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漆黒のステンドグラス

作者: しゃち

 優奈は、一人渡り廊下を歩いていた。寒々としたコンクリートの壁が、自分の心を四方から押しつぶそうとしているようだった。周囲には絶えず笑い声が響いているが、そのどれも、彼女の耳には届いていなかった。


 この学校に転校してきて早一年が経とうとしているが、彼女の居場所はどこにもない。いつもこうして静かに校内を歩いて回りながら、極力目立たないように過ごす毎日だ。

 今朝も、いつもと同じように、下駄箱を開けると中に大量の手紙が入っていた。どれも表面上はただの手紙だが、開いてみれば心ない言葉にあふれている。たしか、人殺しとか、そういった類の言葉だった気がするが、忘れた。優奈は、出来る限りそれを目立たないようにゴミ箱に運び、静かに捨てるのだ。


 なぜ、自分はこのような手紙を受け取ることになってしまったのか。


 その答えは、誰も教えてはくれない。これまで、その解決方法を提示してくれた授業なんて一つも無かった。教師は二次方程式や芥川の話に夢中で、生徒を見る余裕が無いのだ。いや、本当は見ている。見ていて、見ぬふりをしている。

 そんなことは分かっているのだ。とうの昔に、分かっている。時折彼らが見せる憐れみとも好奇ともつかぬ表情を見るたびに、優奈の心は氷のように冷え切ったとげとげしい塊となり、それでいて一方で何か黒々とした液体が、腹の奥底で静かに熱を持ち、煮沸されていくのだ。


 自分はもはや何も望んではいない。むしろすがすがしい気持ちすら感じている。ただ静かにこの時が過ぎ去り、ただ粛々と世界が回っていけば、それで良い。誰も自分に関心を向けない世界があれば、どんなに素晴らしいだろうか。もうすぐ、その世界の始まりが訪れるような気がしていた。


 渡り廊下を横切った先には、普段は誰も通らないひっそりとした階段がある。その階段に腰をおろす。ただ、一つ願っているのは、ここに誰も来ないで欲しい、ということ。踊り場のステンドグラスが、きらきらと光を反射していた。


 急に、母、公恵の姿が思い浮かんだ。

 まだ優奈が小学三、四年生のころだったと思う。公恵は、優奈の誕生日に小さなステンドグラスの入ったカップを買ってきた。決して裕福とはいえない家庭で生まれ育った優奈には、そのカップが精一杯のプレゼントだと知っていた。しかし、知っていてそれをその場で床に落とし、割った。わざとだったのか、そうでなかったのかは覚えていない。ただ、友人が誕生日に貰っていた高価なプレゼントのいくつかが、頭の中に次々と湧いて出ていたのは覚えている。

 優奈は、公恵が怒るのかと思い、覚悟した。

 しかし、公恵は怒らなかった。静かにガラスの破片を拾い集めた。小さな声で、ごめんね、と繰り返していた。優奈は、なぜか急に悲しくなり、公恵と一緒にガラスの破片を拾い集めた。すぐに手を切り、大声で泣いたのを覚えている。


 優奈は、ふと現実に戻る。授業の開始を告げるチャイムが鳴った。重い腰を上げる。そのチャイムの音は、なぜかサイレンの音に聞こえた。あの日家の前で赤色灯の真っ赤な光の中で聞いた、あの悲しげなサイレンの音に。


 ちょうど半年前、公恵には殺人の容疑がかかっていた。

 優奈の住むアパートの隣のマンションで、一人の男性が階段の踊り場の手すりを乗り越え、五階という高さからマンションの敷地に落下し死亡した。手すりの高さから見ても、事故というのは考えにくい、というのが警察の見解だったようだ。とはいえ、事件と断定するにはあまりにも根拠が希薄だった。


 死んだ男を、優奈は知っていた。公恵の愛人だ。

 優奈は、公恵がその男と密会しているのを知っていた。偶然にも、目撃してしまったのだ。

 その日は、校内行事の準備で授業が午前中で終わり、優奈は通学路にある公園を横切ろうとした。その目の端で、公恵と見知らぬ男性がベンチで楽しそうに話しているのを見かけたのだ。優奈は気がつくと木の陰に身を隠し、二人の様子に見入っていた。その後、ベンチに座った二人の体が近づき、そして顔が近づくまで、そう時間はかからなかった。


