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闇に咲く桃花  作者: しんいち
第二章

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最終話 罪

 佳奈の視線が、ふと一点で止まった。


 小夜を見ようともしないまま、唇の端だけをゆっくり吊り上げ、不気味に微笑む。次の瞬間、佳奈は足元に転がっていた鉄製の機械を蹴り飛ばし、小夜へと投げつけた。


 小夜は飛来した鉄塊を紙一重でかわす。

 その隙を逃さず、佳奈は視線を止めた方向へと身を翻し、全力で駆け出した。


 ――鏡だ。

 逃げ込むつもりだ。


 そう思った瞬間だった。


 「きゃぁぁぁぁ!」


 佳奈の腕が、肘から先ごっそり消えていた。

 切断面からは黒い煙が立ち上り、佳奈は床をのたうちながら悲鳴を上げる。


 何が起きた――?


 小夜は何もしていない。攻撃を避けるので手いっぱいだったはずだ。

 佳奈が鏡へ腕を伸ばそうとした――ただそれだけに見えたのに、その腕は跡形もなく消し飛んでいた。


 「『念糸』だよ」


 桃花が俺の隣で、淡々と告げた。


 「小夜の武器。分かりやすく言えば糸。鋼より硬く、鉄すら切り裂く、目に見えない糸さ。小夜は今、床一面にその“糸の結界”を張っているんだ。」


 「……糸の、結界?」


 「そう。佳奈さんが鏡に逃げようとすれば、ああやって絡まって切り裂かれる仕組みなんだ。」


 「でも……俺の前に現れた時は、そんな結界なかっただろ。」


 桃花は軽く肩をすくめた。


 「入り口付近には結界を張ってない。コウジさんが挑発した時、必ず“逃げ道を塞ぐ位置”から姿を現すと思ってね。小夜には、あえて奥に結界を張るよう頼んでおいたんだ」


 淡々と語るその顔は、戦いの最中とは思えないほど冷静だった。


 「もう奴に逃げ道はない。蜘蛛の糸に引っかかった蝶みたいに――小夜に喰われるだけだ。」


 理解が追いつかない。

 俺は床を見下ろしたが、糸などどこにも見えない。

 だが桃花の言う通りなら、戦いはもう終わりに向かっている。


 「思ったより早いですわね。」

 小夜が静かに佳奈を見下ろす。

 「もう腕が生え始めていますわ。その回復力、邪魔ですこと。少し大人しくなるまで――削って差し上げます。」


 「ヒュンッ」


 風を裂く音と同時に、佳奈の足が飛んだ。


 目にも止まらぬ速さで手を動かしただけ――小夜は触れてもいない。

 それなのに、佳奈の身体は次々と切り刻まれていく。


 「ぎゃああああ!」


 さらに風切り音。指が、肩が、腿が……次々と吹き飛ぶ。

 小夜はただ舞うように手を動かしているだけなのに、佳奈は肉片のように削られていく。


 あまりにも凄惨で、俺は息を呑んだ。

 だが――勝敗は、もう決している。


 小夜は薄ら笑いを浮かべ、佳奈は絶叫しながら崩れていく。

 

ようやく終わる。

あの女から解放される。

俺は内心ガッツポーズを取り見守っていた。



 そう思った瞬間、隣で桃花がぽつりと呟いた。


 「ねぇ、コウジさん……佳奈さんって、本当にストーカーだったの?」


 唐突な問い。


「コウジさんがみんなにそう言っていただけじゃなくて?」

 

ドクリ――心臓が、耳の奥で跳ねた。


 「な、何だよ急に……」


 桃花は俺の狼狽を楽しむように、小さく笑った。


 「いやね……ずっと引っかかってたんだ。“春香さん”のことが。」


 「……春香?」


 桃花が口に出した瞬間、自分は意味が分からなかった。。

 声がかすかに震えていた。


 桃花は、俺を横目で見つめる。

 その目だけが笑っていなかった。


 「分からないかなあ。前にも話したように死害って、怨みの塊……怨念の塊なんだ。もし僕が佳奈さんの立場ならさぁ――

 一番憎いのは“コウジさんを奪った女”だと思わない?」


 チクリ、と胸の奥に針を刺されたような痛みが走る。

 桃花はその反応を見逃さなかった。


 「だってさ。春香さんを殺すなら、もっとやりようがあったでしょ?

