婚約破棄された伯爵令嬢は、前世のコンビニとコスプレ知識を生かして元婚約者に復讐する! 今さら愛していると言われても手遅れです!
王立フラリア学院。
王侯貴族の子息令嬢が集う、王国最高峰の学び舎。
昼休みの中庭。
春の陽射しが降り注ぐ中、多くの生徒たちが何事かと足を止めていた。
その中心に立つのは、モナコラン伯爵家の嫡男、アンソルバター=モナコラン。
向かいには婚約者であるマルセイユ伯爵家の令嬢、ミルフィーナ。
風に揺れる銀色の髪。
澄み切った蒼い瞳。
学院では成績優秀で礼儀正しいと評判の令嬢だった。
しかし、その穏やかな瞳を見つめるアンソルバターの口元には、嘲るような笑みが浮かんでいる。
「皆、よく聞け!」
大声が中庭に響き渡る。
「今日、この場をもって、俺はミルフィーナとの婚約を破棄する!」
その一言に、生徒たちは息をのんだ。
「婚約破棄……?」
「しかも学院で?」
「どういうこと……?」
ざわめきが広がる。
ミルフィーナは突然の言葉に思考が止まった。
(婚約……破棄?)
何を言われたのか理解できない。
昨日まで何も変わらなかった。
来月には両家の顔合わせも予定されていた。
なのに、どうして――。
アンソルバターは勝ち誇ったように隣へ手を差し伸べる。
「こちらへおいで、シュガー」
桃色の髪を揺らした男爵令嬢シュガーが、恥じらうように彼の腕へしがみついた。
「アン様……」
「俺が愛しているのは彼女だ!」
アンソルバターは高らかに宣言する。
「優しくて可愛くて、一緒にいて楽しい。
真実の愛とはこういうものだ!」
シュガーは嬉しそうに微笑み、アンソルバターへ身体を寄せる。
周囲からは戸惑いの声が漏れた。
「でも、ミルフィーナ様は……
ずっと婚約者だったのに……」
そんな声をかき消すように、アンソルバターは鼻で笑う。
「それだけじゃない。マルセイユ伯爵家は没落寸前だ」
その言葉に、中庭が静まり返る。
ミルフィーナの肩が小さく震えた。
「領地は赤字続き。王都では『貧乏伯爵』と笑われているじゃないか。
そんな家の娘と結婚しても、俺に得はない」
あまりにも冷たい言葉だった。
だが、それは事実ではない。
父は領民を守るため、自らの蓄えを切り崩して税を下げ、飢える人々を救ってきた。
贅沢をして貧しくなったわけではない。
領民のために選んだ道だった。
それを知っていながら――。
「だから俺は決めた。裕福な家のシュガーと結婚する。
これからの時代は愛だけじゃない。金も必要なんだ」
シュガーは申し訳なさそうな表情を作っていたが、その瞳には隠しきれない優越感が浮かんでいた。
ミルフィーナは震える声で問いかける。
「……それが、本当の理由なのですか?」
「ああ、そうだ」
アンソルバターは迷いなく言い放つ。
「お前は真面目すぎる。そんな女と結婚しても楽しくない」
そして最後に、冷たく笑った。
「それに――貧乏な伯爵家の娘など、俺には必要ない」
その一言が、ミルフィーナの胸を深くえぐった。
(……必要、ない)
幼い頃から。
未来の伯爵夫人となるため、必死に努力してきた。
礼儀作法。
政治。
領地経営。
帳簿の読み方。
外交。
すべては婚約者を支え、両家を豊かにするためだった。
それなのに。
努力も。
家族も。
父の生き方までも。
すべてを否定された気がした。
胸が苦しい。
息ができない。
視界が涙で滲む。
(嫌……)
(どうして……)
(私は……)
(頑張ってきたのに……)
今にも涙がこぼれそうになる。
けれど。
(こんな人の前でだけは、泣きたくない)
必死に涙をこらえた、その瞬間――。
ズキンッ。
頭の奥を激しい痛みが貫いた。
(……え?)