 公恵はしかし、それをすぐに拒むようなそぶりを見せた。そして、おもむろに立ち上がり、一言二言何か言ったかと思うと、そそくさとその場を立ち去った。

 公恵がこちらへ向かって歩いてくるので、優奈は慌てた。しかし公恵は、木陰に身をひそめる娘の姿には気がつかない様子で、そのまま公園の敷地外へと消えていった。


 優奈はしばらくその場で固まったまま、動けなかった。直前に見た公恵の表情が目に焼きついたまま離れなかった。

 あのとき母は、泣いていた。涙を流して、泣いていた。

 そのとき、優奈の体の中の、彼女も知らない部分に、ひっそりと誰にも気づかれないように、黒々とした塊が生まれ出た。しかし、その塊は間もなく日常の中で風化されていき、最後には胃の中の溶解液に溶けてなくなった。


 愛憎のもつれ。

 やがて酷くありきたりな言葉で、公恵は殺人の容疑をかけられた。殺された男が生前、公恵にしつこく言い寄っているのを、同じアパートの住人数名が目撃していたのだ。公恵は警察署に連れて行かれた。

 優奈は、公恵の背中を見送りながら、全く別のことを考えていた。

 これで、公恵は救われる。

 公恵を泣かしたあの醜い男が、この世から姿を消したのだ。優奈はそんな場違いな冷めた思いで、パトカーの赤色灯をぼんやりと眺めていた。


 やがて、公恵は警察から帰ってきた。男が死んだ時間、公恵のアリバイが立証されたということだった。

 優奈は、家に帰った来た公恵を見て愕然とした。顔のありとあらゆる部分がげっそりと削げ落ち、死人のように生気を失っていたからだ。

 真犯人は、まだ分からないらしい。警察から来た私服の刑事は、全力で真犯人を捕まえて見せるというようなことを父の譲二に切々と語って、深く頭を下げて帰って行った。譲二は、何も言わなかった。


 疑いが晴れたとはいえ、公恵が一度容疑をかけられたことは一夜のうちに町の噂となった。優奈に向けられるまなざしは、好奇とも憐みともつかぬ奇妙なものになっていった。その視線は、優奈の全身を、アイスピックのように突き刺した。

 友人は、次第に離れていった。特に仲の良かった数人の友人も、優奈が近づいて行くと、彼女の方を見ることも無く、静かにその場を立ち去るのだ。そうこうしているうちに、優奈は学校で完全に孤立した。そうして、下駄箱に手紙が入れられるようになった。

 優奈は一度、誰かが手紙を入れているところを目撃したことがある。やめてよ。そう言おうとしたが、言葉が出なかった。手紙を入れようとしていたのは、かつての親友の由香里だったのだ。手紙を入れなければ自分がいじめられる。きっと、そうなのだろう。


 なぜ。

 踊り場のステンドグラスを眺めながら、誰にともなく問いかけた。なぜ皆自分を置いて行ってしまうのか。どうして自分だけが取り残されなければならないのか。

 ステンドグラスの向こう側に、ベンチに座る公恵が見えた。譲二の丸まった背中が。そびえるマンションが。落下する男が見えた。ベンチで公恵の隣に座る、男の分厚い唇が見えた。真昼のぎらぎらとした太陽が見えた。寒々とした渡り廊下が見えた。男子がほうきを振り回し、女子が逃げながらも嬉しそうにしている、ありふれた光景が。教室が。黒板が。窓辺の席が見えた。

 由香里の横顔が。

 友人と楽しげに笑う口元が見えた。


 優奈の中に、かつて消えていった黒々とした塊が、再び増幅し始めた。公恵のすっと伸ばした背筋が男の腕に抱かれ、二人の顔の距離が近づいて行く映像がありありとまぶたに浮かんだ。