 目の前で引き裂くとか……それこそ目の前で喰らうとか……ねぇ?」


 言葉が一つひとつ重石のように落ちてくる。

 俺は無意識に後ずさった。


 「ち、違う……佳奈は春香を、外に――」


 「“二階から外へ放るだけ”?」


 桃花の声が急に静かになった。


 「殺す気なら、そんな甘いことしない。

 それに……当時火事で救急車も来てたんでしょ?

 あそこに放り投げたら、普通は助かるよね?」


 ゆっくり、ゆっくりと桃花は俺に顔を近づけてくる。

 逃げ道を確認する獣のような目で。


 「確かに当たりどころが悪ければ死ぬ可能性もあったかも知れない、けど、どうして佳奈さんは、決定的な一撃を避けたんだろうね。

 ねぇ……コウジさん。

 “あえて春香さんを見逃す理由”が、何かあったんじゃないの?」


 心臓がどくどくと脈打つ。

 呼吸が浅くなる。


 桃花は、まるで俺の胸の内が透けて見えるかのように、首を傾げて言った。


 「本当はさ。……コウジさんの方に、何か“隠してること”があるんじゃない?」


 その囁きは、佳奈の悲鳴よりもずっと恐ろしかった。


「ね、ねえよ。そんなもの……」


 こいつは――どこまで知っている。

 まさか、あのことまで……。


「本当かな。お金のこと、まだ気になるんだよね。バイク代だけ? 本当に?

 もしかして、もっと借りてたんじゃない? だから佳奈さんはコウジさんに返済を迫ってた……そう考えられない?」


 瞬間、胸の奥が冷たくなる。

 すべて――見透かされている。


 心臓が早鐘を打ち、喉がひきつった。悟られまいと、無理に声を荒げる。


「ふざけんな……全部憶測だろ。お前、俺の味方じゃねぇのかよ。」


「味方?」


 桃花の瞳が、赤い光を宿してこちらを射抜いた。

 その光を見た瞬間、足元からぞわりと寒気が這い上がる。


「何、勘違いしてるんだ。

俺はね、人間を“死害”から守るために作られたモノ。

 味方なんて、一度も言ってない。それが悪人であろうと……ただ守るだけさ」


 淡々と告げる声が、妙に遠く聞こえた。


「まあいいや。全部憶測に過ぎないしね。――ほら、そろそろ向こうも決着つきそうだよ」


 桃花が指を向ける。

 その先を見た瞬間、呼吸が止まった。


 佳奈は、小夜に刻まれ、もう立てない。

 諦めたように膝をつき、失われた腕も脚も再生していない。

 まるで、生命そのものを絞り取られた抜け殻だった。


「もう終わりですわ。何か言い残すことは?」


 小夜が、最期の慈悲めいた声で佳奈の耳元に囁く。


 そのとき――佳奈がゆっくりと振り返った。

 目が合った。


 微笑んだ。

 ――おぞましいほどに、嬉しそうに。


 全身が強ばり、指先が痙攣する。声が漏れた。


「……佳奈」


 その一言で、佳奈は興味を失ったように俺から視線を滑らせた。

 何も言わない。

 もう、何も。


「それでは――さようなら。佳奈さん」


 小夜が手のひらをかざし、静かに言葉を落とした。


「……顎門(あぎと)


