四話目 闇の眷属
「……君、大丈夫?」
その声は、妙に穏やかだった。
酷く静まり返った森の中に、まるでそこだけ時間が違うかのように柔らかく、優しく、差し込んできた。
視線を上げると、そこにいたのは一人の少年。
私と同じくらいの年頃だろうか。
漆黒の学生服に身を包み、片手には身の丈程の長い刀を携えていた。
少年は眼鏡の奥の瞳で私をじっと見つめ、心配そうに眉を寄せている。
その瞳の奥には、不思議な人間らしい温もりが宿っていた。
私は呆気に取られて、声も出せずにいた。
そんな私を見て、彼はふと顔をしかめると、焦ったように口を開いた。
「えっ、本当に大丈夫? だいぶ怪我してるみたいだけど……」
彼は私の体を上から下まで確認するように、落ち着かない様子で目を動かした。
その仕草は、緊張感というものが欠如しているようにも見えた。
まるで、さっきまであの地獄が広がっていた空間とはまるで無縁のような、のんびりとした空気を纏っている。
私はぞくりと背筋を冷たいものが這うのを感じた。
得体の知れぬ温かさが、逆に恐ろしかった。
「……誰? あんた誰よ……」
警戒心が口をついて出た。
この状況で、こんなにも平然としている人間が“普通”であるはずがない。
少年は口を開きかけた。だが……
「桃花様、お早く」
別の方向から聞こえた声は、場違いなほど柔らかで澄んでいた。
まるで日曜の昼下がり、どこかの縁側で誰かが名前を呼ぶような、そんな声。
「ああ、ちょっと待って、小夜」
少年は振り返りながら答えた。その声音もまた、緊迫感の欠片もない。
まるでここが血と闇に満ちた山中ではなく、平穏な公園であるかのような、無防備な言葉。
私は完全に混乱していた。
「僕は『桃花』。鬼切 桃花って言います。よろしく」
微笑みながら、彼は改めて名乗った。
その名はまるで――異界の扉を開ける呪文のように、不吉な余韻を残した。
「あの、長い髪の子は『犬神 小夜』。僕の付き添い……みたいなものかな」
そう言って笑った彼の手が、私の方へと差し伸べられる。
「それで……君、立てる?」
黒い影の断末魔の余韻がまだ残る空間で。
ひとりの少年が、まるで何事もなかったかのように、私に手を差し伸べていた。
その手はまるで、夜に咲く、一輪の白い花のようだった。そんな彼の手に私はソッと手を伸ばす。
「桃花様!」
その声は、湿った土の匂いを纏う、澱んだ空気を切り裂いた。目の前には、漆黒の影が咆哮と共に猛然と迫りくる。
一瞬、世界から色が失われ、時間の流れが粘りつくように遅くなった。だが、その悍ましい「何か」は、確実に私と桃花めがけて距離を詰めてくる。
「ごめん!」
桃花の声が耳朶を打ったかと思うと、次の瞬間には、私の手は力強く引かれ、地面に沈みかけていた身体は軽々と持ち上げられていた。意識するよりも早く、私は桃花の腕の中に抱えられていた。そして、彼は信じられないほど軽やかに跳躍したのだ。
奇妙な浮遊感。桃花は決して大柄ではない。むしろ、私の目から見ても細身で、隠れた身体も華奢に感じられる。そんな彼が、私をまるで羽毛のように抱きかかえ、あの咆哮する巨大な影の突進を、まるで遊び戯れるかのように躱していく。異様な光景に、思考が追いつかない。
あの化け物との距離が空くと、桃花は私を静かに下ろし、そして彼は一歩、私の前に踏み出した。彼の背中が、闇と対峙する壁となる。
視線を、桃花の向く先へと辿る。
そこにいたのは、自身の断ち切られた腕を、ぐちゃりと口に咥えた黒い影だった。その虚ろな眼窩が、ねっとりと、獲物を定めるように私達を捉え、じっと睨めつけてくる。憎悪に歪んだ、異形の瞳が、悔しさを滲ませながら視線を変え、次の瞬間には、まるで霧のようにスーッと消え失せた。
桃花は、フゥと息を吐き出し、そして刀の柄から手を離した。
(終わったの?)
