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天使に恋

掲載日:2026/08/10

よろしくお願い致します。

 

 蓮見圭介


 これが彼の名前だ。


 始まりはこうだった。

 高校二年の夏に転校生として彼が私、富永まどかのクラスにやって来た。

「僕の名前は蓮見圭介です。天界からやってきました。背中の羽根が折れてしまったので、こちらにお世話になることになりました。よろしくお願いします」

 その言葉を聞いたクラスメイト達は呆気に取られていた。今までそんなことを言って、クラスの仲間になる人をみたことがなかったからだ。

「はーい、質問でーす! 天界から来たって本当?その折れた羽根っていつ頃治るのかな?」

「治るわけないじゃん。そんなのあるわけないし〜あははっ」

 大真面目に言った彼に向かって茶化した質問をクラスメイトがした。

「はい。まだはっきりとはわかりませんが、あと半年くらいでしょうか」

 そんな茶化しにも彼は大真面目に答えていた。その答えを聞いてクラスは静まり返った。そうだろう、ちゃんとした返答が返ってくるなんて思っていなかったから。

 私は両親の影響から絵画を観るのが好きで、中でも大天使ガブリエルから救い主を身籠ったことを告げられた聖母マリアが描かれる大天使ガブリエルの受胎告知が大好きだった。私はこの絵をきっかけに天使に興味を持つようになった。

 まさか本当に天使に出会えるなんて思いもよらなかった私は胸が高鳴った。


 そして、なんと彼の席は私の隣になった。

「私は富永まどかです。よろしくね」

「富永さん、こちらこそよろしく」

 挨拶をしながら私はこっそり彼を観察した。

 私の中で天使は絵画に描かれている西洋人のような容姿で、人間の姿をしていてもどこか浮世離れしているものだと思っていた。

 でも、彼はやや長めのショートヘアの黒髪をしており、線の細い中性的な容姿で顔も整ってはいるけれど、どこをどう見ても彼は私と同じ、日本人に見えた。

 彼が言ったように、今は羽根が折れてしまっているからだろうか。


 授業が終わり、休み時間になった。最初の衝撃的な挨拶のせいか、彼は誰からも声をかけられず一人でいた。

 次の休み時間も、その次の休み時間も……。そんな彼に私は思い切って声をかけてみた。

「蓮見君、もしよかったら、お昼休みに校内を案内するよ」

「ありがとう。誘ってくれてとても嬉しい。お願いします」

 彼は言葉どおりにとても嬉々として、私の申し出を心よく受け入れてくれた。そんな彼の姿を見て、思い切って言ってみて本当に良かったと思った。


 午前中の授業が全て終わってお昼休みになった。

「さあ、行こっか。今からお昼だから、まずは食堂ね」

 うちの学校には大きな食堂があって、大体の生徒はそこで注文して食べている。

「……案内だけでもいいだろうか。僕はそこで食べることはないんだ」

 どういうことだろうか? 食べるものを持ってきているってことだろうか?

「えっと、食堂では持ってきた弁当も食べることができるよ」

「……そういうことではないんだ。僕は食事をしないんだ」

 食事をしない……。彼は確かにそう言った。そして、それ以上はどういうことなのか何も教えてくれなかった。

「そうなんだね……」

 私は詮索しなかった。これも天使だからだろうか。天使は何も食べないのか。

「じゃあ、食堂には行かない?」

「いや、校内の案内をしてもらう約束だったから」

 そう言って彼は私と一緒に食堂へ向かった。

「私は食事をするのだけど……」

「うん、それはわかっているよ。僕は横で座っているよ」

 食堂で席を取り、私は食事の注文の列に向かった。彼はそのまま席に座っていた。私は食事の注文の列に並びながら、そっと彼の様子を伺ってみた。

 彼は何かをする訳でもなく、目を瞑って、じっとして、ただ座っているだけだった。そして、羽根が折れてしまったと言っていた彼の背中を見ると、なぜか私にはうっすらと折れた羽根が見えた。

(あれが彼の言っていた折れた羽根……)