視界が白く染まる。
知らないはずの景色が、次々と浮かんできた。
明るい店内。
レジの電子音。
棚いっぱいに並ぶ飲み物、お菓子、お弁当。
「ありがとうございました!」
笑顔でお客様を見送る自分。
(コンビニ……?)
さらに別の記憶があふれ出す。
休日。
大きな鏡の前。
メイク道具が机いっぱいに並んでいる。
アイシャドウ。
リップ。
ブラシ。
ファンデーション。
そして、色とりどりのウィッグ。
「よし! 明日のイベント、頑張るぞ」
鏡の中には、さっきまでとはまるで違う人物が映っていた。
友人たちが驚いたように笑う。
「えっ!? 本当にルナ!?」
「全然分からなかった!」
「また別人になってる!」
その言葉が嬉しくて、思わず笑ってしまう。
休日のたびにキャラクターになりきる。
衣装も自作する。
メイクも研究する。
それが、何より楽しかった。
(そうだ……)
(私は日本でコンビニバイトをしていた)
(そして趣味は……コスプレだった)
変身することが好きだった。
髪型ひとつ。
眉の形ひとつ。
目元の印象ひとつ。
それだけで、人は驚くほど別人になれることを知っていた。
その瞬間、前世と今世、二つの記憶が一つにつながる。
(そうか……)
(私はずっと伯爵夫人になるためだけに生きてきた)
(また誰かのためだけに生きるの?)
(違う)
(今度こそ、自分の人生を生きよう)
ふっと肩の力が抜けた。
アンソルバターはその笑みに腹を立てる。
「何がおかしい!」
ミルフィーナは優雅に一礼した。
「いいえ。大切なことを思い出せました」
「何?」
「私が、本当に生きたい人生です」
アンソルバターは言葉を失う。
「婚約破棄、お受けいたします」
その一言に、中庭は静まり返った。
泣き崩れると思っていた。
取り乱すと思っていた。
誰もが予想した反応とは、まったく違っていた。
「それでは、ごきげんよう」
ミルフィーナは優雅に踵を返す。
その背中は、不思議なほど晴れやかだった。
◇
その夜。
マルセイユ伯爵家の屋敷。
自室へ戻ったミルフィーナは、ベッドへ腰掛けたまま動けなかった。
昼間の出来事が、何度も頭の中で繰り返される。
『お前の家は没落寸前だ』
『貧乏伯爵家の娘と結婚する価値などない』
『俺はシュガーと結婚する』
その言葉が胸を締め付ける。
幼い頃から。
アンソルバターの隣に立つため。
そして、伯爵家を支える良き妻となるために努力してきた。
礼儀作法。
政治。
経営学。
領地運営。
すべては未来のためだった。
それなのに。
努力も家族も、一緒に否定された気がした。
「うっ……」
こらえていた涙があふれ出す。
その時だった。
屋敷の外から馬車の止まる音が聞こえた。
しばらくして、控えめなノックが響く。
「お嬢様」
専属侍女クリームだった。
二十歳になったばかりの彼女は、幼い頃からミルフィーナに仕えている。
「旦那様が来られました」
父は数日後の、婚約式の話し合いで王都を訪れていた。
春先の長雨で崩れた堤防の復旧工事。
凶作に備えた食糧の確保。
領民を守るため、王都ではなく、領地に滞在し、奔走しているのだ。
「……分かりました」
執務室へ入ると、旅装束のままの父が立ち上がった。
疲労の色は隠せない。
それでも娘を見る瞳だけは優しかった。
「ミルフィーナ」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた心が崩れる。
「お父様……」
涙が止まらなかった。
