諦めた様な、寂しそうな顔で、自分の彼女を見詰め、そして立ち去ろうとした。
「ちょっと待てよ!」
俺は慌てて鈴木の後を追った。
「夏目があんなこと言ってんだぞ。お前も何とか言えよ」
「良いんだよ。僕は、いつかこうなるって分かってたから」
「どういうことだよ」
「夏目は本当は船越の事が好きなんだろうなって、ずっと分かってた。だから、近いうちに別れることになるんだろうなって、分かってた」
「それなのに、付き合ってたのか?」
「好きだったからだよ。それに、船越も人の事言えないじゃないか。ずっと他人の彼女に想いを馳せてたくせに」
泥まみれになったまま会長を睨み付けている夏目に手を差し伸べられるのは、どうやら俺だけらしい。
また一言二言交わして、会長の足が上がるのを見た瞬間、俺は駆けだした。夏目を抱えるように手を回した俺の背中に、革靴の冷たい衝撃が走った。
夏目、お前はこんなのを何発も受けてたのかよ。
夏目が、会長が、鈴木が、紫藤が、俺の行動に息を呑んだのが分かった。そうして生まれた沈黙の中、俺は自分の感じたとおりを夏目に伝える。
「夏目、本当にありがとう。すっげぇ、嬉しいよ。でも、悪いな。俺は、夏目とは付き合えないわ。だってさ、俺、さっき夏目が言ってくれたとき、正直困ったなって思っちゃったんだよ。嬉しい、じゃなくて、困った、だった。だから、ごめん」
俺の左肩に冷たい雫がいくつか垂れるのを感じた。なるべく優しく包み込めるようにと、抱きしめる手に力を込めると、夏目に思いっきり突き飛ばされた。勢い余って尻餅を付いた俺が見上げた夏目は、泣いているのか、笑っているのか分からない表情をしていた。
はははははははははははははははははははははははははははは!
「なに本気にしてんの? 冗談だし。まじウケるわぁ」
両手で腹を抱えるようにして高笑いをする夏目は、そのまま裏道へと入っていった。
泥まみれになった上に着崩れた着物に身を包み、ふらふらした足取りで一人寂しそうに歩く夏目の後ろ姿が痛々しいというのなら、そんなにも夏目を傷付けたのは、俺なんだろうなってことだけは分かった。
そんな夏目の後を、鈴木が静かに追っていく。その後ろ姿に、「よろしくな」と呟く。俺にできたのは、それくらいだった。
二人の姿が獣道に消えた時、ドォン! とバススピーカーから流れる低音のような、耳と言うより胸に響く爆発音が、俺達の頭上から襲いかかってきた。
見上げると、黄色い炎を上げて輝きながら、ピリピリと火薬が燃え尽きる様子が見えた。その余韻が覚め遣らぬ内に、にわか雨の様な激しい拍手に会場が包まれる。
どうやら、その花火は前座のようだった。スポンサーの名前が読まれると、また次の花火が一発夜空に閃く。また拍手に包まれる。また花火が上がる。また拍手に包まれる。それが繰り返されるのを、俺達はただただ会場の隅から見上げていた。
――それでは、これより第五三回さいたま花火大会を開催します――
そんなおじさんの声に、今までで一番大きな拍手が沸き起こると、軽くみぞおちを殴られた様な振動が身体を走った。
ドォン!
再び夜空に花火が近くで上がっていた。その一発を合図としたように、次々に打ち上げられた花火は、夜闇に光の波紋を生み出していく。そんな様子は、周りの人達をそうしているように、俺等を笑顔にし得たものなのかもしれない。
だけど、あの時の俺等はただただ、目の前で煌めく火の粉を眺めていただけだった。それを、綺麗とも面白いとも感じる事なく。
人は、目の前で爆音と共に色取り取りに光り輝いてくれないと火の美しさを認識する事ができず、一人一人の心の中で小さくくすぶる炎になんて、当然の様に気付くことができない。
そんな自分達の、気付いて貰えないもどかしさ、気付いてあげられない不甲斐なさを、天高く飛翔して煌めく火の粉を眺めながらずっと感じていた。
でも、それでも気付いて貰えたら、気付いてあげられたら、きっと嬉しいんだろうなぁ、なんて思ってしまう。
そんな俺達の都合の良い自分勝手で身勝手な考えを、久米村先輩なんかは馬鹿だと笑うだろう。でもそれでも、そう願ってしまうのも俺達人間なのだと思う。