 注文したハンバーグ定食を持って、私は席に戻った。彼は気にしなくていいと私に言ったのだけど、食べない彼を待たせてはいけないと思って、私は席に着くなり急いで食べ始めた。食べ始めてから、私はずっと彼の視線を感じていた。いたたまれなくなって、彼に視線を合わせると声をかけてきた。

「今食べているものってすごく好きなんだね」

 彼のいう通り、今日は私の好きなハンバーグだった。

「へっ? ……うん。どうしてわかったの?」

「食べている時の表情が物語ってる。すごく好きなんだろうなって」

 私はなんだか恥ずかしくなり、下を向いて無言で食べ進めていった。

 そんな私を見て、彼はまた嬉々として笑っていた。


 その後、残ったお昼休みを使って校内のあちらこちらをまわっていった。特に変わった場所や目新しい場所があるわけではなかったので、ほとんどの場所はさっと紹介するだけで終わった。

 唯一、彼からリクエストされた場所があった。それは美術室だった。

「美術室はここだよ」

「……案内してくれてありがとう。中には入れるのかな?」

「うーん、この時間は多分鍵が閉まっていて入れないんじゃないかな」

 使わない教室は午後の授業が始まるまでは鍵を閉めていることが多い。でも一応、私はドアを開けてみることにした。鍵を閉め忘れていたのだろうか、ドアが開いた。

「あれっ、今日は開いてる」

 なぜか開いていて中に入ることができた。中には年季の入った木製の四人掛けのテーブルが六脚あり、その正面には黒板があった。黒板のある奥の左隅には描きかけの絵が無造作にいくつも並べて置いてあるのが目に入った。

 一応教室を使う人の邪魔にならないようにしてあるのだろう。キャンバスが見えないように布を被せてあるのもあれば、そのまま剥き出しの状態であるものなど色々な状態のものがいくつもあった。

「……この学校には美術部ってある?」

「一応。でもちゃんと活動しているかは知らない」

 私は帰宅部だった。

「そうなんだね」

「美術部に興味あるの?」

「……まあね」

 ふと彼を見ると入り口の横を見ていた。美術室の入り口の横、つまり、前の黒板の向かい側に当たる、部屋の後ろには美術の先生が描いた大きな天使の絵が飾ってある。

 私の好きな大天使ガブリエルの受胎告知の絵だ。

 美術の時間に先生が色々な画家がこぞって描いている絵だから、興味を持って自分なりの受胎告知を描いてみたと話していた。

「……大天使ガブリエルの受胎告知だ」

 この絵は有名だと思うけど、絵に興味がないと知らない人も多い。彼は天界から来ただけあって、絵を観ただけでどんな絵なのかわかるようだ。

「よくわかったね。さすがだね、やっぱり仲間の絵だからかな?」

 私の言葉を聞いて、彼はなぜか驚いた顔をして私を見た。

 なぜだろう? 自分で天界から来ていると言ってたはずなのに。

 私は首を傾げた。

「……そうだね」

 彼は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに嬉々とした表情に変わった。視線は再び天使の絵に注がれていた。

