いっしょにかえろう
12月に入り、刺すように風が冷たい。
時刻は午前2時。万年不眠症の私は、眠るのをあきらめて近くのコンビニに向かい、猫の缶詰ふたつとカップ焼酎と朝食用のヨーグルトを買って帰途についた。
別に買わなきゃいけないものはないが、家から一番近いあかりがあるところだから、昆虫みたいな生活をしている私は眠れぬ夜、集蛾灯に集まる蛾のようにひきよせられてしまう。結果、たいてい手元にはアルコールを握りしめている。
(主婦のくせにとんでもない日常を送ってます。もういいんです、丘の向こうのゴールも見えてきた年齢ですから)
空気がしんと冷えると星も月も一層輝きを増す気がする。
50メートルほど歩いたところで、後ろをついてくる足音に気づいた。
こんな時間だから人通りもめったにない。けれど、そのひたひたという足音はだんだん私との間隔を詰めてくる気がする。
夜散歩の癖のある私はこういう妄想をいつも脳裏に描いていた。通り過ぎると思った人が背後で立ち止まり、いきなり「こんばんは」と言ってナイフでグサ。倒れる私をまたいで犯人は財布を持って静かに立ち去る。
さて、今夜は確かに誰かにつけられているようだ。こういう時は距離をとるため早足になるか、無視して普通に歩くべきか。相手の年齢も性別もわからない。60代半ばの私は、まあこんな年寄りを襲う痴漢もいないだろうと歩調を変えなかった。すると、人影は私の真横に現れ、ほとんどぶつかりそうな距離で私の顔を見た。若い男性だ。彼は唐突に話しかけてきた。
「おねえさん。一緒に帰りませんか」
な、なんだと。誰がおねえさんだ。なんで一人で帰れないんだチミは。
見た目どう見ても20代、割と涼しげなお顔立ち。身なりもいい。こんなバーさん相手にナンパの可能性はない。とすると、あとは物取りか「誰でもいいから〇したかった」サイコパスか、宗教か。ついてきて上がり込んで強盗か。
でも亀の甲より年の功、ババーの私は恐怖も警戒心もすり減っていた。
「寂しいの?」
そう返すと、彼は虚を突かれたように一瞬だまり、それから小さい声で
「はい」
と答えた。お? 素直じゃん。
「お酒飲んでる?」
「はい、飲み会の帰りで。おねえさんも、飲みの帰りとかなんかですか?」
だからこんな年寄りをおねーさんと呼ぶのは年末のアメ横でカニ売ってるおいちゃんぐらいだぞ。何でその呼び方なん。ふかふかマフラーを口元まで巻いてたから顔がわからないのかな?
「私は不眠症なだけ。昔からね。だからお散歩してるんです」
「不眠症? 毎晩こんな時間に歩いてるんですか」
「毎晩じゃないけど。職業病かな、仕事で漫画描いてた頃は三晩ぐらい完徹するの平気だったから、むしろ便利でね」
「漫画? 漫画家さんなんですか? すごいなあ」
「いや、昔の話。今は描いてない。あなたは独り暮らしなの?」
「いや、家族と……」
「じゃあ待ってる人がいるんだ。帰れば寂しくないね」
「おねえさんは待ってる人いるんですか」
「夫と猫が家で待ってる。夫は寝てるから、出迎えてくれるのは、猫」
「夜中に奥さんが出歩いて、目が覚めたら夫さん心配とかしないですか」
どういう訳か彼は私との距離を異様に縮めていて、何度も体がぶつかる。
とにかく異性と触れ合うのが苦手な私はさりげなく距離をとる。
「私ね、真性不眠症なの。器質的なもので、治らないんだって。子供のころから超ショートスリーパーだったんで親が心配していろいろ病院めぐって診てもらったんだけど、それが結論。夫はわかったうえで結婚してくれたから、夜の散歩も了解済み」
「えー、そんなのあるんだ…… 薬とか、効かないんですか?」
「睡眠薬と精神安定剤と抗うつ剤をお酒で流し込めば、4時間くらい眠れるかな。で、担当のお医者さんに薬とお酒どっち選んだほうがましですかって聞いたら、断然薬です、って。でも今夜も焼酎買っちゃった」
「病院行く意味ないですね」
「精神科医なんてただの薬剤師だからね」
私は彼の顔を見て質問した。
「あなたは学生さん? 社会人?」
「会社勤めです」
「そうか。毎日遅くまで仕事してこんな時間まで飲んで、明日また仕事。大変ね」
「そうですね。正直、辛いっす。でもおねえさんも、大変ですね」
「眠れないっていうと、眠くなるまで起きてればいい、っていう人もいるけど、何日も続くと、起きてる分だけ魂削られる気がする。だから出歩くの」
「……いろいろ、あるんすね」
「生きてると、ねえ。いろいろ、ね」
若いころ私は、おばさんという生き物はどこでもここでもにぎやかにどうでもいいことをなんであんなにペラペラしゃべるんだろうと思っていたけれど、おばさんを過ぎておばーさんの域に入った自分はむっつりな青春時代を経て完全にそういうイキモノになっていて、見も知らぬ怪しいオトコ相手にこうしてぺらぺらしゃべっている。フシギなものだ。
十字路で私は立ち止まった。
「私の家あっちなの、だからここでバイバイね」
「えーそうなんですか、えー……と」
なんだか名残惜しそうだ。
私は彼の顔を見て、言った。
「食べるために働いてる人って、全員尊敬するよ。私には時間と、猫だけがある。酷いめまい(注・PPPD)と不安症で人と触れ合う仕事は無理。だから働いてくれてる夫には、感謝しかない。こんな私にも、夜空がきれいだとか、猫がかわいいとか、紅葉がきれいだとか思える気持ちを残してくれたからね。あなたも体に気を付けて、帰ったらよく眠ってね。私の分も」
彼は「はい」と笑顔を見せた。
わかれてふと振り返る。後ろ姿が小さくなってゆく。
ホントに一緒に帰りたかっただけなんだ。そりゃ人生時々誰かと一緒に歩きたくなることはあるよね。
……っていや、本当にそうなんだろうか。
彼からはたいしてお酒の匂いもしなかった。酔っている様子もなかった。
若い男性が、ただ一人で歩きたくないという理由で、突然高齢の女性に真夜中に声をかけるだろうか。
ふつうこんな時間に赤の他人に声をかけられたら、特に若い女性なら
「い、いいです、一人で帰ります!」とさっさと足を速めて距離を取ろうとするだろう。
そうしたらもしかしたら例えば熊の習性のように、自分から逃げようとする相手を捕まえて「お金と命、どっち先にもらってもいい?」てな感じで本性を見せていたかもしれない。
「寂しいの?」と返されて、もしかしたら気が抜けて別方向に行っただけだとしたら、私は恐れ知らずのおしゃべりのせいで命拾いしたことになる。
つまり、あの人の中身はわからないけど、対応によっては殺されてたかもしれないとか思ってるわけで。そう考えるのは、彼に失礼だろうか。多分すごく失礼だな。
でもいくら考えても何目的で話しかけてきたのか今もって全然わからないのだ。
名前も知らないお兄さん。
私は今でも不思議なんです。
あなたは本当は何の用があって、私に話しかけたんですか?
<了>