父は何も聞かなかった。
何も責めなかった。
ただ娘が泣き止むまで、静かに隣にいてくれた。
長い沈黙のあと、小さく口を開く。
「……辛かったな」
その一言だけで十分だった。
「私は……アンソルバター様のお役に立てるよう努力してきました。
でも……家が貧しいから必要ないと言われました……」
「私だけじゃありません。
お父様まで馬鹿にされた気がして……」
父はゆっくり首を横に振る。
「貧しくても構わない。私は領民を飢えさせたくない。
だから税を下げた。そして、蓄えを放出した。
その結果、王都では『貧乏伯爵』などと陰口を叩かれている。
お前には迷惑をかけてすまなかった」
父は苦笑する。
「だが、貧乏でもいい。
領民が笑って暮らせるなら、それが私の誇りだ」
ミルフィーナの瞳から、再び涙があふれた。
父は続ける。
「だから、今回の件で、お前に迷惑をかけてすまなかったな。
婚約がなくなった、これからは、お前自身の幸せを見つけなさい」
その言葉に、ミルフィーナはゆっくりとうなずいた。
「……はい」
◇
翌朝。
ミルフィーナは専属侍女クリームだけを部屋へ呼んだ。
「クリーム」
「はい、お嬢様」
「あなたにだけ、お願いがあります」
クリームは真剣な表情で頭を下げる。
「どのようなことでも」
ミルフィーナは少し照れたように笑う。
「休日だけ、王都で働きたいのです」
「働く……のですか?」
「はい」
「家計を助けたいという気持ちもあります。
そして、これからの領地経営に何か役立てたいのです」
クリームは驚きながらも優しく微笑んだ。
「お嬢様らしいですね」
「ありがとう、クリーム」
「だから休日だけ、学院へ自習に行くと言って屋敷を出ます。
さすがに伯爵令嬢という身分は隠して、町娘として働きたいわ」
「で、わたしは何をすればよろしいのですか?」
クリームの質問にミルフィーナは、答える。
「まずはわたしの変装技術を見て欲しいの」
そして鏡の前へ座る。
前世で趣味だったコスプレ。
磨き続けた化粧の技術。
眉を整え、目元を変え、銀色の髪を薬草染料で栗色へ染める。
三十分後。
鏡の中には伯爵令嬢の姿はなかった。
そこにいたのは、ごく普通の町娘。
栗色の髪に柔らかな笑顔を浮かべる少女だった。
「今日から私は、ルナです」
クリームは思わず息をのむ。
「これなら……お嬢様だと、分かりませんね」
◇
一方その頃。
モナコラン伯爵家。
重厚な執務室には、重苦しい空気が流れていた。
机の向こうには、モナコラン伯爵が腕を組み、険しい表情で座っている。
その前には、肩をすくめたアンソルバターが立っていた。
「父上。何をそんなに怒っているのです?」
その一言に、伯爵の額へ青筋が浮かぶ。
「何を怒っているだと?」
低く押し殺した声だった。
「貴様は相談もなく、公衆の面前で婚約を破棄したそうだな」
「はい」
「はい、ではない!」
机を叩く音が執務室へ響く。
「婚約とは家同士の契約だ!
お前一人の感情で勝手に壊してよいものではない!」
アンソルバターは不満そうに眉をひそめる。
「ですが、シュガーの実家の方が裕福です。
マルセイユ伯爵家は貧乏でしょう。
何が問題なのです?」
その言葉に、モナコラン伯爵は頭を押さえた。
「……だからお前は愚かなのだ。
今回の件で、我が家は慰謝料を支払うことになる。
金額も小さくはない。
王家にも貴族社会にも、『約束を軽んじる家』という印象を与えた」
アンソルバターは納得していない様子だった。
「ですが、その程度でしょう?