 あまりにも熱心に絵を観ている彼を見て、私は受胎告知の絵ではなく、彼に視線を注いでしまっていた。

 それからーーーー

 ーーーー二人でどれくらいそうしていたのだろう。

 お昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、私と彼は慌てて教室に戻った。

 同じ方向に向かって、少し前を走る彼の背中を見るとやっぱりうっすらと羽根が見えていた。


 その日の校内の案内を境に、私と彼は行動を共にするようになった。そして、お昼休みには一緒に食堂へ行き、その後、美術室で受胎告知を見るのが日課になっていた。

 なぜか、あれからいつも美術室は開いていたのだ。

 食堂では、彼は最初に言った通り、毎回食事をしなかった。でも、私と一緒に食堂に来ている。

 彼は、私が注文している間、ただ目を瞑って、じっと座っていた。毎日、それを繰り返して私を待ってくれていた。

 私はその様子を遠くから眺めるのが習慣になっていた。ある時、いつものように彼を見ていると、ぼんやりと見えていた羽根が少しだけはっきりして見えた。

 それは、彼と一緒に行動するようになってニヶ月が経っていた頃だった。


「富永さん、今度の日曜日って空いてる?」

 いつものように美術室から私たちの教室へ戻る廊下を歩いていると、こちらを見て、ふいに彼が言った。

 学校以外で会う、初めてのお誘いだった。

「……うん、空いてるよ」

 生まれて初めて男の子に誘われた私はなんだか恥ずかしくなって、彼の顔を見ることができず、よそ見をして答えてしまった。

 彼は変に思っただろうか。

「じゃあ、一緒に出かけないか? 見せたいものがあるんだ」

「えっ、なんだろう?」

 思いがけない言葉に恥ずかしさを忘れ、私は彼の顔を見た。

 今度はちゃんと目が合った。

「それは見てのお楽しみ、かな」

 彼にも私の照れが伝染したのか照れくさそうに目を逸らし、横並びから前に進んだ。何となく照れた顔を見られたくないように感じた。

「えー、教えてくれないんだ」

 私は後ろから声をかける。

「うん、今はね」

 残念。彼は教えてくれなかった。

 156cmの私の前を歩く、背の高い彼への私の目線は背中だった。やっぱり以前よりはっきり羽根のようなものが見えていた。

 最初に彼が言っていた通り、右の羽根が折れているようで、半分見えなかった。

「ねぇ」

 背中の羽根に囚われていた私は、いきなりこっちを向いた彼に驚いてしまった。

「えっ」

 顔を上げたその瞬間、しっかりと目があった。日本人の姿をしているはずなのに、やっぱり西洋人のように見えてしまった。

 彼が天使だからだろうか。

「……富永さん、どうしたの?」

 見つめあってしまったことで、彼の方から声がかかる。

「……なんでもない。蓮見君こそ、どうしたの?」

「僕は、あれに気づいて……」

 彼が指差した窓の外を見ると虹が出ていた。昨日雨が降っていて、今日は雨上がりだったからだろうか。

「虹なんて珍しいね」

 私が前に虹を見たのはいつだっただろう。

「虹は幸運の象徴なんだ」

「幸運の象徴……」

 しばらく私と彼は一緒に窓の外の虹を眺めていた。虹だけでなく、天使も幸運の象徴だと、どこかで聞いたことがある。幸運の象徴を二つも同時に見ている私はとても幸運だなと思った。

「……そろそろ行こうか。授業が始まる」

 そんなことを考えていた私を、彼の言葉が現実に引き戻した。

「そうだね。行こう」

 彼は再び私の横を歩き出した。私は横を歩く彼の背中をこっそり見てみる。何度確認しても、以前よりはっきりした羽根が見えている気がした。

 最初に彼の背中から羽根が見え始めてから、さらにニヶ月が経っていた。


 約束の日曜日がきた。

「富永さん、日曜日の待ち合わせは“黄色の時計台の前“に十時でどうかな?」

「……うん、私はそれで大丈夫だよ」

 そう言って、金曜日に彼と私は待ち合わせ場所と時間を決めていた。

 天界にいた彼が、なぜこの辺りの待ち合わせスポットに詳しいのだろうと思っていたけど、考えてみたら転校してきて四ヶ月以上過ぎていたのだ。

 その間、彼を取り巻く環境は少しずつ変化していた。

 行動は相変わらず私としていたけれど、少しずつクラスメイトと打ち解けていって、私だけじゃなく、他の人とも話すようになっていた。そんなわけだから、この辺りの待ち合わせスポットの“黄色の時計台の前“のことは誰かに教えてもらったんだろう。生まれて初めてのお誘いに緊張した私は、十時より少し早く待ち合わせ場所に着いていた。

 今日はどんな服装で行ったらいいのか困ってしまい、私は大学生の姉に相談していた。

「これならバッチリよ」

 幸いなことに姉とは背格好が似ていたので、姉に借りたオススメの花柄のカーディガンにニットワンピースを着て、持っていたブーツを履いて私は待ち合わせ場所に来ていた。ついでに姉に髪をセットしてもらい、軽く化粧もされた。普段はロングヘアを一つにまとめて縛っているだけだったけど、今日は軽く巻いて下ろしていた。

「富永さん」

 声の方を向くと彼だった。彼は長めの黒髪を普段より綺麗にセットしていた。そして、グレーのニットパーカーの上に黒のシャツジャケットを羽織って、クロップドパンツを履いているというオシャレな服装をして、ボディバックを背負っていた。

