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婚約破棄された伯爵令嬢は、前世のコンビニとコスプレ知識を生かして元婚約者に復讐する! 今さら愛していると言われても手遅れです!

作者: 山田 バルス
掲載日:2026/07/30


 王立フラリア学院。

 王侯貴族の子息令嬢が集う、王国最高峰の学び舎。

 昼休みの中庭。

 春の陽射しが降り注ぐ中、多くの生徒たちが何事かと足を止めていた。

 その中心に立つのは、モナコラン伯爵家の嫡男、アンソルバター=モナコラン。

 向かいには婚約者であるマルセイユ伯爵家の令嬢、ミルフィーナ。

 風に揺れる銀色の髪。

 澄み切った蒼い瞳。

 学院では成績優秀で礼儀正しいと評判の令嬢だった。

 しかし、その穏やかな瞳を見つめるアンソルバターの口元には、嘲るような笑みが浮かんでいる。


「皆、よく聞け!」

 大声が中庭に響き渡る。

「今日、この場をもって、俺はミルフィーナとの婚約を破棄する!」


 その一言に、生徒たちは息をのんだ。

「婚約破棄……?」

「しかも学院で?」

「どういうこと……?」

 ざわめきが広がる。


 ミルフィーナは突然の言葉に思考が止まった。

(婚約……破棄?)

 何を言われたのか理解できない。

 昨日まで何も変わらなかった。

 来月には両家の顔合わせも予定されていた。

 なのに、どうして――。

 アンソルバターは勝ち誇ったように隣へ手を差し伸べる。


「こちらへおいで、シュガー」

 桃色の髪を揺らした男爵令嬢シュガーが、恥じらうように彼の腕へしがみついた。


「アン様……」

「俺が愛しているのは彼女だ!」


 アンソルバターは高らかに宣言する。

「優しくて可愛くて、一緒にいて楽しい。

真実の愛とはこういうものだ!」


 シュガーは嬉しそうに微笑み、アンソルバターへ身体を寄せる。

 周囲からは戸惑いの声が漏れた。


「でも、ミルフィーナ様は……

ずっと婚約者だったのに……」


 そんな声をかき消すように、アンソルバターは鼻で笑う。

「それだけじゃない。マルセイユ伯爵家は没落寸前だ」


 その言葉に、中庭が静まり返る。

 ミルフィーナの肩が小さく震えた。


「領地は赤字続き。王都では『貧乏伯爵』と笑われているじゃないか。

そんな家の娘と結婚しても、俺に得はない」


 あまりにも冷たい言葉だった。

 だが、それは事実ではない。

 父は領民を守るため、自らの蓄えを切り崩して税を下げ、飢える人々を救ってきた。

 贅沢をして貧しくなったわけではない。

 領民のために選んだ道だった。

 それを知っていながら――。


「だから俺は決めた。裕福な家のシュガーと結婚する。

これからの時代は愛だけじゃない。金も必要なんだ」


 シュガーは申し訳なさそうな表情を作っていたが、その瞳には隠しきれない優越感が浮かんでいた。

 ミルフィーナは震える声で問いかける。


「……それが、本当の理由なのですか?」

「ああ、そうだ」


 アンソルバターは迷いなく言い放つ。

「お前は真面目すぎる。そんな女と結婚しても楽しくない」


 そして最後に、冷たく笑った。

「それに――貧乏な伯爵家の娘など、俺には必要ない」


 その一言が、ミルフィーナの胸を深くえぐった。

(……必要、ない)


 幼い頃から。

 未来の伯爵夫人となるため、必死に努力してきた。

 礼儀作法。

 政治。

 領地経営。

 帳簿の読み方。

 外交。

 すべては婚約者を支え、両家を豊かにするためだった。

 それなのに。

 努力も。

 家族も。

 父の生き方までも。

 すべてを否定された気がした。

 胸が苦しい。

 息ができない。

 視界が涙で滲む。

(嫌……)

(どうして……)

(私は……)

(頑張ってきたのに……)

 今にも涙がこぼれそうになる。


 けれど。

(こんな人の前でだけは、泣きたくない)

 必死に涙をこらえた、その瞬間――。

 ズキンッ。

 頭の奥を激しい痛みが貫いた。


(……え?)

