最終話 罪
佳奈の視線が、ふと一点で止まった。
小夜を見ようともしないまま、唇の端だけをゆっくり吊り上げ、不気味に微笑む。次の瞬間、佳奈は足元に転がっていた鉄製の機械を蹴り飛ばし、小夜へと投げつけた。
小夜は飛来した鉄塊を紙一重でかわす。
その隙を逃さず、佳奈は視線を止めた方向へと身を翻し、全力で駆け出した。
――鏡だ。
逃げ込むつもりだ。
そう思った瞬間だった。
「きゃぁぁぁぁ!」
佳奈の腕が、肘から先ごっそり消えていた。
切断面からは黒い煙が立ち上り、佳奈は床をのたうちながら悲鳴を上げる。
何が起きた――?
小夜は何もしていない。攻撃を避けるので手いっぱいだったはずだ。
佳奈が鏡へ腕を伸ばそうとした――ただそれだけに見えたのに、その腕は跡形もなく消し飛んでいた。
「『念糸』だよ」
桃花が俺の隣で、淡々と告げた。
「小夜の武器。分かりやすく言えば糸。鋼より硬く、鉄すら切り裂く、目に見えない糸さ。小夜は今、床一面にその“糸の結界”を張っているんだ。」
「……糸の、結界?」
「そう。佳奈さんが鏡に逃げようとすれば、ああやって絡まって切り裂かれる仕組みなんだ。」
「でも……俺の前に現れた時は、そんな結界なかっただろ。」
桃花は軽く肩をすくめた。
「入り口付近には結界を張ってない。コウジさんが挑発した時、必ず“逃げ道を塞ぐ位置”から姿を現すと思ってね。小夜には、あえて奥に結界を張るよう頼んでおいたんだ」
淡々と語るその顔は、戦いの最中とは思えないほど冷静だった。
「もう奴に逃げ道はない。蜘蛛の糸に引っかかった蝶みたいに――小夜に喰われるだけだ。」
理解が追いつかない。
俺は床を見下ろしたが、糸などどこにも見えない。
だが桃花の言う通りなら、戦いはもう終わりに向かっている。
「思ったより早いですわね。」
小夜が静かに佳奈を見下ろす。
「もう腕が生え始めていますわ。その回復力、邪魔ですこと。少し大人しくなるまで――削って差し上げます。」
「ヒュンッ」
風を裂く音と同時に、佳奈の足が飛んだ。
目にも止まらぬ速さで手を動かしただけ――小夜は触れてもいない。
それなのに、佳奈の身体は次々と切り刻まれていく。
「ぎゃああああ!」
さらに風切り音。指が、肩が、腿が……次々と吹き飛ぶ。
小夜はただ舞うように手を動かしているだけなのに、佳奈は肉片のように削られていく。
あまりにも凄惨で、俺は息を呑んだ。
だが――勝敗は、もう決している。
小夜は薄ら笑いを浮かべ、佳奈は絶叫しながら崩れていく。
ようやく終わる。
あの女から解放される。
俺は内心ガッツポーズを取り見守っていた。
そう思った瞬間、隣で桃花がぽつりと呟いた。
「ねぇ、コウジさん……佳奈さんって、本当にストーカーだったの?」
唐突な問い。
「コウジさんがみんなにそう言っていただけじゃなくて?」
ドクリ――心臓が、耳の奥で跳ねた。
「な、何だよ急に……」
桃花は俺の狼狽を楽しむように、小さく笑った。
「いやね……ずっと引っかかってたんだ。“春香さん”のことが。」
「……春香?」
桃花が口に出した瞬間、自分は意味が分からなかった。。
声がかすかに震えていた。
桃花は、俺を横目で見つめる。
その目だけが笑っていなかった。
「分からないかなあ。前にも話したように死害って、怨みの塊……怨念の塊なんだ。もし僕が佳奈さんの立場ならさぁ――
一番憎いのは“コウジさんを奪った女”だと思わない?」
チクリ、と胸の奥に針を刺されたような痛みが走る。
桃花はその反応を見逃さなかった。
「だってさ。春香さんを殺すなら、もっとやりようがあったでしょ?
