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闇に咲く桃花  作者: しんいち
第二章

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九話目 安息

朝が明け、俺と桃花は一つ町を越えた、山の開けた場所へと下ろされた。


「では桃花殿。」


「ありがとう、八咫烏。またよろしく。」


黒い巨鳥は静かに首を垂れ、その赤い双眸が一瞬だけ俺を射抜いた。

背筋が冷たくなるような視線。しかし次の瞬間には、どこか愉快そうに目を細め、ふわりと風もなく浮かび上がる。


上空をゆっくりと旋回したかと思うと――

その巨体は唐突に砕け散るように無数のカラスへと化け、霧が晴れるように空へ消え去った。


あまりにも現実離れした光景に、しばし言葉を失って見上げていると、桃花が隣で声をかけてきた。


「じゃあコウジさん、行きましょうか。」


「行くって……こんな山の中、どこに行くんだ?」


「そうですね。町の中は鏡が多すぎて守りにくいので、二、三日は山の中で過ごすことになると思います。

この先に、古いキャンプ場があるんです。水もあるし、トイレにも困らないですから。」


山の中……そしてキャンプ場。


従うしかなかった。

昨夜は乗り切っただけで、まだ何も終わっていない。

荷物も取りに戻りたいし、部屋の状態も気になる。何より――春香のことが頭から離れない。

だが、桃花の言う通り、今の俺には町へ降りる気力などとてもなかった。


疲れ切った顔のまま、俺はただ軽く頷く。


桃花の背を追って山道を進む。

彼は慣れた足取りで、ほとんど疲れを見せずに獣道をすいすいと進んでいく。


「ちょ、ちょっと待ってくれ……。少し休もうぜ……」


寝不足に加え、あの夜を越えたばかりだ。

慣れない山道に足を取られ、転びそうになりながら進む俺の体力は限界に近づいていた。


桃花はそんな俺を気遣い、時折速度を落としてくれている。

だが呼吸は荒れ、もはや前に進めないと感じ始めたそのとき――。


焦げたような、いや……木を焼く煙の匂いが鼻をかすめた。


「コウジさん、この下です。」


桃花が笑顔で指さす。


「やっと……着いたか……」


最後の力を振り絞り、俺は彼の背を追って坂を下った。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


キャンプ場に辿り着いた瞬間、全身の力が抜け落ちた。

膝に手をついて呼吸を整えようとするが、なかなか回復しない。

喉の渇きを覚え、俺は周囲を見回した。


寂れたキャンプ場――その言葉の通りだった。

草が繁り、長い間人の手が入っていないことが一目で分かる。

監視塔のような木造の建物も姿を残してはいるものの、苔と蔦に覆われ、まるで山に呑み込まれかけているようだった。


先に中を確かめに行っていた桃花が、心配になったのか戻ってきた。


「大丈夫?」


「ああ……大丈夫……。今行くよ……」


足を引きずりながら、俺は彼と並び、ゆっくりとキャンプ場の奥へと歩き出した。


 キャンプ場の一角、静かな森の空気を切り裂くように、ぱちぱちと焚き火が弾ける音が響いていた。

 その焚き火のそばで、長い髪を後ろでひとつに束ねたセーラー服姿の少女がしゃがみ込んでいた。

 桃花と一緒にいた――小夜という少女だ。


 鍋からは味噌の香りが立ちのぼり、浮かんだ野菜がぐつぐつと揺れている。

 決して綺麗とは言えない木のテーブルには紙皿が並べられ、漬け物が心ばかり申し訳なさそうに添えられていた。


「コウジさん、疲れてるでしょ。とりあえずそこに座っててよ。あとは僕と小夜がやるからさ」


 その声に甘えて、俺は丸太の椅子に腰を下ろした。


「……ふー」


 肩の力がようやく抜け、安堵の息が漏れる。

 目の前では桃花が小夜と楽しそうに話をしている。小夜の指示にうなずきながら、ご飯をよそい、汁をすくい、まるで遠足に来たようにはしゃげている。


 ――だが俺たちは遊びに来たのではない。

 逃げてきたのだ。


 それでも、テーブルに並ぶ朝食――ご飯、豚汁、漬け物。それだけの献立が、今の俺にはあまりにも贅沢に見えた。


「さあ、コウジさん。食べて食べて」


 促され、俺はスープを一口すする。

 味噌の香りが鼻を抜け、温かさが喉から胸へ、そこから全身へと広がっていく。