 視界が白く染まる。

 知らないはずの景色が、次々と浮かんできた。

 明るい店内。

 レジの電子音。

 棚いっぱいに並ぶ飲み物、お菓子、お弁当。


「ありがとうございました!」

 笑顔でお客様を見送る自分。

(コンビニ……?)


 さらに別の記憶があふれ出す。

 休日。

 大きな鏡の前。

 メイク道具が机いっぱいに並んでいる。


 アイシャドウ。

 リップ。

 ブラシ。

 ファンデーション。

 そして、色とりどりのウィッグ。


「よし! 明日のイベント、頑張るぞ」

 鏡の中には、さっきまでとはまるで違う人物が映っていた。

 友人たちが驚いたように笑う。


「えっ!? 本当にルナ!?」

「全然分からなかった!」

「また別人になってる!」


 その言葉が嬉しくて、思わず笑ってしまう。

 休日のたびにキャラクターになりきる。

 衣装も自作する。

 メイクも研究する。

 それが、何より楽しかった。


(そうだ……)

(私は日本でコンビニバイトをしていた)

(そして趣味は……コスプレだった)


 変身することが好きだった。

 髪型ひとつ。

 眉の形ひとつ。

 目元の印象ひとつ。

 それだけで、人は驚くほど別人になれることを知っていた。

 その瞬間、前世と今世、二つの記憶が一つにつながる。


(そうか……)

(私はずっと伯爵夫人になるためだけに生きてきた)

(また誰かのためだけに生きるの?)

(違う)

(今度こそ、自分の人生を生きよう)