シュガーの家と結べば、すぐに取り返せます」
伯爵はゆっくり立ち上がる。
そして息子の様子を見てから、溜息をついた。
「終わったことは仕方がない。
今さら婚約を戻せとも言わん」
一拍置く。
「だが――」
その声には、長年伯爵家を率いてきた当主としての威圧感が宿っていた。
「今回の件が原因で、家へ少しでも損害をもたらした時は……覚悟しろ」
アンソルバターの背筋に冷たいものが走る。
父がここまで怒る姿を見たのは初めてだった。
「……分かりました」
小さく答えるしかなかった。
だが、その胸の内では、
(大げさなんだよ)
そんな甘い考えが消えることはなかった。
◇
一方、マルセイユ伯爵家。
応接室には柔らかな午後の日差しが差し込んでいた。
ミルフィーナは父と向かい合って座っている。
父の前には、一通の書類と革袋が置かれていた。
袋の中には、ずっしりとした重みがある。
マルセイユ伯爵は静かに口を開いた。
「モナコラン伯爵家から正式な謝罪と慰謝料が届いた」
ミルフィーナは小さく目を見開く。
「慰謝料……ですか?」
「ああ。婚約を一方的に破棄した以上、当然の責任だ」
父は苦笑した。
「正直、この金があるだけで、今年の堤防工事を予定どおり進められる。
備蓄用の麦も追加で購入できる。
領民たちも安心して冬を迎えられるだろう。」
そう言って革袋へ視線を落とす。
「こんな形で助かるとは思わなかった」
そして父は申し訳なさそうに娘を見つめた。
「すまないな、ミルフィーナ。
お前は傷ついたのに……。
結果として、お前の婚約破棄で領地が救われることになってしまった」
ミルフィーナは静かに首を横へ振る。
「いいえ。お父様。
このお金で領民の皆さんが笑顔になれるなら、それで十分です」
父は娘の成長した姿に目を細める。
「本当に優しい子だ」
立ち上がると、娘の肩へそっと手を置いた。
「私は明日、領地へ戻る。
復旧工事も、備蓄の手配もあるからな。」
ミルフィーナは笑顔で頷いた。
「はい。どうか、お身体にお気を付けて」
父も微笑み返す。
「ああ。お前も、自分の幸せを探しなさい。
もう領地のためだけに生きる必要はない」
その言葉は、まるで新しい人生への背中を押してくれるようだった。
翌朝、マルセイユ伯爵は領地へ向かう馬車へ乗り込む。
屋敷の前で見送るミルフィーナへ向かって、大きく手を振った。
馬車が見えなくなるまで見送りながら、ミルフィーナは胸の中で静かに誓う。
(今度は、私自身の力で)
(お父様の領地を支えられる人になろう)
そしてその決意は、町娘ルナとして歩み始める、新たな人生の第一歩となるのだった。
◇
数日後。
休日の朝。
まだ人通りの少ない王都の街角を、一人の少女が歩いていた。
栗色の髪。
素朴なワンピース。
肩には小さな布袋。
その姿は、どこにでもいる町娘そのものだった。
――ルナ。
それが今日のミルフィーナの名前だった。
鏡で何度も確認した変装は完璧だ。
伯爵令嬢の面影はどこにもない。
(本当に誰にも気づかれない……)
胸が少し高鳴る。
前世でイベント会場へ向かう朝も、こんな気持ちだった。
(なんだか懐かしいな)
思わず笑みがこぼれた。
今日は王都で仕事を探す日。
前世ではコンビニでアルバイトをしていた。
接客も品出しも掃除も苦ではない。
むしろ、人と話すことは好きだった。
「まずは求人を探さないと」
王都の商店街へ足を向ける。
様々な店先には求人札が掲げられていた。
『パン職人見習い募集』
『花屋店員募集』
『食堂給仕募集』
どれも魅力的だったが、学院へ通いながら続けるには難しい。
そんな時だった。
一軒の店が目に留まる。
木製の看板には可愛らしい文字が描かれていた。
雑貨店『イタフラ』
店先には色鮮やかな文房具。
可愛い小物。
魔道具を利用した便利な日用品。
前世でいう雑貨店と同じ感じの店だった。
その入口には、一枚の紙が貼られている。
『週末アルバイト募集』
ルナの瞳が輝いた。
(週末だけ……!)
