六話目 シャワー
私は、草木をかき分け、道なき道を歩き続けた。足元はぬかるみ、絡みつく蔓が皮膚を裂く。桃花が言った「道路に出られる」という言葉だけが、ぼろぼろになった私を突き動かす唯一の希望だった。
しかし、その言葉も、もはや耳の奥で、薄い反響音のように虚しく響いている。
朦朧とした視界の先に、それは突然現れた。
ひび割れたアスファルト。無機質な白線。桃花の言葉通り、道路が目の前に横たわっていた。あと少し。あとほんの少しだけ。私は残された最後の力を振り絞り、まるで悪夢からの脱出を願うように、現実への扉へと這い進んで行った。
アスファルトの冷たさが、這いつくばる私の頬に触れる。その瞬間、張り詰めていたすべての糸がぷつりと切れ、私の口から、嗚咽が漏れる。
「ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……」
緊張から解放された私は、波のように押し寄せる疲労と共に私の頬には涙が伝う。
「や、やっと……帰ってきた……」
あの地獄のような山中から抜け出せたことで私は心から安堵していた。
街路灯の明かりが、周囲の道をぼんやりと照らす。
その道は、確かに見覚えがある。私たちがあの公園へと向かうために、いつも使っていた道。だが、その見慣れた道は妙に静まり返り、風すらも囁かない。私の知る場所とはどこか違っているように感じらた。
私は震える体をおこし、よろよろと公園へと歩き出した。もしかしたら、あの公園に誰かが待っているかもしれない。
途中ではぐれた美弥が、私を待っているかもしれない。これはきっと、みんなが仕掛けたドッキリなんだ。私が戻ってきたら、笑いながら出迎えてくれるに違いない。
そんな、ありえないはずの期待が、私の心を蝕むように膨らんでいくのを止められなかった。
目の前の公園の灯りが、とぼとぼと歩く私の視界に飛び込んできた。
「お願い……」
一縷の望みを込めて公園へ向かうが、やはりそこには誰もいない。私を待っていたのは、ぽつんと置かれた数台の自転車だけだった。
和也の自転車。徹と伸治が乗ってきた自転車。美弥の自転車。そして、私の自転車……。
誰も取りには来ていない。私以外は。
もしかしたら美弥だけでも戻ってくるかもしれない――一瞬、そう思った。しかし、それよりも私はこの場を少しでも早く離れたかった。
また、あの『死害』が来るかもしれない。現実から少しでも目を逸らしたい。そんな切迫した気持ちが私の中に広がり、「ごめん、ごめん、ごめん」と謝罪の言葉を呟きながら、私は自分の自転車に跨った。
必死にペダルを漕いだ。まるで現実から逃れるように。公園の闇を背に、町の灯りだけを目指し、私は一心不乱に自転車を進めた。息が切れ、足が棒のようになっても、止まることだけは許されなかった。背後にある影から逃げたかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。ようやく町の明かりが近づき、その光の中に飛び込んだ時、体の力がふっと抜けるのを感じた。
町の灯り、横を通り過ぎる車のヘッドライト、そして東の空からゆっくりと顔を覗かせ始めた太陽の光。それらがこんなにも温かく、安心できるものだとは、これまで知らなかった。
数人の人とすれ違う。彼らの何気ない日常の営みが、心にじんわりと染み渡る。
何でもない日常が、これほどまでに尊いものだと、心から理解した瞬間だった。朝日を浴びながら、私は自分の家へとたどり着いた。鍵を開け、見慣れた玄関に立つ。「もう大丈夫。」
力が抜ける。
私は階段を一歩、一歩と登る。意識が遠くなりそうだった。部屋のドアを上げて私は電気を点けた。暗闇はもう嫌だった。少しでも明かりを感じたかった。