 ふっと肩の力が抜けた。


 アンソルバターはその笑みに腹を立てる。

「何がおかしい!」


 ミルフィーナは優雅に一礼した。

「いいえ。大切なことを思い出せました」


「何?」

「私が、本当に生きたい人生です」


 アンソルバターは言葉を失う。


「婚約破棄、お受けいたします」

 その一言に、中庭は静まり返った。


 泣き崩れると思っていた。

 取り乱すと思っていた。

 誰もが予想した反応とは、まったく違っていた。


「それでは、ごきげんよう」

 ミルフィーナは優雅に踵を返す。

 その背中は、不思議なほど晴れやかだった。



 その夜。

 マルセイユ伯爵家の屋敷。

 自室へ戻ったミルフィーナは、ベッドへ腰掛けたまま動けなかった。

 昼間の出来事が、何度も頭の中で繰り返される。


『お前の家は没落寸前だ』

『貧乏伯爵家の娘と結婚する価値などない』

『俺はシュガーと結婚する』


 その言葉が胸を締め付ける。

 幼い頃から。

 アンソルバターの隣に立つため。

 そして、伯爵家を支える良き妻となるために努力してきた。

 礼儀作法。

 政治。

 経営学。

 領地運営。

 すべては未来のためだった。

 それなのに。

 努力も家族も、一緒に否定された気がした。


「うっ……」

 こらえていた涙があふれ出す。


 その時だった。

 屋敷の外から馬車の止まる音が聞こえた。

 しばらくして、控えめなノックが響く。


「お嬢様」

 専属侍女クリームだった。

 二十歳になったばかりの彼女は、幼い頃からミルフィーナに仕えている。


「旦那様が来られました」

 父は数日後の、婚約式の話し合いで王都を訪れていた。


 春先の長雨で崩れた堤防の復旧工事。

 凶作に備えた食糧の確保。

 領民を守るため、王都ではなく、領地に滞在し、奔走しているのだ。


「……分かりました」

 執務室へ入ると、旅装束のままの父が立ち上がった。

 疲労の色は隠せない。


 それでも娘を見る瞳だけは優しかった。

「ミルフィーナ」


 その声を聞いた瞬間、張り詰めていた心が崩れる。

「お父様……」


 涙が止まらなかった。

 父は何も聞かなかった。

 何も責めなかった。

 ただ娘が泣き止むまで、静かに隣にいてくれた。

 長い沈黙のあと、小さく口を開く。


「……辛かったな」

 その一言だけで十分だった。


「私は……アンソルバター様のお役に立てるよう努力してきました。

でも……家が貧しいから必要ないと言われました……」


「私だけじゃありません。

お父様まで馬鹿にされた気がして……」


 父はゆっくり首を横に振る。

「貧しくても構わない。私は領民を飢えさせたくない。

だから税を下げた。そして、蓄えを放出した。

その結果、王都では『貧乏伯爵』などと陰口を叩かれている。

お前には迷惑をかけてすまなかった」


 父は苦笑する。

「だが、貧乏でもいい。

領民が笑って暮らせるなら、それが私の誇りだ」


 ミルフィーナの瞳から、再び涙があふれた。


 父は続ける。

「だから、今回の件で、お前に迷惑をかけてすまなかったな。

婚約がなくなった、これからは、お前自身の幸せを見つけなさい」


 その言葉に、ミルフィーナはゆっくりとうなずいた。

「……はい」



 翌朝。

 ミルフィーナは専属侍女クリームだけを部屋へ呼んだ。


「クリーム」

「はい、お嬢様」

「あなたにだけ、お願いがあります」


 クリームは真剣な表情で頭を下げる。

「どのようなことでも」

 ミルフィーナは少し照れたように笑う。


「休日だけ、王都で働きたいのです」

「働く……のですか?」


「はい」

「家計を助けたいという気持ちもあります。

そして、これからの領地経営に何か役立てたいのです」

 

 クリームは驚きながらも優しく微笑んだ。

「お嬢様らしいですね」


「ありがとう、クリーム」

「だから休日だけ、学院へ自習に行くと言って屋敷を出ます。

さすがに伯爵令嬢という身分は隠して、町娘として働きたいわ」


「で、わたしは何をすればよろしいのですか?」

 クリームの質問にミルフィーナは、答える。


「まずはわたしの変装技術を見て欲しいの」


 そして鏡の前へ座る。

 前世で趣味だったコスプレ。

 磨き続けた化粧の技術。

 眉を整え、目元を変え、銀色の髪を薬草染料で栗色へ染める。


 三十分後。

 鏡の中には伯爵令嬢の姿はなかった。

 そこにいたのは、ごく普通の町娘。


 栗色の髪に柔らかな笑顔を浮かべる少女だった。

「今日から私は、ルナです」


 クリームは思わず息をのむ。

「これなら……お嬢様だと、分かりませんね」



 一方その頃。

 モナコラン伯爵家。

 重厚な執務室には、重苦しい空気が流れていた。

 机の向こうには、モナコラン伯爵が腕を組み、険しい表情で座っている。


 その前には、肩をすくめたアンソルバターが立っていた。

「父上。何をそんなに怒っているのです?」


 その一言に、伯爵の額へ青筋が浮かぶ。

「何を怒っているだと?」


 低く押し殺した声だった。


「貴様は相談もなく、公衆の面前で婚約を破棄したそうだな」

「はい」


「はい、ではない!」

 机を叩く音が執務室へ響く。


「婚約とは家同士の契約だ!

お前一人の感情で勝手に壊してよいものではない!」


 アンソルバターは不満そうに眉をひそめる。

「ですが、シュガーの実家の方が裕福です。

マルセイユ伯爵家は貧乏でしょう。

何が問題なのです?」


 その言葉に、モナコラン伯爵は頭を押さえた。

「……だからお前は愚かなのだ。

今回の件で、我が家は慰謝料を支払うことになる。

金額も小さくはない。

王家にも貴族社会にも、『約束を軽んじる家』という印象を与えた」


 アンソルバターは納得していない様子だった。

「ですが、その程度でしょう?