(これなら学院に通いながら働ける!)
胸が高鳴る。
迷う理由はなかった。
店内へ入ると、木の香りとハーブの優しい香りが漂っていた。
棚には生活用品がきれいに並べられている。
「いらっしゃいませ」
優しい声が聞こえる。
振り返ると、五十代ほどの穏やかな男性が微笑んでいた。
「求人を見て来ました」
「おや、面接かな?」
「はい」
店主は笑顔で奥へ案内してくれた。
応接用の小さな机を挟み、向かい合って座る。
「名前は?」
「ルナです」
「家族は?」
事前に考えていた設定を口にする。
「姉が貴族様のお屋敷で侍女をしております。
私は王都で一人暮らしを始めたばかりです」
もちろん嘘だった。
だが、身元を隠すには必要だった。
店主は穏やかに頷く。
「接客の経験は?」
ルナは少し考えたあと、前世の経験を言葉を選びながら話した。
「似たようなお店で働いていました。
商品の補充や掃除、お客様への対応もしていました」
「ほう」
店主は感心したように目を細める。
「笑顔も自然だ。
言葉遣いも丁寧だね」
ルナは少し照れくさくなる。
伯爵令嬢として身につけた礼儀作法が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
しばらく話をした後、店主は笑顔で立ち上がった。
「採用だ」
「えっ?」
「来週から来てくれるかい?」
思わず椅子から立ち上がる。
「はい!」
思わず声が弾んだ。
「よろしくお願いいたします!」
店主は豪快に笑う。
「元気があっていい。
期待しているよ、ルナさん」
店を出たルナは、小さく拳を握った。
(やった……!)
(お仕事が決まった!)
自然と足取りが軽くなる。
新しい人生が始まる。
そんな期待で胸がいっぱいだった。
その時だった。
店の前で、一人の青年と肩がぶつかりそうになる。
「あっ……!」
青年は咄嗟にルナの腕を支えた。
「大丈夫ですか?」
低く落ち着いた声。
整った顔立ち。
陽の光を受けて輝く金色の髪。
深い蒼の瞳。
どこか気品を感じさせる青年だった。
ルナは慌てて頭を下げる。
「す、すみません!」
「こちらこそ」
青年は優しく微笑む。
ほんの数秒。
それだけの出来事だった。
しかし、お互いが立ち去ったあとも、不思議と相手のことが頭から離れなかった。
(……なんだろう)
(初めて会った気がしない)
ルナは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
◇
一方その頃。
シュガーの実家、ベルシュ男爵家。
応接室では重苦しい空気が流れていた。
男爵は机いっぱいに積まれた帳簿を見つめ、大きくため息をつく。
「駄目だ……」
「新店舗への投資が大きすぎた。
今年の利益では、とても返済が追いつかん」
事業拡大を急ぎすぎた結果、資金繰りは急速に悪化していた。
そこへシュガーが入ってくる。
「お父様?」
男爵は娘を真っすぐ見た。
「シュガー。
アンソルバター様との婚約は、何としても早くまとめるのだ。
モナコラン伯爵家との縁は、我が家にとって最後の希望になる」
シュガーは小さく息を呑む。
「……はい」
そう返事をしながらも、その胸には言い知れぬ不安が芽生え始めていた。
まだ誰も知らない。
この婚約が、それぞれの運命を大きく変えていくことになるとは――。
◇
休日の朝。
王都の商店街は、開店準備をする人々で賑わっていた。
雑貨店『イタフラ』の扉を開けると、店主が笑顔で迎えてくれる。
「おはよう、ルナさん」
「おはようございます!」
エプロンを受け取り、鏡の前で身だしなみを整える。
栗色の髪。
少し日に焼けたように見せる薬草化粧。
地味なワンピース。
鏡に映るのは、どこから見ても町娘だった。
(よし。今日も誰にも気付かれない)
思わず胸を撫で下ろす。
学院では銀髪の伯爵令嬢ミルフィーナ。
休日は町娘ルナ。
まるで前世でコスプレイベントへ向かう朝のようで、少しだけ胸が弾んだ。
◇
「まずは商品の補充からお願いできるかな」
「はい!」
店主に案内され、倉庫へ向かう。
棚には同じ商品が無造作に積まれていた。
(……あれ?)
