七話目 美弥
「えっ!」
私は驚きのあまり、一瞬息が止まった。信じられない、そんなはずはない。
「そんな訳ないじゃん!」
思わず声を荒げて智子の話を否定した。驚愕と混乱から、つい口から漏れてしまった本音だった。
和也たちが、あの井戸に引きずり込まれ、中から咀嚼するような嫌な音を聞いた。間違いなくあの化け物に食べられたのであろう。美弥も途中から声が聞こえなくなった事から、おそらくあの怪物に襲われたのだろう。
私が彼らの安否を確認したかったのは、きっと自己逃避からだった。もし私が肝試しを提案していなければ、こんなことにはならなかった。きっと今日も、学校やいつもの公園で馬鹿な話をしながら、一日が過ぎていたはずなのに。
私は私自身の良心に、「精一杯手を尽くした」そう言いたかったに違いない。だから許して、頑張ったんだから許して、と自分を納得させたかったのだ。
ところが智子は、美弥が今日学校に来ていたと言った。私の頭は完全に混乱し、訳が分からなくなった。
そんな私に、スマートフォンから聞こえる智子の声は、さらに追い打ちをかけるように私の混乱を深めた。
「そんなわけないって。なに言ってるの、エリカ。だって美弥、あんたの前の席じゃん? 見間違えるはずないでしょ? 今日、ほんとどうかしてるよ?」
智子の声が、静かに、しかし鋭く私の思考をかき乱す。まるで渦の中に放り込まれたような気分だった。やっぱり……あれは、ただの悪戯だったのだろうか? そう思いかけて、すぐに頭を振った。
違う。違うに決まってる。
あの黒い影……まるで異形の化け物に喰われそうになったあの瞬間は、夢や幻なんかじゃない。現実だった。
桃花が現れて、私を助けてくれたことも。あのときの恐怖、そして救われたときの安堵感を、私はたしかに感じていた。
それに……今はもう消えてしまったけど、さっきまで私の手のひらには、桃花が書いてくれた電話番号が確かにあった。書き写しておいたメモも、ちゃんとノートに書き写してある。
……なのに。
目の前に突きつけられる『いつも通り』の美弥という存在が、私の世界をじわじわと塗り替えていく。混乱の渦の中、私は半ば祈るように口を開いた。
「ねぇ……今日の美弥、どんな感じだった?」
質問の意味を測りかねているのか、智子の声には、わずかな疑念がにじんでいた。
「どうって……うーん、普通だったよ? ちょっと元気なかったから声かけたらさ、『昨日、エリカたちと夜中まで遊んでて寝不足〜』って。そんな感じ。あんた、覚えてないの?」
美弥は智子と会話まで交わしていたという。……それが事実なら、もう確かめるしかない。
私は、一つの決意を胸に固めた。
「ねぇ、智子……。ちょっとお願いがあるの」
そう告げた私は、駅前にある小さな公園で、彼女と待ち合わせをすることにした。
公園のベンチに腰を下ろした私は、昨日の記憶がまるで熱病のように頭を巡り、どうにも落ち着かなかった。本当は今夜、ここへは来たくなかったのだ。
一日中、静かに身を潜め、心身を休めてから、明日の朝にでも桃花が口にしていた「仙道」という人物に連絡を取るつもりでいたのに。だが、智子から美弥の事を聞いてしまっては、居ても立ってもいられなかった。この目で、この耳で、確かめずにはいられなかったのだ。
あの後、一体何があったのか。なぜ、美弥だけが無事だったのか。聞きたいことは山ほどあった。
智子との電話を切ってすぐに美弥に連絡するべきだったのかもしれない。
だが、私にはそれができなかった。怖かったのだ。皆を置いて逃げ出した臆病な自分を責められるのではないかという恐れ。そして、智子が会ったという美弥が、本当に「あの美弥」なのかという拭い難い疑念。その両方が、私の心を支配していた。
私は、美弥を、信じられずにいた。
手のひらをきつく握りしめる。冷たい汗が滲む指先を、さらに強く。心の中で何度も繰り返す。