シュガーの家と結べば、すぐに取り返せます」


 伯爵はゆっくり立ち上がる。

 そして息子の様子を見てから、溜息をついた。


「終わったことは仕方がない。

今さら婚約を戻せとも言わん」


 一拍置く。

「だが――」

 その声には、長年伯爵家を率いてきた当主としての威圧感が宿っていた。

「今回の件が原因で、家へ少しでも損害をもたらした時は……覚悟しろ」


 アンソルバターの背筋に冷たいものが走る。

 父がここまで怒る姿を見たのは初めてだった。


「……分かりました」

 小さく答えるしかなかった。


 だが、その胸の内では、

(大げさなんだよ)

 そんな甘い考えが消えることはなかった。



 一方、マルセイユ伯爵家。

 応接室には柔らかな午後の日差しが差し込んでいた。

 ミルフィーナは父と向かい合って座っている。

 父の前には、一通の書類と革袋が置かれていた。

 袋の中には、ずっしりとした重みがある。

 マルセイユ伯爵は静かに口を開いた。


「モナコラン伯爵家から正式な謝罪と慰謝料が届いた」


 ミルフィーナは小さく目を見開く。

「慰謝料……ですか?」


「ああ。婚約を一方的に破棄した以上、当然の責任だ」

 父は苦笑した。


「正直、この金があるだけで、今年の堤防工事を予定どおり進められる。

備蓄用の麦も追加で購入できる。

領民たちも安心して冬を迎えられるだろう。」


 そう言って革袋へ視線を落とす。

「こんな形で助かるとは思わなかった」


 そして父は申し訳なさそうに娘を見つめた。

「すまないな、ミルフィーナ。

お前は傷ついたのに……。

結果として、お前の婚約破棄で領地が救われることになってしまった」


 ミルフィーナは静かに首を横へ振る。

「いいえ。お父様。

このお金で領民の皆さんが笑顔になれるなら、それで十分です」


 父は娘の成長した姿に目を細める。

「本当に優しい子だ」


 立ち上がると、娘の肩へそっと手を置いた。

「私は明日、領地へ戻る。

復旧工事も、備蓄の手配もあるからな。」


 ミルフィーナは笑顔で頷いた。

「はい。どうか、お身体にお気を付けて」


 父も微笑み返す。

「ああ。お前も、自分の幸せを探しなさい。

もう領地のためだけに生きる必要はない」


 その言葉は、まるで新しい人生への背中を押してくれるようだった。

 翌朝、マルセイユ伯爵は領地へ向かう馬車へ乗り込む。

 屋敷の前で見送るミルフィーナへ向かって、大きく手を振った。

 馬車が見えなくなるまで見送りながら、ミルフィーナは胸の中で静かに誓う。

(今度は、私自身の力で)

(お父様の領地を支えられる人になろう)

 そしてその決意は、町娘ルナとして歩み始める、新たな人生の第一歩となるのだった。



 数日後。

 休日の朝。

 まだ人通りの少ない王都の街角を、一人の少女が歩いていた。

 栗色の髪。

 素朴なワンピース。

 肩には小さな布袋。

 その姿は、どこにでもいる町娘そのものだった。

 ――ルナ。

 それが今日のミルフィーナの名前だった。

 鏡で何度も確認した変装は完璧だ。

 伯爵令嬢の面影はどこにもない。


(本当に誰にも気づかれない……)

 胸が少し高鳴る。

 前世でイベント会場へ向かう朝も、こんな気持ちだった。


(なんだか懐かしいな)

 思わず笑みがこぼれた。

 今日は王都で仕事を探す日。

 前世ではコンビニでアルバイトをしていた。

 接客も品出しも掃除も苦ではない。

 むしろ、人と話すことは好きだった。


「まずは求人を探さないと」


 王都の商店街へ足を向ける。

 様々な店先には求人札が掲げられていた。


『パン職人見習い募集』

『花屋店員募集』

『食堂給仕募集』


 どれも魅力的だったが、学院へ通いながら続けるには難しい。

 そんな時だった。

 一軒の店が目に留まる。

 木製の看板には可愛らしい文字が描かれていた。


 雑貨店『イタフラ』

 店先には色鮮やかな文房具。

 可愛い小物。

 魔道具を利用した便利な日用品。

 前世でいう雑貨店と同じ感じの店だった。

 その入口には、一枚の紙が貼られている。


『週末アルバイト募集』

 ルナの瞳が輝いた。

(週末だけ……!)