ルナは店内を見回した。
人気の商品が入口から遠い。
子ども向けの商品は棚の一番上。
贈り物に人気の小物は奥へ置かれている。
(もったいないなぁ)
前世。
コンビニで働いていた頃。
売れ筋商品は入口近くへ。
季節の商品は目立つ場所へ。
子どもの目線には、お菓子や可愛い商品を。
そう教わってきた。
思わず独り言が漏れる。
「並べ替えたら、もっと見てもらえるのに……」
「どうした?」
店主が不思議そうに尋ねる。
「あ、あの……」
少し迷ったあと、勇気を出して話した。
「入口の近くに人気商品を置いてみませんか?
それと、お子さん向けの商品をもう少し低い棚へ移せば、
手に取りやすくなると思います」
店主は目を丸くした。
「なるほど……」
「もちろん勝手な考えですが……」
「いや、面白い」
店主は笑った。
「やってみよう!」
◇
一時間後。
店の雰囲気は少し変わっていた。
入口には季節限定の花柄ハンカチ。
その隣には可愛い便箋。
子ども向けのおもちゃは低い棚へ。
人気の文房具は目線の高さへ並べられた。
さらにルナは、小さな紙へ丁寧な文字を書き始める。
『新学期に人気です!』
『プレゼントにもおすすめ』
『職人手作り』
小さな紹介札。
前世でいうPOPだった。
店主は感心して見つめる。
「説明があるだけで、商品の印象が変わるものだな」
「私も、つい読んでしまうので」
ルナは少し照れながら笑った。
◇
昼前。
店内は思った以上に賑わっていた。
「この便箋かわいい!」
「お母さん、これ欲しい!」
「紹介札があると選びやすいね」
お客様が次々と商品を手に取る。
ルナは笑顔で対応していく。
「ありがとうございます」
「こちら、お包みしましょうか?
お気を付けてお帰りください」
自然に言葉が出る。
前世で何百回も繰り返した接客だった。
やがて、小さな男の子が店内で転びそうになる。
ルナはそっと手を添えた。
「大丈夫?」
「うん!」
男の子は照れくさそうに笑う。
母親が何度も頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いえ、大丈夫ですよ」
その優しい笑顔に、店内の空気まで柔らかくなった。
◇
夕方。
閉店後。
店主は帳簿を見ながら驚いていた。
「今日は……」
何度も数字を見直す。
「昨日より売上が三割も増えている……」
信じられなかった。
たった一日。
並べ方を変えただけ。
紹介札を書いただけ。
それなのに。
店主はゆっくりルナを見る。
「ルナさん」
「はい?」
「君が来てから店が明るくなった」
少し照れくさそうに続ける。
「お客様も楽しそうだった」
「そう言っていただけて嬉しいです」
「これからもよろしく頼む」
ルナは嬉しそうに微笑んだ。
「はい!」
◇
翌日、昼過ぎ。
扉のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
店へ入ってきたのは、先日ぶつかりそうになった金髪の青年だった。
深い蒼い瞳。
品のある立ち居振る舞い。
どこか育ちの良さを感じさせる。
「あ……」
思わず二人の声が重なる。
青年は優しく微笑んだ。
「先日はありがとうございました」
「こちらこそ」
ほんの短い会話。
それだけだった。
青年は文房具を一つ買い、静かに店を出ていく。
去り際にもう一度だけ振り返った。
「また来ます」
その一言に、ルナは自然と笑顔になる。
