十一話目 覚悟
どれくらい眠っていたのだろう。
目を開いた瞬間、こめかみに鈍い痛みが走り、思わず額を指で押さえた。頭の中はまだ霞がかかったようにぼんやりしている。
窓の外は暗かった。てっきり夜かと思ったが、よく見ると西の空だけがわずかに赤い。夕暮れか――いや、こんな山奥では夜との境も曖昧だ。
泥のように眠ったおかげで疲労は引いていたが、手足にはまだ昨日の戦いの名残が痛みとして残っていた。
ふぅ、と息を吐き、ぎこちない身体を起こす。小屋を出ると、山風の匂いに混じって焚き火の残り香が漂ってきた。
「……桃花?」
周囲に人の気配はない。胸の奥がざわつき、焦りが勝って思わず叫ぶ。
「桃花ーっ! おーい! どこだ!」
返事はない。だが、風下の方から煙の匂いが強くなった。朝方にいた場所だ。
足を向けると、木々の影の向こうに橙色の光が揺れている。焚き火だ。そして、その火に照らされるように長く伸びる影がひとつ――いや、ふたつ。
息が止まった。
桃花が立っている。その横に、もう一人……いや、人型の“黒い影”が寄り添うように並んでいた。
桃花の影ではない。
赤黒い炎のようなオーラを纏い、影の頭部に、赤い光がふたつ浮かび、ギロリとこちらを見た。
冷水を流し込まれたように背筋が震え、鳥肌が総立ちになった。
だが桃花は、怯える様子もなくその影と会話をしていた。
「狒々王。連絡ありがとう。それで周辺は?」
「はい。山の周囲は怨鬼どもが包囲しております。ただ現状、動きはありません。こちらの行動を監視している――そう見受けられます。」
「了解。じゃあ、動きがあればすぐ教えて。」
「御意。」
影は深く頭を下げると、輪郭が霧のように崩れ、闇へ染み込むように消えていった。
ひとり残った桃花がこちらへ視線を向け、柔らかく笑う。
「コウジさん、よく眠れた?」
まるでいつも通りの、どこにでもいる高校生の表情。
さっきのやり取りを見てしまった俺の方こそ、戸惑いで喉が詰まっていた。
「う、うん……」
震える声をごまかしながら近づく。そして、胸の奥に引っかかっていた疑問が溢れ出るように口からこぼれた。
「なあ、桃花……」
「ん?」
「……お前って、ほんとに人間なのか?」
ずっと聞くべきじゃないと思っていた質問だった。
だが、廃墟で見せた常軌を逸した身体能力、ドアを破壊した技、八咫烏や先ほどの黒い影と対等に話す姿――どう考えても説明がつかなかった。
桃花は、一切迷わずに答えた。
「違うよ。」
あまりにあっさりしていて、逆に心臓が跳ねた。
だが俺は、何事もなかったかのように視線をそらし、「そうか……」と小さく返すしかなかった。
――桃花が何者でも構わない。
事実、俺は助けられた。今生きていられるのは彼のおかげだ。
そしてこれから先も、彼の助けなしに生き残れるとは思えない。
正体が何であろうと、そんなことは些細な問題だった。
それほどまでに、俺は今――追いつめられているのだから。
俺は焚き火のそばへ無言で歩き、ゆっくりと腰をおろした。
桃花も何も言わず、隣に腰を下ろす。炎のはぜる乾いた音だけが静かな山に響いていた。
「さっきの黒い影、なんなんだ……?」
沈黙に耐えきれず問いかけると、桃花は膝を抱えたまま穏やかな声で答えた。
「ああ、彼が『狒々王』だよ。一般的には山の神様って呼ばれる、ありがたい存在なんだ。」
「神様、ね……」
思わず乾いた笑いが漏れかけたが、俺が言葉を飲み込むより先に桃花が続ける。
「小夜からの報告を伝えに来てくれた。春香さんのことなんだけど……足を骨折しただけで済んだみたい。全身強く打ってるからまだベッドからは動けない状態だけど、意識ははっきりしてるって。」
「本当か……? よかった……」
肩から力が抜け、息が深く漏れた。
無事ではなかった。それでも――生きていた。それだけで胸が熱くなるほど安堵した。
「よかったね。」
「ああ……本当に。」
桃花の微笑みに、俺も自然と微笑み返していた。だがすぐに、胸の底から別の不安がせり上がる。
「なあ桃花……」
「ん?」
「佳菜に勝てるのか? あんな化け物になっちまったあの女に……お前なら勝てるのか?」
春香の無事を聞いた直後でも、頭の中から佳菜の姿は消えてくれなかった。
もう佳菜じゃない。
『死害』という怪物に成り果てたあの存在が、今も俺の心を押し潰していた。