目の前で引き裂くとか……それこそ目の前で喰らうとか……ねぇ?」
言葉が一つひとつ重石のように落ちてくる。
俺は無意識に後ずさった。
「ち、違う……佳奈は春香を、外に――」
「“二階から外へ放るだけ”?」
桃花の声が急に静かになった。
「殺す気なら、そんな甘いことしない。
それに……当時火事で救急車も来てたんでしょ?
あそこに放り投げたら、普通は助かるよね?」
ゆっくり、ゆっくりと桃花は俺に顔を近づけてくる。
逃げ道を確認する獣のような目で。
「確かに当たりどころが悪ければ死ぬ可能性もあったかも知れない、けど、どうして佳奈さんは、決定的な一撃を避けたんだろうね。
ねぇ……コウジさん。
“あえて春香さんを見逃す理由”が、何かあったんじゃないの?」
心臓がどくどくと脈打つ。
呼吸が浅くなる。
桃花は、まるで俺の胸の内が透けて見えるかのように、首を傾げて言った。
「本当はさ。……コウジさんの方に、何か“隠してること”があるんじゃない?」
その囁きは、佳奈の悲鳴よりもずっと恐ろしかった。
「ね、ねえよ。そんなもの……」
こいつは――どこまで知っている。
まさか、あのことまで……。
「本当かな。お金のこと、まだ気になるんだよね。バイク代だけ? 本当に?
もしかして、もっと借りてたんじゃない? だから佳奈さんはコウジさんに返済を迫ってた……そう考えられない?」
瞬間、胸の奥が冷たくなる。
すべて――見透かされている。
心臓が早鐘を打ち、喉がひきつった。悟られまいと、無理に声を荒げる。
「ふざけんな……全部憶測だろ。お前、俺の味方じゃねぇのかよ。」
「味方?」
桃花の瞳が、赤い光を宿してこちらを射抜いた。
その光を見た瞬間、足元からぞわりと寒気が這い上がる。
「何、勘違いしてるんだ。
俺はね、人間を“死害”から守るために作られたモノ。
味方なんて、一度も言ってない。それが悪人であろうと……ただ守るだけさ」
淡々と告げる声が、妙に遠く聞こえた。
「まあいいや。全部憶測に過ぎないしね。――ほら、そろそろ向こうも決着つきそうだよ」
桃花が指を向ける。
その先を見た瞬間、呼吸が止まった。
佳奈は、小夜に刻まれ、もう立てない。
諦めたように膝をつき、失われた腕も脚も再生していない。
まるで、生命そのものを絞り取られた抜け殻だった。
「もう終わりですわ。何か言い残すことは?」
小夜が、最期の慈悲めいた声で佳奈の耳元に囁く。
そのとき――佳奈がゆっくりと振り返った。
目が合った。
微笑んだ。
――おぞましいほどに、嬉しそうに。
全身が強ばり、指先が痙攣する。声が漏れた。
「……佳奈」
その一言で、佳奈は興味を失ったように俺から視線を滑らせた。
何も言わない。
もう、何も。
「それでは――さようなら。佳奈さん」
小夜が手のひらをかざし、静かに言葉を落とした。
「……顎門」
稲光を帯びた黒い球体が小夜の掌に生まれる。
空気が軋む。
「喰らい尽くせ」
命じた瞬間、闇が裂けた。
白い“口”が現れ、よだれを撒き散らしながら大きく開く。
それは犬の口に似ているが、犬ではない。
歯列は三重にも並び、ひとつひとつの牙は針金を折る太さで、
喉奥にはさらに別の“口”が蠕動していた。
佳奈は逃げない。
逃げるという概念が、もうない。
白い口が佳奈の頭を丸呑みにする。
パキパキと骨が折れる音、肉が裂かれる湿った響き、
床に撒き散らされた肉塊が黒い霧のように霧散していく――。
