九話目 異世界の扉
美弥の提案を受け、私たちは三人で山の下の公園へと向かっていた。自転車を漕ぐ道すがら、私は沈黙し、思考の渦に沈んでいた。
和也たちの安否を確認するだけなら、電話一本で済む話だった。遊びに出かけている彼らが電話に出る可能性は低いだろう。
それでも、着信を残すかLINEでメッセージを送っておけば、きっと連絡は来るはずだ。
それに、美弥が言うように私を騙していたのだとしたら、正直なところ、少し腹立たしくもあった。
私が美弥の誘いを受けたのは、確認のためだった。美弥のことは、まだ少し疑念が拭えない。
昨日の出来事が、私の妄想や夢だとは到底思えなかったのだ。
身体に残る傷痕、化物に捕まれたと思しき痣、そして手に書き留められた電話番号……それらすべてが嘘だとは、どうしても思えなかった。
しかし、美弥を疑う以上に、私自身……私の記憶を疑ってもいた。確かに、二人の言うことはもっともだ。
私が体験したことは、まるでアニメや漫画の世界の話ではないか。
身体の傷や痣だって、あれだけ転んだのなら、偶然そのようなものができたとしてもおかしくはない。
電話番号だって、もしかしたら私が……。
私は確かめたかった。どこまでが現実で、どこからが自分が作り出した虚構なのかを。
パニック状態だったとはいえ、無意識のうちにとった自分の行動に、私は恐怖を感じていたのだ。
思い詰めたような私の様子に気づいたのか、美弥が不安げに声をかけてきた。
「ねぇ、エリカ……本当に大丈夫? さっきは……笑ってごめん。だって、ほら、あまりにも意味わかんないこと言うから……。つい……」
彼女は、言い訳をするように視線を逸らしながら続けた。
「でもさ、本当にエリカの言ってることが“本当”だったら……って、考えちゃってさ。何ていうの?『パラレルワールド』とか、あの……ネットで噂の『きさらぎ駅』みたいな……異世界に迷い込んだ、とか……あり得るのかなって……」
「私も、ちょっとだけそう思ったの……」
隣で智子が静かに口を開いた。その声音には、戸惑いと、どこか怯えが混ざっていた。
「最初はエリカの……妄想かと思った。でも、あのときのエリカ……本気で怯えてたでしょ? それ見て……まさか、って」
パラレルワールド。きさらぎ駅。
どちらも聞きかじったことはある。都市伝説や作り話として片づけられてきた怪異譚。しかし、あの夜、私の身に起きたことは……そんな『物語』の中でしか見たことのないような、現実感のない現実だった。
ふと、私の心にひとつの疑問が胸に浮かぶ。
「ねぇ、美弥……。私がいなくなったとき、どうして電話してくれなかったの?」
「えっ……? したよ? 何度も。全然出ないから、マジで心配して、警察行こうかって話にもなって。でも……誰かが『警察沙汰になるのは面倒』って言い出してさ、とりあえずあの神社で二、三時間、待ってたの」
美弥の語る声には、嘘の気配はなかった。
「その時にね、伸治が言ったの。『もしかしたら、もうエリカ、下に戻ってるんじゃないか』って。それで神社の階段を下りて確認しに行ったの。そしたら……『エリカの自転車がなかった』って伸治が戻ってきて。エリカ怒って帰ったなんだろうって話になって…、それで私たちもしらけちゃって……そのまま帰ったんだよ」
「……え?」
私は思わず声を漏らした。
「着信なんて……来てなかったよ」
確かに私はその後、智子に電話した。そのとき、着信履歴も確認した。だが、あの夜に誰からの着信も……なかった。
一瞬、美弥が嘘をついているのかと思った。だが、彼女の顔には欺瞞の影はなく、ただ困惑と心配の色が浮かんでいるだけだった。
それは、私だけが違う時間を……違う場所を……歩いていたのではないか、という奇妙な確信へとつながっていった。
あの神社を通ったあの瞬間、私の足元で、異世界への裂け目が音もなく、開いたのではないかと。
そして私達は、山の下に広がる公園へとたどり着いた。
薄闇に沈み、人の気配一つない公園。いつも見慣れたはずの光景が、昨夜の出来事を思い出すたび、得体のしれない不気味さを纏っていく。