「はい、お待ちしております」
◇
月曜日の朝。
王立フラリア学院には、いつもの穏やかな時間が流れていた。
校門をくぐる一人の令嬢へ、生徒たちの視線が集まる。
風に揺れる銀色の髪。
澄み切った蒼い瞳。
マルセイユ伯爵家の令嬢、ミルフィーナだった。
「おはようございます」
誰に対しても変わらない、穏やかな笑顔。
婚約破棄という大事件があったとは思えないほど、落ち着いている。
「ミルフィーナ様、おはようございます」
「おはようございます」
廊下ですれ違う生徒たちは、思わず背筋を伸ばす。
学院では首席を争う才女。
礼儀正しく、美しく、近寄り難いほど気品がある。
それが皆の知るミルフィーナだった。
昼休みになると、彼女はいつものように図書館へ向かう。
「また勉強ですか?」
司書が苦笑すると、ミルフィーナは柔らかく微笑んだ。
「本を読んでいる時間が、一番落ち着くのです」
誰もが感心したように見送る。
「やっぱりミルフィーナ様は真面目ね」
「私たちとは違う世界の方だわ」
そんな噂を耳にしながらも、ミルフィーナは静かに本を開いた。
(あと四日)
(週末になれば、ルナになれる)
そのことを思うだけで、自然と口元が緩む。
◇
そして迎えた休日。
自室の鏡の前で、ミルフィーナは髪を薬草染料で栗色に染めていく。
眉の形を少し変え、目元の印象を柔らかくする。
髪をゆるくまとめると、鏡の中には伯爵令嬢の姿はもうなかった。
そこにいたのは、ごく普通の町娘。
「今日もよろしくね、ルナ」
後ろからクリームが笑う。
「お嬢様、見事な変装ですね」
ルナも嬉しそうに笑い返した。
◇
雑貨店『イタフラ』では、店主が笑顔で迎えてくれる。
「おはよう、ルナさん」
「おはようございます!」
エプロンを身につけると、自然と気持ちも切り替わる。
ここでは伯爵令嬢ではない。
一人の店員、ルナだ。
「ルナちゃん!」
常連の子どもが駆け寄ってくる。
「今日は新しいおもちゃが入った?」
「もちろん」
ルナはしゃがみ込み、子どもと同じ目線で微笑む。
「こっちが人気なのよ」
「ありがとう!」
子どもは嬉しそうに走っていく。
その様子を見ていた店主が笑う。
「子どもたちは、すっかりルナさんのファンだな」
「そんなことありません」
「いや、本当だよ」
店内には笑顔があふれていた。
◇
昼過ぎ。
扉のベルが鳴る。
「こんにちは」
あの金髪の青年だった。
「こんにちは」
ルナも自然に笑顔になる。
「今日は何をお探しですか?」
「妹への贈り物を」
「でしたら、こちらはいかがでしょう。」
二人は商品の話をする。
本の話をする。
花の話をする。
他愛もない会話なのに、不思議と楽しい。
青年は思う。
(ルナと話していると落ち着く)
平日は伯爵令嬢ミルフィーナ。
週末は町娘ルナ。
二つの人生は決して交わらない。
その秘密があるからこそ、週末はミルフィーナにとって、
誰にも縛られず、自分らしく笑える、かけがえのない時間になっていくのだった。
そして、青年との距離が少しずつ。
本当に少しずつ。
二人の会話は増えていく。
ルナはまだ知らない。
この青年が、王国でも指折りの名門侯爵家の嫡男であることを。
そして青年もまた、目の前の町娘が、
学院で「氷の才女」と呼ばれる伯爵令嬢ミルフィーナであるとは、
夢にも思っていなかった。
休日だけの、小さな雑貨店。
そこで育まれる穏やかな時間は、二人の運命を少しずつ近づけていくのだった。




