十三話 廃工場
鳥の鳴き声で、俺は静かに目を覚ました。
山の朝は、いつだって身に染みるほど冷たい。
「ふぅ……お、おぉぉ……さむ……」
身を縮め、両腕をこすり合わせながら山小屋を出る。
山の空気は透き通り、木々の隙間から差し込む朝日がいくつもの光の帯となって森を彩っていた。
薄い霧が漂い、キャンプ場一帯が神話の中に迷い込んだかのような幻想に包まれている。
――桃花の姿が見えない。
いつもの焚き火のあたりだろうか。
両腕をさすりながら歩を進めた。
「……ビュン……ビュン……ビュン」
霧と静寂の中で、鋭い風切り音が響いた。
それは空気そのものが裂けるような、研ぎ澄まされた音。
「桃花……?」
音の方へ足を進めると――
そこにいた。
桃花が、刀を振っていた。
長い日本刀。
人の身の丈ほどもある刀身が、彼の動きに合わせてしなやかに走り、霧を舞い散らせている。
彼はいつもの飄々とした表情ではない。
眼差しは鋭く、息は乱れず、ひと振りひと振りに迷いがない。
空を切る音が連続して重なり、霧の中に白い軌跡を描き続ける。
――あれが、桃花。
その姿に、俺は息を飲んだ。
大きな刀をまるで自分の四肢の延長のように扱い、流れるように踏み込み、跳び、回転し、また斬る。
舞のように軽やかで、それでいて斬撃の一つひとつに凄まじい殺気が込められている。
薄霧を裂く音だけが、朝の静寂に響き続ける。
やがて桃花は動きを止め、すっと刀を返し、足元の鞘を拾って納めた。
その動作さえ、一片の無駄もない。
そして俺に振り向き――
ふっと自然な笑みを浮かべる。
「おはよう、コウジさん」
「お、おう……おはよう」
さっきまでの鬼気迫る姿とのギャップに、思わず声が裏返った。
「稽古か?」
「うん、そんなとこ。昨日、小夜がこれ届けてくれてね。軽く振ってただけだよ。準備運動、準備運動」
準備運動にしては迫力がありすぎる。
さっきまでの斬撃の余韻がまだ空気に残っている気さえした。
「コウジさん、工場まではちょっと歩くから。準備できたらすぐ出よう? 明るいうちに下見もしておきたいし」
桃花の声に、俺は静かにうなずいた。
そして――ふと周囲を見る。
ここで過ごした、短いけれど濃い日々。
朝の冷気、焚き火の匂い、桃花や小夜、そしてあの奇妙な山の空気。
今日で、ひとまずお別れだ。
春香の怪我が治ったら……また、ここに来たい。
そんな願いが胸をよぎる。
「……ふぅ」
俺は小さく息を吐き、名残を惜しむようにもう一度、霧に煙る森を見渡した。
俺は荷物を肩にかけ、桃花と並んで山道を下り始めた。
山頂からキャンプ場までは道なき道を進み大変だった。
しかし今は、舗装こそされていないが、人が歩き慣れた道が通っているため、思ったより足取りは軽かった。
しばらく進むと、ぱっと視界が開け、コンクリートの舗装路へと出た。
「これからどっちに向かうんだ?」
俺の問いに、桃花はリュックの紐を肩で持ち上げながら答えた。
「ええっとね、このまま下って……西の方向に十キロくらい? 小夜がそう言ってたよ」
なんとも頼りない道案内だ
しかも。十キロ……。
その数字だけで腰が重くなる。
「十キロかあ……」
思わずこぼれた弱音に、桃花は振り向いて笑った。
「大丈夫、大丈夫! 話しながら歩けばすぐだよ。途中に売店があるって聞いたし、パンとか飲み物買っていこ。ね?」
売店……コンビニじゃないのか。
まあ、この山奥じゃ望むほうが間違いだろう。
桃花は軽快に歩きはじめ、その後ろ姿を追うようにして俺も歩みを進めた。
田舎道は静かで、風の音と鳥の声しか聞こえない。
時折、古い民家の横を通るが、人の気配はほとんどない。
錆びついた自販機を見つけた時には、思わず二人して声を上げてしまった。買った缶飲料を片手に、桃花とのんびり田舎道を歩く。
一見すれば、まるで修学旅行の自由行動だ。
しかし――桃花が言っていた“怨鬼”とやらに囲まれている現実を思い出し、急に胸がざわつく。
「なあ、桃花。大丈夫なのか? こうやって堂々と歩いてて……怨鬼だっけ。急に草むらから出てくるとかないよな?」
俺の緊張とは対照的に、桃花は欠伸をしながらあっけらかんと言った。
「うん、大丈夫。あいつら昼間は出てこれないから。まあ……気配はちょっと感じるけどね。今は監視してるってくらい」