(これなら学院に通いながら働ける!)

 胸が高鳴る。

 迷う理由はなかった。

 店内へ入ると、木の香りとハーブの優しい香りが漂っていた。

 棚には生活用品がきれいに並べられている。


「いらっしゃいませ」

 優しい声が聞こえる。

 振り返ると、五十代ほどの穏やかな男性が微笑んでいた。


「求人を見て来ました」

「おや、面接かな?」

「はい」


 店主は笑顔で奥へ案内してくれた。

 応接用の小さな机を挟み、向かい合って座る。


「名前は?」

「ルナです」

「家族は?」


 事前に考えていた設定を口にする。


「姉が貴族様のお屋敷で侍女をしております。

 私は王都で一人暮らしを始めたばかりです」


 もちろん嘘だった。

 だが、身元を隠すには必要だった。


 店主は穏やかに頷く。

「接客の経験は?」


 ルナは少し考えたあと、前世の経験を言葉を選びながら話した。

「似たようなお店で働いていました。

 商品の補充や掃除、お客様への対応もしていました」


「ほう」

 店主は感心したように目を細める。

「笑顔も自然だ。

 言葉遣いも丁寧だね」


 ルナは少し照れくさくなる。

 伯爵令嬢として身につけた礼儀作法が、こんなところで役に立つとは思わなかった。

 しばらく話をした後、店主は笑顔で立ち上がった。


「採用だ」

「えっ?」

「来週から来てくれるかい?」


 思わず椅子から立ち上がる。


「はい!」

 思わず声が弾んだ。

「よろしくお願いいたします!」


 店主は豪快に笑う。

「元気があっていい。

 期待しているよ、ルナさん」


 店を出たルナは、小さく拳を握った。

(やった……!)

(お仕事が決まった!)


 自然と足取りが軽くなる。

 新しい人生が始まる。

 そんな期待で胸がいっぱいだった。


 その時だった。

 店の前で、一人の青年と肩がぶつかりそうになる。


「あっ……!」


 青年は咄嗟にルナの腕を支えた。

「大丈夫ですか?」

 低く落ち着いた声。

 整った顔立ち。

 陽の光を受けて輝く金色の髪。

 深い蒼の瞳。


 どこか気品を感じさせる青年だった。

 ルナは慌てて頭を下げる。


「す、すみません!」

「こちらこそ」


 青年は優しく微笑む。

 ほんの数秒。

 それだけの出来事だった。

 しかし、お互いが立ち去ったあとも、不思議と相手のことが頭から離れなかった。


(……なんだろう)

(初めて会った気がしない)

 ルナは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。



 一方その頃。

 シュガーの実家、ベルシュ男爵家。

 応接室では重苦しい空気が流れていた。

 男爵は机いっぱいに積まれた帳簿を見つめ、大きくため息をつく。


「駄目だ……」

「新店舗への投資が大きすぎた。

今年の利益では、とても返済が追いつかん」


 事業拡大を急ぎすぎた結果、資金繰りは急速に悪化していた。

 そこへシュガーが入ってくる。


「お父様?」


 男爵は娘を真っすぐ見た。

「シュガー。

アンソルバター様との婚約は、何としても早くまとめるのだ。

モナコラン伯爵家との縁は、我が家にとって最後の希望になる」


 シュガーは小さく息を呑む。

「……はい」


 そう返事をしながらも、その胸には言い知れぬ不安が芽生え始めていた。

 まだ誰も知らない。

 この婚約が、それぞれの運命を大きく変えていくことになるとは――。



  休日の朝。

 王都の商店街は、開店準備をする人々で賑わっていた。

 雑貨店『イタフラ』の扉を開けると、店主が笑顔で迎えてくれる。


「おはよう、ルナさん」

「おはようございます!」


 エプロンを受け取り、鏡の前で身だしなみを整える。

 栗色の髪。

 少し日に焼けたように見せる薬草化粧。

 地味なワンピース。

 鏡に映るのは、どこから見ても町娘だった。


(よし。今日も誰にも気付かれない)

 思わず胸を撫で下ろす。

 学院では銀髪の伯爵令嬢ミルフィーナ。

 休日は町娘ルナ。

 まるで前世でコスプレイベントへ向かう朝のようで、少しだけ胸が弾んだ。



「まずは商品の補充からお願いできるかな」

「はい!」


 店主に案内され、倉庫へ向かう。

 棚には同じ商品が無造作に積まれていた。


(……あれ?)