抵抗も、声も、何もない。
ただ喰われていく。
腕も、脚も、胴も、頭も。
ゆっくり、丁寧に、“残さず”。
最後の肉片が喉奥に引きずり込まれ、
佳奈という存在は、完全に消えた。
「小夜、ご苦労様。」
桃花は戦いを終えた小夜のもとへ、俺を置き去りにして歩いていった。
二人はどこか楽しげに、安堵を滲ませながら言葉を交わしている。
だが、俺の耳にはもう何ひとつ届かなかった。
――俺は、あの輪の中にいる存在ではない。
廃工場はひどく静かだった。
建物が軋む音も、桃花たちの声も確かに聞こえている。それなのに、奇妙なほど世界が静止しているように感じた。
すべては終わった。
……それなのに、俺の胸の奥には空虚だけが残っていた。
その後、俺は口を閉ざしたまま桃花たちと外へ出た。
外の戦いもすでに終わっていた。
夕暮れの光の中で、赤黒い影――狒々王がひとつだけ、俺たちを迎えていた。
「狒々王、お疲れ様。残りの奴は……」
「はい、桃花様。すべて始末いたしました。」
淡々と告げるその声に、どこか儀式めいた冷たさがあった。
そして、別れの時が来る。
「じゃあコウジさん、またね。」
いつもの軽い口調だった。
まるで“明日も普通に会う”と言っているような自然さで。
だが俺には、その軽さが胸に痛かった。
「ああ……」
短く返した言葉に、礼はなかった。
言うべきだとは思った。
だが、桃花は“俺を助けた”のではない。
“死害から人間を守る使命”のために動いただけだ。
そこに友愛や善意は関係がない。
俺が善人であろうと悪人であろうと、きっと同じように扱われただろう。
桃花たちの背中が夜闇に溶けていき、俺はひとり残された。
静かな夜道を歩く。
街の灯りを頼りに、ただ無心に足を前へ出す。
マンションに辿り着いた頃には、空が白み始めていた。
周囲は何事もなかったように、いつもの朝を迎えようとしている。
その中で、俺の部屋だけが異様に見えた。
春香が投げ出された時に割れた窓ガラス――
そこだけが、この世界に“昨夜”がまだ残っていることを示していた。
俺は黙々とガラスを拾い集めた。
生活のために、ただ必要だから。
ふと、乾いた笑いが漏れた。
惨劇の後の掃除というだけで、こんなにも現実に引き戻されるのかと。
――それから数日。
俺は大学生としての生活に戻った。
友人たちは相変わらずで、俺に声をかけ、冗談を言い、飲みに誘った。
日常は変わらない。
けれど。
俺の隣には、春香はいなかった。
彼女は足の怪我と、心の傷を癒やすため、休学して実家へ帰ると言った。
「浩二、また会おうね。ちゃんと連絡するから」
春香はあの日のことを消し去るように、柔らかい笑顔を残して去っていった。
――そして今、俺は机の前で、遺言書を書いている。
すべてが終わったはずなのに、俺の足には“あの星形の傷”だけが今も消えずに残っている。
それが何よりの証拠だった。
俺は佳奈の呪いを受けている。
いつ死ぬのかは分からない。
数年後か、十年後か。
あるいは佳奈と同じように“死害”となり、桃花たちに処理されるのかもしれない。
――だから俺は書く。
この遺書に、すべてを残す。
俺が遭遇した出来事、俺の身に起こった異変、そして……俺の罪も。
誰が読むのかは分からない。
読まれずに終わるかもしれない。
それでも、これだけは確かだ。
あの夜が、すべての終わりだった。
そして、ここから先は俺の物語ではない。
静かに、ペンを置いた。
――了。