美弥の言葉通り、そこには和也の自転車も、伸治と徹が乗ってきた自転車もなかった。昨日、確かにここにあったはずの、あの二台の自転車……。それは彼らがまだ、この世にいる証のように思えた。
念のため、私は周囲の闇を探る。だが、やはり自転車は見当たらない。そんな私の焦燥を見透かすように、美弥は冷めた声で言った。
「探したってあるわけないよ。昨日、和也たち乗って帰ったんだから」
もはや、美弥の言葉を信じないわけではなかった。むしろ、私の記憶が、どこまで現実に足をつけているのかを確かめる行為だったのかもしれない。
どこまでが真実で、どこからが虚構の淵なのか。あるいは、美弥と智子が口にした、「異世界へ行った」という、ありえないはずの言葉さえ、私の思考の片隅をよぎる。
「どう、気が済んだ?」
優しく、しかしどこか見透かしたような美弥の問いかけに、私は「う、うん」と曖昧な音を漏らした。
「エリカ、まだ信じてないの? じゃあ、ほら、神社の方に行こうよ。井戸の中を覗けば、きっと納得するから」
美弥が指差したのは、闇へと続く神社の石段だった。入口に立つ朽ちかけた鳥居は、現世との境界を示すかのように異様な存在感を放ち、私にはそれが、異世界への扉に見えた。足元に絡みつくような恐怖に、私はその場に縫い止められてしまう。
だが、美弥は違った。スタスタと、まるで目の前の厄介事を片付けるかのように軽やかに、その入口へと歩み寄っていく。その背中に、私は震える声で呼びかけた。
「み、美弥! 怖くないの……!?」
振り返った美弥は、けだるげな表情で私を見下ろす。
「なに、エリカ、まだビビってるの? まだ八時前よ。早く確認して、みんなでファミレスでも行こうよ。私、ご飯食べてないからお腹空いちゃったし」
その声は、いつもの美弥と同じはずなのに、どこか空虚で、響かない。焦るように私と智子を呼ぶ美弥。しかし、私は動けなかった。
「ねえ美弥、あんた、本当に美弥なの?」
私は、美弥のあとについて行こうとする智子の腕を掴み、その横顔をじっと睨みつけた。智子の瞳には、迷いと困惑が揺れている。
「またそれ、もう良い加減にしてよ……エリカ!」
美弥が一歩近づくたび、私は無意識に一歩足を引き、困惑している智子を私の元に引き寄せた。直感だった。微かな、しかし確かな違和感。それが警鐘のように私の内側で鳴り響いていた。
「だっておかしいじゃない! 私が知ってる美弥は怖がりなのよ!? ちょっと怖い話しした時だって、まだ何も話してないのに耳をふさいで『止めて、止めて』って叫ぶくらい怖がりなのに、そんな美弥が、あんな場所に平気な顔で行ける筈ない。そんな顔はしない……」
声が震える。喉の奥から絞り出すように美弥を問い詰めた。私の言葉に、智子の目にも不信の色が宿り、美弥から距離を取る。
その瞬間、美弥の口元に薄く、細い笑みが浮かんだ。それは、嘲笑とも、愉悦とも取れる不気味な笑みだった。
そして、美弥はガクンと、膝から崩れ落ちる。
その刹那、倒れた美弥の背中から、黒い影の塊が脱皮をするかのように姿を現した。
昨日見た、あの『アイツ』だ。
黒い影は背中から現れると、ドロリとした粘性を帯びながら徐々に膨張し、人の形を象り始める。漆黒の腕が現れ、歪な身体が出来上がり、そして、顔が形成されていく。
ゾッと背筋が凍るような赤い瞳が見開かれ、私たちをねめつける。その視線に射抜かれ、私たちはまるで蛇に睨まれた蛙のように、一歩も動くことができなかった。
やがてその『影』が立ち上がると同時に、美弥の体がふわりと宙に浮かんだ。
手足は力なく垂れ下がり、首はがくりと傾いだまま、目に生気はなかった。
まるで魂だけが抜け落ちたような、抜け殻……いや、人形のようだ。
ふいに、美弥の顔がくるりとこちらに向き直り、口がパクパクと不自然に動き出す。その横に立つ、巨大な黒い影から、掠れた、だが確かに美弥の声が響いた。
「エリカハヤクイコウヨ、エリカハヤクイコウヨ、エリカハヤクイコウヨ、エリカハヤクイコウヨ……」
それは、まるで腹話術の人形のように、美弥の体を操り、私たちを闇の奥へと誘っていた。