 ルナは店内を見回した。

 人気の商品が入口から遠い。

 子ども向けの商品は棚の一番上。

 贈り物に人気の小物は奥へ置かれている。

(もったいないなぁ)


 前世。

 コンビニで働いていた頃。

 売れ筋商品は入口近くへ。

 季節の商品は目立つ場所へ。

 子どもの目線には、お菓子や可愛い商品を。

 そう教わってきた。

 思わず独り言が漏れる。


「並べ替えたら、もっと見てもらえるのに……」

「どうした?」

 店主が不思議そうに尋ねる。


「あ、あの……」

 少し迷ったあと、勇気を出して話した。


「入口の近くに人気商品を置いてみませんか?

 それと、お子さん向けの商品をもう少し低い棚へ移せば、

手に取りやすくなると思います」


 店主は目を丸くした。

「なるほど……」


「もちろん勝手な考えですが……」

「いや、面白い」


 店主は笑った。

「やってみよう!」



 一時間後。

 店の雰囲気は少し変わっていた。

 入口には季節限定の花柄ハンカチ。

 その隣には可愛い便箋。

 子ども向けのおもちゃは低い棚へ。

 人気の文房具は目線の高さへ並べられた。

 さらにルナは、小さな紙へ丁寧な文字を書き始める。


『新学期に人気です!』

『プレゼントにもおすすめ』

『職人手作り』


 小さな紹介札。

 前世でいうPOPだった。


 店主は感心して見つめる。

「説明があるだけで、商品の印象が変わるものだな」


「私も、つい読んでしまうので」

 ルナは少し照れながら笑った。



 昼前。

 店内は思った以上に賑わっていた。


「この便箋かわいい!」

「お母さん、これ欲しい!」

「紹介札があると選びやすいね」


 お客様が次々と商品を手に取る。


 ルナは笑顔で対応していく。

「ありがとうございます」


「こちら、お包みしましょうか?