私はそのまま倒れるようにベッドへ倒れ込んだ。
思考は止まりただ眠りたかった深く、深く、深く……。
薄日が差し込む中、私はまどろみから覚めた。窓の外は茜色に染まり始め、半日近く眠っていたことを悟る。全身を襲う倦怠感。改めて己の身体を検めると、手足には無数の擦り傷や切り傷が刻まれ、青痣も一つや二つではない。
そして、桃花が語っていた左の二の腕の小さな星形の傷を見つけた。「呪縛」と彼が言っていた、まるで擦り傷のようなその痕。偶然できたと言われればそう見えなくもない、ありふれた傷だ。だが、これが「死害」という怪物の証だと考えると、背筋に冷たいものが走る。
掌には、桃花が書き記してくれた「仙道」という人物の電話番号。すぐにでも電話をかけようかと思ったが、その前に確認したいことがあった。私は机の引き出しを開け、落書きだらけのノートを取り出して、その番号を書き写す。
何はともあれ、泥だらけのこの身体を洗いたかった。昨日の忌まわしい記憶ごと、全て洗い流すかのように。
着替えを手に浴室へ向かう。リビングを通り過ぎる途中、母の「あんた、学校にも行かないで……」という、ごちゃごちゃとうるさい声が聞こえてきたが、それを無視して浴室のドアを開けた。シャワーの蛇口を捻ると、温かいお湯が勢いよく流れ出す。
湯が傷口に染み、思わず息を呑んだ。まるで滝行のように頭からお湯を浴びる。足や手にこびりついた泥が、見る見るうちに洗い流されていく。
石鹸を手に取り、全身を一心不乱に洗い始めた。昨日の忌まわしい記憶が、身体に刻まれた傷が、そしてあの「呪縛」までもが洗い流せないかと、ひたすらに。
しかし、落ちるのは身体の汚れだけだった。記憶も傷も呪縛も、何一つ消え去ることのない現実に、私の目から涙が溢れ落ちた。
浴室を出て着替えを済ませると、私はすぐにクラスメイトの須崎智子に電話をかけた。彼女とは中学校からの同級生で、今は同じ高校のクラスメイトでもある。
特別な親交があったわけではない。ただ、同じ中学校出身という気安さから連絡先を交換し、たまに言葉を交わす程度の関係だ。彼女もまた、模範的な生徒とは言い難い。けれど、私ほどひどいわけではなく、学校にはきちんと通い、勉強もそれなりにこなしていた。
智子はいつも私に「学校くらいは顔出しなさいよ」と小言のように言ってきた。正直、耳障りだと思うこともあったが、そんな彼女を嫌いではなかった。数少ない、私のことを心配してくれるクラスメイトの一人だったからだ。
スマートフォンの画面を滑らせ、智子の名前を見つけてタップする。「プルルルル、プルルルル……」。数回の呼び出し音の後、馴染みのある智子の声が耳に届いた。
「もしもし!」
「もしもし、智子!」
私は焦る気持ちを抑えきれずに呼びかけた。
受話器の向こうから、智子のいつもの小言が聞こえてくる。
「どうしたのエリカ? あんた今日も学校来てなかったでしょ。顔くらい見せなさいってば!」
彼女の言葉を無視するように、私は本題を切り出した。
「あのさぁ……」
そう前置きして、和也たちが学校に来ているか尋ねた。
「和也? 誰だっけ?」
「ほら、私とよくつるんでる3組のヤツ。あと徹、伸治は1組の……」
三人の安否を確かめたくて、私は必死に説明を続ける。しかし、智子の答えは期待を裏切るように曖昧な答えだった。
「そんなの分からないよ。エリカといるときに少し話したことがあるけど、そもそも付き合いなし、興味も無いし。とりあえず今日見てないかなぁ……」
私の胸に不吉な予感がよぎる。
「じゃあ、美弥は?」
「美弥? 美弥は来てたよ。なによ、エリカ……どうしたの?」
「えっ!」
智子のその言葉に、私は驚きのあまり息が止まった。