 天使だけど、服装は白じゃないんだ。絵画に描かれている天使はみんな白い服ではないけど、羽根が白いからか、私の中の天使が着ている服装のイメージはなぜか白だった。

「蓮見君、おはよう」

「おはよう。……今日はなんか雰囲気が違うね。一瞬わからなかったよ」

「……変だったかな?」

「ううん。可愛いと思う」

「……ありがとう」

 思いがけず褒められてしまい、私は顔が熱くなった。

「じゃあ早速行こうか。割とすぐ近くなんだ」

「そうなんだね」

 彼に付いて、私は歩き出した。私はまたそっと彼の背中を確認した。制服じゃなくても、私服でも変わらず、背中には羽根が生えていた。右が半分ないのも変わらない。

「いつもは制服だから、なんかお互い新鮮だね」

 羽根を確認していることを変に思われたくなくて、私は思わず口にした。

「そうだね。富永さんの服装、とても似合ってるよ」

「ありがとう。蓮見君もオシャレだね」

「ありがとう」

 照れながらもお互いを褒め合う私達だった。


「着いたよ。ここなんだ」

 彼が私に見せたいものがあると連れてきてくれた場所はフリーマーケットがあったり、色々なイベントをするような大きな会場だった。入り口の電光掲示板を見ると色々な催し物が開催されているようだ。

 ここで何があるんだろうか。

「これ、チケットね。もらったものだからお金は気にしないで」

「……ありがとう」

 彼から渡されたチケットを見ると美術展の招待券だった。誰か知り合いの展示でもあるのだろうか。

「ここの二階みたいだから、行こう」

 彼に連れられて美術展の会場となっている場所に向かった。入り口で彼からもらったチケットを見せて中に入る。さすが大きな会場だけある。中に入ると沢山の絵が展示されていた。

 ゆっくりと彼と一緒に絵を観てまわる。私達は何も喋ることなく、ただ一緒に絵を観ていた。

 その時、一枚の絵の前で私の足が止まった。

「大天使ガブリエルの受胎告知だ……」

 私の好きな絵が描かれていた。同じモチーフではあるけれど、美術室の絵とは雰囲気が全く違っていた。

「私、大天使ガブリエルの受胎告知の絵が好きなんだ。この絵、美術室のものとは違って、神秘的で不思議な雰囲気の絵だね。なんか儚いっていうか……。私はこっちの絵のが好みだな……」

 そう言いながら、私はじっとその絵を観ていた。彼はその間、何も言わなかった。

「……そろそろ次の絵に行こうか」

 随分と私はその絵を観ていたのだろう。彼が声をかけてきた。

「あっ、長い時間ごめんね。うん。行こう」

 その後は気になる絵もなく、スムーズに先に進んでいった。会場にはとても沢山の絵が展示してあり、全ての絵を観るのに後から時計を見たら二時間くらいかかってしまっていたようだった。