 公恵のせいだ。

 公恵が悪いのだ。

 お前のせいで。

 黒々とした塊は、いつしか優奈の全身を包み込み、ステンドグラスをも呑み込もうとしていた。

 気がつけば、優奈は、携帯電話を取り出し、何かに取りつかれたように親指を動かしていた。

 「この人殺し」

 公恵に宛てたメールだった。

 ステンドグラスは、もはや輝くことを忘れ、その向こう側には、ただ漆黒の闇だけが広がっていた。


 その日、公恵は人知れず家を出た。

 優奈が学校から帰ると、譲二が静かにテーブルに向かい、日本酒をあおっていた。


 警察の言葉は、優奈の耳には入っていなかった。いや、耳がその言葉を拒んでいた。

 公恵の愛人を殺したのは、譲二だった。本人が警察に電話し、自首を申し出たのだという。動機は単純だった。公恵の愛人の男に対する憎悪だ。計画的犯行で、自首がなければ、迷宮入りになりかねない完全犯罪だった。

 優奈は、全身に冷たく濡れた紙を貼り付けられたような感覚に襲われた。しばらくして、それが言いようのない焦燥感だということにようやく気がついた。右手は、汗で滑り落ちそうになる携帯電話を、壊れるのではないかと思うくらい強く握りしめていた。


 そのまま、家を飛び出した。

 自分は取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。

 どこへ行くのかも分からないまま、夢中で走った。走り去る景色の中に、ステンドグラスの入った小さなカップが頭に浮かんだ。それを笑顔で娘に手渡す公恵の姿が見えた。それを受け取る娘。

 優奈は夢中で叫んだ。

 それを落としてはいけない。

 それを割ってはいけない。

 それを壊してはいけない。

 そうしたら、今度こそ本当に、世界から孤立してしまう。お前の味方は、誰もいなくなってしまう。この世で唯一の味方を、失ってしまう。


 優奈はようやく知った。

 誕生日のあの日、幼い彼女は、わざとカップを落としたのだ。そうすれば、代わりの新しいプレゼントがもらえるかもしれない。そう思い、魔がさしたのだ。そのことを、今ようやく知った。

 いや、そのことに今、ようやく目を向けたのだ。

 あの時、黒い塊は優奈の中にもうすでに生まれていたのかもしれない。

 周りが彼女を孤立させるのではない。彼女自身が、周りを拒んでいたのだ。

 過去を振り切るように、優奈は走った。


 突然、携帯電話が鳴りだした。見知らぬ着信が表示されている。

 「優奈さんですね。私、警察の者ですが。実はお母さんが…意識不明の…」

 あとは、何も聞こえなかった。


 優奈は、病室で、人工呼吸器をつけられた母を見ていた。公恵は、携帯電話を操作しながら歩いていたところ、死角から飛び出してきたバイクに撥ねられたのだという。

 看護師が入ってきた。

 「優奈さん、ですよね?」

 看護師は、一台の携帯電話を持っていた。それは公恵のものだった。

 「お母さんが、こんなメールを」

 とそれを優奈に手渡した。

 それは、相変わらず携帯に不慣れな、公恵の書きかけのメールだった。


 「ゆうな、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。お母さんのせいで、ゆうなにつらい思いをさせてしまったと思っています。うちが貧しいことで、苦労をかけてしまったこともあります。ゆうなは強い子だったから、平気な顔をしていたけど、本当は心の中では泣いていたんですね。お母さんは、それに気付いてあげられず、ごめんなさい。お母さんは、ゆうなを産んで本当によかっ」


 その時、公恵が、猛スピードで疾走するバイクに轢かれる映像と音が、優奈の耳と目と全身にありありと浮かんだ。


 優奈の中の心の壁が崩れ、ダムが決壊したように大量の涙があふれてきた。

 優奈は声を上げて泣いた。

 「おかあさん、ああ、ごめんなさい。ごめんなさい。私、なんてことを。おかあさん。おかあさん」

 公恵は、ただ目を閉じていた。その目の端から、一筋の涙がこぼれおちた。

 娘の誕生日、ステンドグラスのカップを買って帰ったときの、あの幸せに満ち溢れた、穏やかな表情をしていた。

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