「大丈夫、大丈夫だ……」
ここは、昨日のあの悪夢のような公園とは違う。街灯が煌々と照らし、人通りも途切れない。もしものことがあっても、すぐ近くに交番だってある。こんな場所で、まさか奴らが襲いかかってくるはずがない。
そんな、根拠のない、そして儚い希望だけが、今の私の唯一の支えだった。
すると、「おーい、エリカ!」
聞き慣れた声が、不安で張り詰めていた私の耳に飛び込んできた。自転車を漕ぎながら、智子がこちらに向かって手を振っている。その姿を見つけた途端、私はホッと安堵のため息を漏らした。智子の、いつもと変わらぬ屈託のない笑顔が、ほんの少しだけ、私の心に張り詰めていた緊張の糸を緩めてくれた。
智子がベンチのそばに自転車を停めると、私は矢も盾もたまらず、すぐに美弥のことを尋ねた。
「美弥、何時に来るって?」
私の焦りを含んだ声に、智子は少し目を細めた。
「ああ!お風呂入ってから来るって言ってたから、あと10分、15分くらいじゃないかな?……ねぇ、二人とも喧嘩でもしたの?」
探るような智子の言葉に、私は慌てて首を横に振った。
本当は、美弥と二人で会うことに恐れをなした私が、智子に頼んで美弥に連絡を取ってもらったのだ。そして、折り返し連絡をくれた智子に、私は半ば懇願するような声で「智子、お願い、一緒について来て……!」と、無理やり彼女を巻き込んだのだった。
「まあ! 深くは聞かないけど、エリカが悪くなくても、ぱぱっと謝っちゃった方が早く仲直りできるよ。お互い意固地になると長引くからね。」
智子は、いつもの軽やかな口調で、私を励まそうとしていた。
けれど……違う。そうじゃないの。
私は心の中で声を荒げていた。何もわかってない。あれは喧嘩じゃない。
智子と取り留めのない会話を続けていると、ふいに彼女が顔を上げて言った。
「あっ、おっ! あれ、美弥じゃない?」
夜の街路灯に照された先に、自転車に乗った少女の姿が見える。
黒いズボンに、グレーのスウェット。
それは、よく美弥が着ている普段着だった。いつもと変わらない、美弥。
彼女は軽やかにペダルをこぎながら、こちらに近づいてくる。そして私たちに気づくと、にこやかに手を振った。
「おーい!」
どこから見ても、いつもの美弥。
昨日、あんなことがあったなんて、信じられないくらい。元気な姿だ。
自転車のスタンドを下ろすと、美弥は私に向かって、開口一番こう言った。
「エリカ、大丈夫だった?」
……え?
その瞬間、私の中で何かが引っかかった。
私は警戒を崩さずに、彼女をじっと見つめながら、声を絞り出した。
「あんたこそ……大丈夫なの? どうやって『アイツ』から逃げたのよ……」
「はぁ? 逃げた? 誰から……? 何言ってるの、エリカ。昨日から変だよ」
美弥は首を傾げ、不思議そうな顔で私を見返してくる。
その無邪気な表情に、私は一気に苛立ちを覚えた。
「何言ってるのはそっちでしょ! 昨日、井戸から出てきたあの化け物に追いかけられて──あんた、叫び声上げながら山の中に逃げていったじゃないの! 私、あんたのこと追いかけて見失って……どれだけ大変な目にあったと思ってるの!」
私は感情を抑えきれず、昨日の恐怖と怒りをそのままぶつけるように叫んだ。
けれど……
「……え?」
美弥は、ぽかんと口を開けたまま、何も言わずに私を見つめていた。
横にいた智子も、私と美弥のやり取りに困惑して、目を泳がせている。
まるで、昨日の出来事が『なかったこと』のように美弥の反応は自然だ。
この空間だけ、私一人、別の現実に取り残されているみたいだった。
そんな時だった。
「ちょっとエリカ、一旦落ち着いて。ねぇ!美弥。昨日エリカと何があったの?」
困惑の色が浮かぶ智子が私と美弥を仲裁するように割って入ってきた。
「う、うん……、昨日の事なんだけど……」
美弥が私の事をチラリと見ながら智子に昨日の事を語り出した。