「この絵で最後みたいだね」

「うん」

 私達は最後の絵を観た後に出口に行かず立ち止まった。

「もう一度観たい絵はある?」

 彼が私に尋ねる。

「私、もう一度受胎告知の絵が観たい」

 後ろを振り返って私は答えた。

「……わかった。戻ろうか」

 私達は受胎告知の絵のところまで戻った。

「この絵、やっぱり私、好きだな……」

 もう一度戻ってきて観て、改めてそう思った。

「……そんな風に言ってくれてありがとう。とても嬉しい」

 彼が私によく見せる嬉々とした表情だ。

「? どうして蓮見君がお礼を言うの?」

 私は不思議に思いながら首を傾げた。

「これ……実は僕が描いたんだ」

「えっ」

 驚いて絵の下の方を見ると、作家には“美術科一年 蓮見圭介“と書かれていた。

「本当だ……」

「……見せたいものがあるって言っておきながらなかなか言い出せなくてごめん。……この僕の描いた絵が、僕が富永さんに観せたかったものなんだ……」

 その言葉を聞いて、私は彼を見た。

 私だけ特別だ。

 その時ーー

 彼の背中の羽根は今までになく、とてもはっきりと見えた。私は驚いて言葉を失った。

「……富永さん?」

 ーー彼は

 ーー私が思ったとおり

 ーー描いた絵と同じようにやっぱり天使なんだ。

「……本当に天使なんだね」

 私は一気に胸が昂って、うっかり口に出してしまった。

「えっ? 今なんて言ったの?」

「……ううん。なんでもない」

 私はその時、彼が天使だと確信できた喜びから胸が高鳴っていた。


 戻って受胎告知を観た後、私達は会場を後にした。時間はちょうどお昼を過ぎた頃だった。そろそろ私はお腹が空いていた。

 私はどこかに寄ってお昼を食べたいけど、彼は食べないだろうからそのまま帰ろうというだろう。その時はどこかへ寄ることを提案しようと思った。

「富永さん、今日は付き合ってくれてありがとう。そろそろ帰ろうか」

 案の定、彼は帰ろうと言ってきた。

「蓮見君、もし、時間あったらどこかへ寄らない? 私、お腹すいちゃった」

「えっ、ああ。気が利かなくてごめん。僕は食べないけど、いいかな?」

「うん、大丈夫」

「じゃあ、この近くにあったファミレスにでも寄ろうか?」

 気が付かなかったけど、ファミレスがあったようだ。

「うん」

 私達は展示会場の途中にあったファミレスへ向かった。ファミレスまでの間、私が無言だったからか、彼も特に話しかけてこなかった。


 店に着いたので中に入る。昼時だから混んでるかと思ったら、そんなことはなく、すんなりと席まで案内された。

 タブレットからメニューを見て注文する。

「私は、ハンバーグセットにする」

「富永さん、本当にハンバーグ好きだね。最初に出会った時もハンバーグ食べてたよね」

 彼はまた嬉々とした表情を見せた。

「……よく覚えているね」

「君のことは忘れないよ」

 ……今、物凄いことを言われたような気がする。なんか恥ずかしくなって私は話を変えた。

「蓮見君は食べないから、フリードリンクだけ?」

「そうだね。何も頼まないってわけにはいかないしね」

 蓮見君はフリードリンクだけを頼み、私はハンバーグセットとフリードリンクをタブレットで頼んだ。ここのファミレスはロボットが料理を運んでくれる。注文もタブレットだし、便利になったと思うけど、無機質な感じがした。

「じゃあ、ドリンクを取りに行こっか」

「うん」

 ドリンクバーで私はコーラを選び、彼はミネラルウォーターを選んでいた。ジュースやコーヒー、紅茶でなく、ミネラルウォーターだった。

 食事をしないからだろうか。食べないとはわかっていたけど、飲み物も本当は飲まないのだろうか。考えてみたら、私は彼が何も食べたり飲んだりしているのを見たことがなかった。

 私がそんなことを考えて、無言でいたので、何か話しかけづらい雰囲気でも出ていたんだろう。席に戻っても、私達は無言だった。私は無言で取ってきたコーラを飲んでいた。

 彼は持ってはきていたけど、ミネラルウォーターには口をつけなかった。私は取ってきたコーラを飲み終わってしまい、次の飲み物を取りに席を立とうとした時、彼が口を開いた。

「今日、僕が何も言わなくても、富永さんが僕の絵を見つけてくれ、そして好きだと言ってくれた。それが僕はどんなに嬉しかったか……」

「私はただ、自分の好きな絵を伝えただけで、まさか蓮見君が描いた絵だったなんて夢にも思わなかったよ」

「そうだとしても、僕はとても嬉しかったよ。ありがとう」

「……どういたしまして」

 その時、ロボットが料理を運んできた。

「料理がきたね。はい」

 彼がロボットが運んできた料理を取ってくれて私の前に置いてくれた。

「ありがとう」

「うん。じゃあ僕も……」

 彼は持っていたボディバックから容器を取り出し、そこにミネラルウォーターを注いでいた。

「何をしているの?」

「ああ、これは食事の代わりの薬を作っているんだ。ちょっと足りなかったみたい。もう少し取ってくる」

 そう言って、彼は席を離れた。

 食事の代わりの薬? どういうことなんだろう? 彼は天使だから食べないんじゃなかったのだろうか。

 私は自分の確信が間違っていたのかとミネラルウォーターを取りに行った彼の背中を見た。やっぱり右が折れていたけど、くっきりと羽根が見えていた。

 食事が済んで、ファミレスを出た後、私と彼は家に帰っていった。


 今日は久しぶりに一緒に帰ろうと思って、私は彼を誘った。たまに私と彼は学校から一緒に帰っていた。近くに住んでいたわけじゃないけど、電車通学の私達は最寄り駅まで方向が一緒だった。