お気を付けてお帰りください」


 自然に言葉が出る。

 前世で何百回も繰り返した接客だった。

 やがて、小さな男の子が店内で転びそうになる。


 ルナはそっと手を添えた。

「大丈夫?」


「うん!」

 男の子は照れくさそうに笑う。


 母親が何度も頭を下げた。

「ありがとうございます」


「いえ、大丈夫ですよ」

 その優しい笑顔に、店内の空気まで柔らかくなった。



 夕方。

 閉店後。

 店主は帳簿を見ながら驚いていた。


「今日は……」

 何度も数字を見直す。


「昨日より売上が三割も増えている……」

 信じられなかった。


 たった一日。

 並べ方を変えただけ。

 紹介札を書いただけ。

 それなのに。


 店主はゆっくりルナを見る。

「ルナさん」

「はい?」


「君が来てから店が明るくなった」

 少し照れくさそうに続ける。

「お客様も楽しそうだった」


「そう言っていただけて嬉しいです」

「これからもよろしく頼む」


 ルナは嬉しそうに微笑んだ。

「はい!」



 翌日、昼過ぎ。

 扉のベルが鳴る。


「いらっしゃいませ」

 店へ入ってきたのは、先日ぶつかりそうになった金髪の青年だった。

 深い蒼い瞳。

 品のある立ち居振る舞い。

 どこか育ちの良さを感じさせる。


「あ……」

 思わず二人の声が重なる。


 青年は優しく微笑んだ。

「先日はありがとうございました」

「こちらこそ」


 ほんの短い会話。

 それだけだった。

 青年は文房具を一つ買い、静かに店を出ていく。


 去り際にもう一度だけ振り返った。

「また来ます」


 その一言に、ルナは自然と笑顔になる。

「はい、お待ちしております」



 月曜日の朝。

 王立フラリア学院には、いつもの穏やかな時間が流れていた。

 校門をくぐる一人の令嬢へ、生徒たちの視線が集まる。

 風に揺れる銀色の髪。

 澄み切った蒼い瞳。

 マルセイユ伯爵家の令嬢、ミルフィーナだった。


「おはようございます」

 誰に対しても変わらない、穏やかな笑顔。

 婚約破棄という大事件があったとは思えないほど、落ち着いている。


「ミルフィーナ様、おはようございます」

「おはようございます」


 廊下ですれ違う生徒たちは、思わず背筋を伸ばす。

 学院では首席を争う才女。

 礼儀正しく、美しく、近寄り難いほど気品がある。

 それが皆の知るミルフィーナだった。

 昼休みになると、彼女はいつものように図書館へ向かう。


「また勉強ですか?」

 司書が苦笑すると、ミルフィーナは柔らかく微笑んだ。


「本を読んでいる時間が、一番落ち着くのです」

 誰もが感心したように見送る。


「やっぱりミルフィーナ様は真面目ね」

「私たちとは違う世界の方だわ」

 そんな噂を耳にしながらも、ミルフィーナは静かに本を開いた。


(あと四日)

(週末になれば、ルナになれる)

 そのことを思うだけで、自然と口元が緩む。



 そして迎えた休日。

 自室の鏡の前で、ミルフィーナは髪を薬草染料で栗色に染めていく。

 眉の形を少し変え、目元の印象を柔らかくする。

 髪をゆるくまとめると、鏡の中には伯爵令嬢の姿はもうなかった。


 そこにいたのは、ごく普通の町娘。

「今日もよろしくね、ルナ」


 後ろからクリームが笑う。

「お嬢様、見事な変装ですね」

 ルナも嬉しそうに笑い返した。



 雑貨店『イタフラ』では、店主が笑顔で迎えてくれる。

「おはよう、ルナさん」


「おはようございます!」

 エプロンを身につけると、自然と気持ちも切り替わる。


 ここでは伯爵令嬢ではない。

 一人の店員、ルナだ。


「ルナちゃん!」

 常連の子どもが駆け寄ってくる。

「今日は新しいおもちゃが入った?」


「もちろん」

 ルナはしゃがみ込み、子どもと同じ目線で微笑む。

「こっちが人気なのよ」


「ありがとう!」

 子どもは嬉しそうに走っていく。


 その様子を見ていた店主が笑う。

「子どもたちは、すっかりルナさんのファンだな」

「そんなことありません」


「いや、本当だよ」

 店内には笑顔があふれていた。



 昼過ぎ。

 扉のベルが鳴る。


「こんにちは」

 あの金髪の青年だった。


「こんにちは」

 ルナも自然に笑顔になる。


「今日は何をお探しですか?」

「妹への贈り物を」


「でしたら、こちらはいかがでしょう。」

 二人は商品の話をする。


 本の話をする。

 花の話をする。

 他愛もない会話なのに、不思議と楽しい。

 青年は思う。


(ルナと話していると落ち着く)


 平日は伯爵令嬢ミルフィーナ。

 週末は町娘ルナ。

 二つの人生は決して交わらない。


 その秘密があるからこそ、週末はミルフィーナにとって、

誰にも縛られず、自分らしく笑える、かけがえのない時間になっていくのだった。


 そして、青年との距離が少しずつ。

 本当に少しずつ。

 二人の会話は増えていく。

 ルナはまだ知らない。

 この青年が、王国でも指折りの名門侯爵家の嫡男であることを。


 そして青年もまた、目の前の町娘が、

学院で「氷の才女」と呼ばれる伯爵令嬢ミルフィーナであるとは、

夢にも思っていなかった。


 休日だけの、小さな雑貨店。

 そこで育まれる穏やかな時間は、二人の運命を少しずつ近づけていくのだった。


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