まだ完全に状況を把握できていなかった私の瞳から、安堵の涙が止めどなく溢れ落ちる。全身の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。
その時、桃花のもとへ、新たな影が滑るように近づいてきた。「小夜」と桃花が呼んだ、漆黒の髪の女性だった。
セーラー服を纏い、まるで闇夜に咲く花のように整いすぎた顔立ち。引き締まった口元、そして獲物を捉える狐のような鋭い眼差し。凛としたその佇まいは、隣に立つ桃花よりも、大人びた雰囲気を漂わせている。
「桃花様、やつを追いますか?」
感情の読めない声が響く。彼女の言葉に、桃花は私へと優しい視線を向けた。
「ちょっと待って、怪我人もいるし、彼女の様子も見たいからね」
桃花の視線とは対照的に、私に向けられた小夜の視線は、底冷えするほど冷たく、そして見下すようだった。まるで、この世の穢れを見るかのような、ぞっとするほどの侮蔑が宿っている。
桃花は、まだ立てない私の元へと屈み込んだ。その顔には、先ほどの戦闘の痕跡など微塵も感じられない。
「君、名前は?」
その問いかけに、私の声は不っ器用に震えた。
「か、勝又……、勝又 江利香」
ぶっきらぼうに告げた名前に、桃花は小さく微笑んだ。
「エリカさんかぁ。可愛い名前だね。エリカさん、ちょっと待っててくれるかな。」
桃花が私から視線を外した時、彼の目は、近くにそびえ立つ大きな木に向けられていた。その木は、まるで深い闇から生まれたかのように、月明かりを拒む漆黒の塊としてそびえ立っていた。
桃花はゆっくりとその大木に歩み寄ると、人差し指を付きだし、その大木に指で何か文字を描き始めた。そして、その唇から漏れ出たのは、この世のものとは思えないほどの低い囁きだった。
「我がもとへ、集え! 猿の眷属よ。力強き者たちよ、我が命に従え!山を統べる者、狒々の王よ」
その声が響き渡ると同時に、「ガサッ、ガサガサッ、ガサガサガサガサ……」と、不気味な音が周囲の森から聞こえ始めた。
木々の枝が、葉が、まるで無数の生き物が蠢いているかのように揺れ、擦れ合う。目には見えない何かが、じりじりと私たちを取り囲んでくるのが分かった。
月明かりに照らされた闇の中に、何十、何百とも思える、冷たく光る二つの点が浮かび上がり、私たちをじっと見つめていた。それは、獲物を定める獣の目のようであり、あるいは、もっと恐ろしい何かの視線だった。
私はその異常な状況に耐えきれず、恐怖に視線が定まらないまま、きょろきょろと周囲を見回した。「ねぇ!桃花これ……」と声をかけようとした、まさにその時だった。
それは、すでにそこにいた。
人と同じほどの大きさの、赤黒い炎。その炎は回りを照らす訳ではなく、何かの形を作りながら闇の中でただ幻影のように浮き出ているようだった。
その炎は、私の声に反応したのか、炎とは対照的な青白く冷たい瞳で私を見つめた。その冷たい瞳に睨まれた私は思わず後ずさりした。
しかし、桃花はそんな私の動揺には一切気を留めないようだった。彼は、まるでそれが当然の存在であるかのように、その赤黒い炎に向かって静かに語りかけた。
「こんばんは、狒々王。」
その声は、静寂を裂くように冷たく響いた。
「……どうなされたのですか、我が主よ。」
言葉を返したのは、その炎ではなかった。
耳元、背後、頭上、足元……。四方八方から、不気味な囁き声が幾重にも重なり合い、まるで合唱でもしているかのように同じ言葉を繰り返していた。
まるで山そのものが返事をしているかのように。
「狒々王、あの『死害』を追えるか?」
「はっ……無論でございます。ですが、人里に紛れ込んだとなると……」
「かまわない。追えるところまででいい。」
闇の中、桃花と“狒々王”と呼ばれた存在との会話が続いていた。私はその光景をまるで悪夢でも見るかのように、ただ黙って見ていた。
肌を撫でる空気は冷たく、風もないのに枝葉がざわめき、耳の奥で低いうなり声が響く。息を呑んだ瞬間、私はようやくその“影”に目を向けた。
「……狒々王?ヒヒ……猿なの?」
思わず口にした私の声は、夜の闇に浮かぶ、獣の輪郭を確認出来た。人の背丈と変わらぬその赤黒い炎は、巨大な猿の形を形作っている。まるで地獄の炎を纏ったその猿から、禍々しい気配を放っていた。
「かしこまりました。それで、捕らえたあとはどうなさいますか?我等で喰らっても……」
その声は、深淵から響くかのようだった。私の背筋を冷たいものが這い上がる。
「あっ!いや。それは待ってくれ。ちょっと気になる事があるんだ。」
桃花はそう言って、優しい眼差しを私に向けた。
全くこの場の雰囲気にあっていない優しい目。
それが逆に恐ろしく感じた。
「分かりました。では!」
耳元で囁くような声が聞こえたと同時に、桃花の横にいた炎が、まるで夜の闇と同化するように、スーと溶けて消えた。
その炎。狒々王と言った赤黒い炎は、最後に私を一瞥した。その視線は、底なしの恐怖を植え付けるには十分だった。
それと呼応するかのように、私たちを取り囲んでいたおぞましい気配や、微かに聞こえていた不気味な物音が、まるで存在しなかったかのように掻き消えた。周囲は一瞬にして、何事も起きていないかのような、耐えがたいほどの静寂に包まれた。
呆然とする私に、桃花がゆっくりと近づいてくる。先ほど目の当たりにした光景が脳裏に焼き付いて離れない。近づいてくる彼の姿は、もはや人間には見えなかった。恐怖に突き動かされ、私は思わず後ずさった。
「あんた、何者なの?さっきから奇妙なことばかりして……人間なの?」
震える声で問い詰める私に、桃花の足が止まった。彼は、考えるように顎に手を置き、まるで初めて聞く言葉であるかのように「何者かぁ?」と呟いた。その表情は柔らかく普通の男の子にしか見えない。
そして、桃花は私に言った。
「鬼……、そうだね。鬼を斬る者だよ。」