「ごめん、今日は部活だから一緒に帰れない」

 私と展示会に行った次の日から彼は美術部に入部していた。

「そうなんだね。じゃあ部活がんばってね」

「ありがとう。頑張るよ」

 彼の背中を見たら、折れていた右側の羽根が随分良くなっていた。彼が転校してきて、半年が経つ頃だった。

 そういえば、彼は最初の挨拶で半年くらいで羽根が治るって言っていた。あの羽根の具合だとそろそろ綺麗に治る頃だ。

 せっかく仲良くなったけど、治ったら天界に帰ることになるのだろうか? 

 私は気になって、次の日直接彼に聞いてみることにした。


 朝一番に彼を見かけたので声をかける。

「おはよう。蓮見君って……背中の羽根良くなってきてるよね? 治ったら天界に帰ったりしちゃうの?」

「おはよう。天界? 羽根? 富永さん、朝から何を言ってるの?」

 なぜか戸惑いの表情が彼の顔に浮かぶ。

「えっ……だって、蓮見君は天使なんでしょ? 転校してきた時に言ってたよね? 天界から来たって」

 私は訳がわからない。彼は眉を寄せて答える。

「天使? 僕が?」

「……うん。違うの?」

 ーー彼のこの言葉が決定的だった。

「僕は、天使じゃなくて人間だけど」

 頭を思いっきり殴られたような衝撃だった。

 彼は本当は人間で、最初の挨拶の話は冗談だったのだ。なんであんな冗談を間に受けて信じてしまったんだろう。彼には私が滑稽に見えたと思う。私は恥ずかしくて全身が熱くなった。

「間違えて変なことを言って、ごめん」

 恥ずかしすぎて、私は今すぐ彼から離れたくなって、走って彼の元を去った。

 よく考えてみたらわかることだった。彼が天界から来たと言ったのは、美術科から転校してきたことの比喩。背中の羽根が折れたのはスランプの比喩。お昼を食べなかったのは、多分ファミレスで飲んでいた、食事としての薬を人に見られたくなかったからだろう。

 ーーじゃあ、私が見ていた背中の羽根……。

 ーーあれは一体なんだったんだろうか。

 私には今でも彼の背中に羽根が見えている。

 

 あれから私はあからさまに彼を避けるようになった。

「富永さん」

「……呼ばれているから、ごめん」

 彼から声をかけられても、ありもしない用事を理由に避け続けた。彼は何度も声をかけてくれていたけれど、避け続ける私を見て、顔を歪めて声をかけなくなっていた。

 避け始めていたのは自分なのに、声をかけてこなくなった彼を見るたびに悲しい気持ちになっていた。嬉々とした顔を他の女の子に見せる彼を見た時はなぜか胸が潰れそうになった。私はそれからなぜそんな気持ちになるのか、自分の気持ちを考え込むようになった。


 ある日の朝、いきなり空から羽根が落ちてきた。真っ白いふわふわとした羽根だった。私が手にした途端、羽根は消えてしまった。羽根が落ちてくる前、私はずっと自分の気持ちを考えていた。羽根が落ちてきたのを見て、私は自分の気持ちの答えが出たのだ。

 私はーー

 ーー彼のことが好きなんだ。

 今日は空から羽根が落ちてきたのだ。こんなことは初めてだった。これは何かの導きだと思った。避け続けた私に、彼がどんな反応をするか怖いけど、私は声をかけてみることにした。