 稲光を帯びた黒い球体が小夜の掌に生まれる。

 空気が軋む。


「喰らい尽くせ」


 命じた瞬間、闇が裂けた。

 白い“口”が現れ、よだれを撒き散らしながら大きく開く。


 それは犬の口に似ているが、犬ではない。

 歯列は三重にも並び、ひとつひとつの牙は針金を折る太さで、

 喉奥にはさらに別の“口”が蠕動していた。


 佳奈は逃げない。

 逃げるという概念が、もうない。


 白い口が佳奈の頭を丸呑みにする。

 パキパキと骨が折れる音、肉が裂かれる湿った響き、

 床に撒き散らされた肉塊が黒い霧のように霧散していく――。


 抵抗も、声も、何もない。

 ただ喰われていく。


 腕も、脚も、胴も、頭も。

 ゆっくり、丁寧に、“残さず”。


 最後の肉片が喉奥に引きずり込まれ、

 佳奈という存在は、完全に消えた。


「小夜、ご苦労様。」


 桃花は戦いを終えた小夜のもとへ、俺を置き去りにして歩いていった。

 二人はどこか楽しげに、安堵を滲ませながら言葉を交わしている。

 だが、俺の耳にはもう何ひとつ届かなかった。

 ――俺は、あの輪の中にいる存在ではない。


 廃工場はひどく静かだった。

 建物が軋む音も、桃花たちの声も確かに聞こえている。それなのに、奇妙なほど世界が静止しているように感じた。

 すべては終わった。

 ……それなのに、俺の胸の奥には空虚だけが残っていた。


 その後、俺は口を閉ざしたまま桃花たちと外へ出た。

 外の戦いもすでに終わっていた。

 夕暮れの光の中で、赤黒い影――狒々王がひとつだけ、俺たちを迎えていた。


「狒々王、お疲れ様。残りの奴は……」


「はい、桃花様。すべて始末いたしました。」


 淡々と告げるその声に、どこか儀式めいた冷たさがあった。


 そして、別れの時が来る。


「じゃあコウジさん、またね。」


 いつもの軽い口調だった。

 まるで“明日も普通に会う”と言っているような自然さで。

 だが俺には、その軽さが胸に痛かった。


「ああ……」


 短く返した言葉に、礼はなかった。

 言うべきだとは思った。

 だが、桃花は“俺を助けた”のではない。

 “死害から人間を守る使命”のために動いただけだ。

 そこに友愛や善意は関係がない。

 俺が善人であろうと悪人であろうと、きっと同じように扱われただろう。


 桃花たちの背中が夜闇に溶けていき、俺はひとり残された。

 静かな夜道を歩く。

 街の灯りを頼りに、ただ無心に足を前へ出す。


 マンションに辿り着いた頃には、空が白み始めていた。

 周囲は何事もなかったように、いつもの朝を迎えようとしている。


 その中で、俺の部屋だけが異様に見えた。

 春香が投げ出された時に割れた窓ガラス――

 そこだけが、この世界に“昨夜”がまだ残っていることを示していた。


 俺は黙々とガラスを拾い集めた。

 生活のために、ただ必要だから。

 ふと、乾いた笑いが漏れた。

 惨劇の後の掃除というだけで、こんなにも現実に引き戻されるのかと。


 ――それから数日。


 俺は大学生としての生活に戻った。

 友人たちは相変わらずで、俺に声をかけ、冗談を言い、飲みに誘った。

 日常は変わらない。

 けれど。


 俺の隣には、春香はいなかった。


 彼女は足の怪我と、心の傷を癒やすため、休学して実家へ帰ると言った。


「浩二、また会おうね。ちゃんと連絡するから」


 春香はあの日のことを消し去るように、柔らかい笑顔を残して去っていった。


 ――そして今、俺は机の前で、遺言書を書いている。


 すべてが終わったはずなのに、俺の足には“あの星形の傷”だけが今も消えずに残っている。

 それが何よりの証拠だった。


 俺は佳奈の呪いを受けている。


 いつ死ぬのかは分からない。

 数年後か、十年後か。

 あるいは佳奈と同じように“死害”となり、桃花たちに処理されるのかもしれない。


 ――だから俺は書く。

 この遺書に、すべてを残す。

 俺が遭遇した出来事、俺の身に起こった異変、そして……俺の罪も。


 誰が読むのかは分からない。

 読まれずに終わるかもしれない。


 それでも、これだけは確かだ。


 あの夜が、すべての終わりだった。

 そして、ここから先は俺の物語ではない。


 静かに、ペンを置いた。


 ――了。




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