ドッペルゲンガー
バーで隣に座った男が酔いに任せて、知ってるますか、とぼくに聞いてきた。そろそろマスターが店仕舞をする時間だった。
「なにを?」
ぼくはマスターの方を窺いながら聞き返した。マスターはグラスを全部片付け始めていた。
酔っ払いの相手は疲れるけど、これからもこの店で飲みたかったら少しはマスターに協力しなくてはいけない。具体的には、この新参者をとっとと店から放りだす、ということだ。
「ドッペルゲンガーですぜ、だんな」
相手は相当酔いが回っているみたいだ。男の手元のカウンターを見ると、まだジョッキの半分もビールが減っていない。ぼくはこの男がマスターにお代わりを頼むところを見た記憶がなかった。みんなお酒には弱いみたいだ。
「知ってるさ、ルーキー。残念だったな。さあ、残りのビールをすっかり飲んじまってきょうは帰ってはやく寝な」
「そうでねえんでさ、だんな」
どうでもいいが、ぼくは「だんな」という言葉が似合うようなそんな歳に見えるのだろうか。今度、育毛剤を変えてみようかな。
「何がそうでないんだ」
「実はですぜ、ドッペルゲンガーの話てのは、同じ容姿容貌の人間が居るって話なんです」
「三人もいるんだろう。珍しくもない」
乾いた唇をグラスのダウモアで濡らす。ウィスキーの中でも癖の強い、スモーキーな味わいがぼくの口腔を満たす。
ぼくはマスターの方に注意を払う。バーカウンターから出て、裏の用具室で掃除ロッカーをあさっている音が微かに聞こえた。
さて、この様子だと店仕舞までそう長くはない。
「それともなにか、クローン人間の話でもしようってのか」
突拍子な話題転換だ。これならさしもの男も興味を失くすだろう。ぼくは自分のお尻にある紙入の感覚を確認する。
「だんな。だんなはさすが、呑み込みが早い」
どう早いってんだ。
「そうです、クローンの話ですぜ。実は、この近くにある研究所で人体クローンの実験を行っているって話がありやして、なんでも検体には特別な処置が施されているそうなんです。自分と同じクローンを見た場合、その脳波を検出して特殊な脳内物質を分泌して、体内にある、あらゆるたんぱく質やなんかを分解しちまう強力な酵素を働かせるんだそうで、もし検体が外に逃げたとしても、検体同士が鉢合わせして人に目撃される危険性を低くしてるんだそうです。鏡じゃ駄目なんです、ちゃんとクローンでなきゃ。どうです、面白い話でしょう。噂ですがね、噂」
「どうだか。酒の肴には誰かの失恋話が最高だと思うんだがな」
「だんなも案外人が悪い」
男はそこでビールの残りを一気に飲み干した。そこへタイミングを見計らったかのようにマスターがモップとバケツを持って現れた。
「お勘定」と男が言ってポケットを弄る。ぼろきれのような汚らしいズボンに真っ白な手が突っ込まれている。男は着ている服こそみすぼらしいが、髪は整えられ肌は白く清潔感に溢れている。
ぼくはふと疑問に思って聞いてみた。
「なあお前、住んでる場所はあるのか」
「へへ、だんな。変なことを聞きますね。そりゃもちろんありますよ。おりゃあ生きてるんです。生きてる人間は住処がなけりゃ話にならない。もっともホームレスってんじゃ話は別ですが」
「悪いな、変なことを聞いて。変なことついでにあと一つ、その住処とやらには一人で暮らしてるのかい?」
「ええ、メイドなんて雇えるほど金持ちじゃありゃしませんって」
そうか、と言ってぼくは席を立った。紙入から紙幣を取り出す。
男は先に支払いを済ませた。外へと通じる扉の前で「人間、なんですぜ」と小さくつぶやき、軽やかな鈴の音をひとつ残してバーを後にした。
二人分の支払いを終えたマスターが掃除を開始した。
「三人が三人とも、まるっきり同じことを言ってやがったな」
マスターは答えなかった。