 教室で彼に挨拶をした。

「おはよう、蓮見君」

 やっぱり彼の背中にはとても綺麗で立派な羽根があった。

「……おはよう」

 ただの挨拶とはいえ、声をかけられた彼の表情は驚きに満ちていた。

 なぜなら私が彼を避け始めて、二ヶ月も経っていたのだ。

「今まで避け続けてごめんね。話したいことがあるんだ。今日の帰り、部活前に時間もらってもいいかな?」

 私は彼が断ってくるかもしれないと思って、恐る恐る伝えていた。

「……うん。わかった」

 聞き入れてはくれたけれど、いきなりの声かけに戸惑っているようだった。それはそうだ、一方的に避け続けて、話さなくなってから二ヶ月が経っていたのだ。

「ありがとう。じゃあ帰りにまた声かけるね」

「……うん。じゃあ帰りに」

 約束はしても、もう前のようには戻れない。私が避け始めてから、彼はクラスメイトの男の子と一緒に行動を共にするようになって、私もクラスメイトの女の子と一緒に行動をするようになっていた。


「蓮見君、いいかな?」

 授業が終わり、私から彼に声をかけた。

「……大丈夫だよ。今日は美術部ないから、美術室に行こうか?」

「うん」

 私は彼と久しぶりに美術室へ行った。

「……相変わらず空いてる」

「本当だ。今日は美術部ないんだけど、空いてるね」

 授業が終わって、部活動がない日でも美術室は空いていた。久しぶりの美術室だったけど、相変わらず入り口の横には受胎告知の絵が飾ってあった。

 受胎告知の絵の前まで来て、私は話を始めた。

「一方的にいきなり蓮見君のことを避けてごめんね」

「……うん」

「私、実は蓮見君の背中に羽根が見えてるんだ。今も見えてる」

 私の言葉を聞き、彼はとても驚いた表情をした。

「でも、蓮見君は天使じゃなかった。じゃあ、私の見えてるものはって、ずっと考えてた」

 彼は何も言わなかった。

「それで、私今日やっと気づいたの。私、蓮見君のことが好きだって」

 彼の表情は驚きと共に以前からよく見ている嬉々とした表情に変わる。

「ありがとう。とても嬉しい。僕も君のことが好きだったから、富永さんにいきなり避けられるようになって、とても辛かった」

 最後は少し拗ねたように彼は言った。

「ごめんね」

 私は申し訳ない気持ちで一杯だった。

「僕は、せっかく入った美術科の高校で、僕より上手い人ばかりで自信を無くしてスランプになってしまったんだ。スランプで転校してきたのが恥ずかしくて、あんなことを最初に言ってしまった。まさか富永さんが間に受けてしまうなんて思いもしなかった」

「そうだよね……」

 私も今思い出しても、とても恥ずかしい。

「あれから僕も思い返してみて、もっと前から富永さんが天使だと勘違いしてるって気づいた時があったなって」

「そうだったの?」

「うん。でもその時、僕はそんな純粋な君を可愛いなって思って訂正しなかった。僕も悪かったと思う。ごめん」

「……ううん」

 可愛いとサラッと言われて私は顔がとても熱くなった。

「それと学校で昼に食事をしてないのも勘違いさせた原因だよね?」

「……そうだね」

「ファミレスに一緒に行った時に少し話したけど、僕はスランプになったストレスから腸の病気を患ってしまって、人に知られたくないから学校では飲まないけど、処方された薬を食事の代わりとして普段飲んでいるんだ」

「そうだったんだね」

 彼の話はやっぱり全部、私が気づいた通りの内容だった。この告白をきっかけに、私と彼は晴れて付き合うことになった。


「まどか、今日は部活ないから一緒に帰ろう」

 いつも部活のない日は彼の方から声がかかる。

「うん」

 駅までの道を二人で並んで歩いて帰る。

「そういえば、今度の日曜日に駅前の美術館に行かない? 新しく絵の展示が始まったみたい」

 美術館デートは私達の定番だった。

「いいね。どんな絵が展示されてるの?」

「まどかの好きな天使の絵だよ」

 彼が私の好きな嬉々とした顔を見せる。

「それは楽しみだね」

「あっ、青信号だ。渡ろう」

 私の手を取って、少し前を歩く彼の背中が見える。

 あんなにはっきり見えていた羽根が、もう今の私には見えなくなっていた。


終わり


 

 


 


 


 




 


 


 

 


 

 


 


 


 

 




 




 


 


 


 




 





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