「う~ん……」
桃花は顎に手を当て、珍しく真剣に唸った。
「そんなに強いのか?」
「いや、強くはないんだ。単純な力でいえば俺の相手じゃない。」
「じゃあ、なんだよ?」
意味が掴めず眉を寄せると、桃花は顔をしかめて続けた。
「厄介なんだよ。まず、スピードはあるけど対応できないレベルじゃない。でも――鏡の中に入れる能力が、とにかく面倒くさい。」
「鏡……」
反射的に呟くと、桃花は苛立ちを隠さずに言葉を重ねた。
「あの死害は、死角から音もなく現れて攻撃してくる。気配も読みにくい。手を掴んで本体を引きずり出そうとしても、すぐ腕を切り捨てて逃げるから引っこ抜けない。」
焚き火の光に照らされた桃花の瞳が、炎のように鋭く揺れた。
「ダメージが入ってないわけじゃないんだけど、結局は本体を倒さなきゃ意味がない。手足をいくら斬っても、鏡の中で回復される。臆病っていうか……慎重で、最悪の戦い方をしてくる。」
桃花は小さく舌打ちし、さらに続けた。
「しかも天魔まで召喚してくる。天魔ってのは上位の死害が使う術なんだけど、あいつ――なぜか使えるんだ。どれだけ怨みが強いんだろうね。」
その言葉を聞いた瞬間、背中に冷たい感覚が走る。
佳菜の怨み。
俺に向けられた、果てしなく深く黒い感情。
喉が詰まり、言葉が出なかった。視線を落とすしかできなかった。
しばらく沈黙が続いた。
俺が言葉を失ったまま火を見つめていると、桃花は静かに薪を一本掴み、炎の中へそっと差し込んだ。火花が弾け、その光が彼の横顔を照らす。
「まあ……そんなに落ち込まなくていいですよ。」
柔らかい声だったが、どこか強さを含んでいた。
「どのみち、あれは倒さないといけません。俺たちが何とかします。
今、狒々王に“あれを誘き寄せられる場所”を探してもらっています。」
桃花は視線を炎から離さずに続けた。
「あれは、自分が不利な場所では決して姿を見せないはずです。
だから――“有利だと思わせる場所”で戦わせる必要がある。」
そして、わずかに間を置いて。
「その時は、おそらく……コウジさんを囮に使うことになります。
その覚悟だけは、しておいてください。」
心臓が強く打ち、息が喉で止まった。
顔を上げると、桃花の瞳が真っすぐ俺を射抜いていた。逃げ道を与えない、覚悟を迫るまなざしだった。
覚悟を決めろ――
言葉にされなくても、そう突きつけられている気がした。
俺はため息を漏らし、かすかに頷くことしかできなかった。
覚悟なんてできていない。
震える足が、その事実をはっきり示していた。
怖い。
怖い。
怖い。
怖い。
胸の奥が潰れそうで、目元を何度もこすりながら必死に堪えた。
火の温かさも、桃花の存在も、その恐怖を拭ってはくれない。
桃花は何も言わなかった。ただ静かに、また薪を火へくべた。
ぱち、ぱち、と弾けた火の粉が夜空へ昇り、暗闇へ消えていった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
張りつめていた胸の圧がゆっくりと下がり始めた頃、桃花がそっと声を投げた。
「コウジさん、お腹空きませんか? 何か食べましょうよ。」
唐突なようで、絶妙なタイミングだった。
気遣い――そう思えた。
悩んでいても今は何も変わらない。
俺は、深呼吸をしてから頷いた。
「……何があるんだ?」
「そうですね。カップラーメンと、お菓子が大量に。あとビールもあります。
まったく小夜、気がきかないなぁ。僕、ご飯物がよかったのに……、あとジンジャーエール買ってきてくれよ。
だいたい――お酒は僕、“未成年”って設定になってるから飲めないんですよ。」
ぶつぶつと文句を言う桃花に、思わず笑いが漏れそうになる。
さっきまでの恐怖で張りつめていた心が、すこしほどけた。
「シーフードある?」
「シーフードですか? ……あ、ありますよ。」
「じゃあ俺、それで。ついでに……ビールも飲む。」
「わかりました。じゃあ準備しますね。」
桃花がにこりと笑う。
その笑みにつられるように、俺も腰を上げた。
ふたりで並んで食事の支度をはじめる。
静かな山の夜、焚き火の光、湯気の立つ鍋。
不釣り合いなくらい穏やかで――けれど確かに、救われる時間だった。
ほんの少し、平和の匂いがした。