「見られてんのか……」
反射的に周りを見回すが、草と木と標識しかない。
ただ意識してしまうと、森の奥からじっと視線を注がれている気がして、背中がぞくりとした。自然と桃花の近くへ寄って歩く。
しばらく、桃花と何気ない会話していた時、ふと、前から気になっていたことが頭に浮かび、つい口にした。
「なあ桃花。お前、小夜とは……その、付き合ってるのか?」
桃花の表情が一瞬にして曇った。いや、曇るどころではない。全力で嫌そうだ。
「あー……はい出た。絶対そう言われると思った! 違うよ、あんなの……無理無理。」
「え、でも小夜って美人だろ? キツそうだけどしっかりしてて、お前とお似合いだと思うけどなぁ?」
「ぜっっったい嫌だ! 頼りにはなるけどね!? 友達ならいいけど、彼女? 絶対無理。僕はもっとこう……明るくて優しくて……年上で包容力のある人がいいの!」
「へぇ~」
つまり桃花は“年上好き”か。
見た目は整ってるし、刺さる人には刺さるタイプだ。
その辺、本人は自覚してなさそうだが。
「コウジさん、誰か紹介してよ。」
「うーん……」
どんな人がいいか、二人で真剣に、しかしどこか馬鹿みたいな内容で盛り上がる。
道中にあった売店に寄ってパンと飲み物を買い、また歩き出した。
やがて前方に、巨大な影が見えてくる。
外観に錆が目立つ廃工場。
まだ日は高く、風が吹き抜けるたび、内部の金属がきしむ音がした。
「……着いたな。」
「うん。じゃ、下見行こっか」
桃花が軽く笑い、俺は静かにうなずいて、その背に続いた。
工場の正門は錆びて軋んでいたが、倒壊しているわけではなく、つい最近まで人が使っていたような生活感すら残っていた。
俺と桃花はゆっくりと門をくぐり、敷地内へ足を踏み入れた。
中は静かだった。不自然なほどに。
建物の外観こそ朽ちかけていたが、内部に足を踏み入れた瞬間、俺は違和感を覚えた。
――古いはずの機械が、まるで昨日まで動いていたみたいだ。
巨大な金属プレス機、ベルトコンベア、作業台。
すべて薄く埃をかぶってはいるものの、朽ちたというより「止まっただけ」のような佇まいを見せていた。
そして足元には、小夜がまき散らしたというガラス片や鏡の破片が無数に散らばっている。
薄暗い工場内で光を拾い、まるで星屑のように鈍く光っていた。
「……ずいぶん、派手にやったんだね?」
桃花がガラス片を足でどかしながら苦笑する。
「小夜はどこにいるんだ?」
「どうだろう、夕方には来るとか言ってたけどね。」
俺は広い工場内を見渡した。
妙に埃っぽいはずなのに、冷たい空気だけが澄んでいる。
機械とコンクリートの匂いが鼻にまとわりつき、胸の奥がきゅっと冷えるような感覚があった。
「……静かすぎないか?」
思わず呟くと、桃花も小さく頷く。
「うん。死害が近くに来てるかもね……。
あいつらが近くにいるときは、いつもこんな感じなんだよ。」
それ以上、俺たちは多くを口にしなかった。
ただ黙って工場の奥まで歩き、非常階段や機械の裏、作業員用の休憩スペースまで確認した。
どこにも異常はなかった。
――異常は、なかったはずなのに。
胸の奥では、何かひっかかるようなざわつきだけが消えずにいた。
工場から出る頃には、日が傾きはじめていた。
赤みがかった光が工場の壁を照らし、廃墟をまるで絵画のように染めていた。
俺たちは入口付近の駐車場で、小夜の帰りを待つことになった。
その時だった。
「……コウジさん、感じない?」
「なにをだよ?」
「嫌な気配。さっきまでなかったのに……急に増えてきてる。」
桃花の表情が、ふざける余地のないほど硬くなる。
俺もぞくりとした。
理由は説明できないが、皮膚の下を冷たい何かが這うような感覚が首筋を走った。
夕暮れの光が弱まり、林の影が濃くなる。
その暗がりの奥で、何かが蠢くような気配がした。
姿は見えない。
声も聞こえない。
それなのに――確かにそこに「いる」。
複数だ。
遠巻きに、じわり、じわりと近づいてきている。
「……小夜、遅いな?」
桃花が小さく呟く。
俺たちを取り囲むように、嫌な気配だけがぞろぞろと集まってきていた。
夕焼けはゆっくりと沈み、暗闇が工場跡地を飲み込もうとしている。
小夜はまだ戻らない。
――そして、奴らは姿を表した。