「……うまい」


 思わず漏れた一言に、つられるようにもう一口。

 それは、平和の味だった。日常の味だった。

 普段ならきっと当たり前すぎて気にも留めなかったはずの味が、今の俺には何倍にも膨れ上がって沁みていく。


 やがて桃花と小夜が戻り、俺の感想を聞いてきた。


「美味しいよ。本当に美味しい。ありがとう」


 心からの言葉に、小夜は素っ気ないほど軽く会釈しただけだった。


「じゃあ僕も食べようかな。お腹空いちゃったよ」


 彼は割り箸を割ると、子供のように勢いよく食べ始めた。

 その横で、小夜は姿勢を崩さず、所作ひとつ乱さず優雅に食べている。

 あまりに正反対すぎる食べ方に思わず笑いがこぼれる。


 俺も桃花の真似をするように食べ、腹を満たしていった。


 久しぶりに――本当に久しぶりに腹いっぱい食べた気がする。

 ここ最近は佳菜のことが頭から離れず、食事をしても味さえ感じられなかった。


 対面の桃花はまだ食べ足りなさそうだったが、俺は腹をさすりながら食後の余韻にひたっていた。


 その時だった。


「あの……」


 不意に、小夜が鼻を手で押さえ、怪訝な表情で俺と桃花を交互に見た。


「どうしたの、小夜?」


 桃花が硬い声で尋ねる。

 そのただならぬ気配に、俺も姿勢を正す。


 小夜は淡々と告げた。


「誠に言いにくいのですが――お二人とも臭います。すぐに『川浴む(かわあむ)』を行い、新しい服にお着替えください」


 その視線は冷たく、軽蔑すら感じさせた。


「かわあむって……?」


 小声で桃花に尋ねると、桃花は肩をすくめ、小夜の顔色を伺いながら囁いた。


「臭いから川で身体洗ってこいってさ。……でも、臭うかな?」


 言いながら、桃花は自分の肩に鼻を寄せ、くんくんと嗅ぎはじめる。

 その仕草の滑稽さが余計に気不味さを増幅させた。


「え、川で……?」


 三月の頭。寒さがまだ残る季節だ。想像しただけで身震いする。だが、小夜の視線に逆らえる気はしなかった。


「あの……水浴びはいいんだけど、俺、着替えとか何もないんだけど……」


 おそるおそる言うと、小夜は無言で立ち上がり、スタスタと歩いていった。

 すぐに戻ってくると、手には二つのバッグが握られている。


「こちらにございます」


 俺と桃花の前に、無造作にバッグを置いた。


 それは――俺のバッグだった。

 旅行用に押し入れにしまっていたはずのバッグ。


 チャックを開けると、服が乱暴に押し込まれ、その隙間にスマホまで入っている。


「……俺の家に行ったのか?」


「はい」


 当然と言わんばかりの冷たい表情を崩さず、小夜は短く答えた。


「あ、あの……俺の部屋はどうなっていた? は、春香は……どうなったかわからないか?」


 俺の問いに、小夜は小首をかしげた。

 まるで、聞き慣れない単語を出された子どものように――“意味がわからない”という表情。


「いや、その……俺と一緒にいた女の子のことなんだけど。昨日、佳菜――あの死害だっけ、あれに二階の窓から外に投げ飛ばされたんだ。で、その後どうなったか……わ、わからないか?」


 言葉が途切れた。

 胸の奥に沈んでいた不安が、言葉にしたことで一気に暴れ出すようだった。


 小夜は口元に手を添え、考えるように小さく頷く。


「ああ――あの女のことですね。私が来た時にはすでに運ばれていましたので存じ上げません。ただ、狒々王の報告では病院に運ばれ、命に別状はないと聞いております」


 その一言で、胸がぎゅっと締めつけられ、しかし同時に力が抜け落ちるような安堵が押し寄せた。


 続けて、小夜は淡々と告げる。


「あと貴方様の家ですが、警察が来ておりました。隙をついて簡単に荷物を積めて持って来ただけですので、その後の状況までは分かりません」


 生きていた――春香は生きていた。

 それだけで助かった気がしたのに、次の瞬間、胃の奥底が重く沈む。


(命に別状はない……でも怪我は? 警察は?)


 安心と不安が綱引きをし、どちらにも引きちぎれそうになる。


「鬼がやったなんて……信じてくれないだろうな……」


 思わず空を仰ぎ、ため息が漏れた。

 家から人が落ちてきたのだ。警察が来るのも当然だ。

 だが――誰が信じる、あの“化け物”の存在を。


 その沈んだ空気を察したのか、桃花が小夜に声をかけた。


「小夜……春香さんの怪我の状態、狒々王に探らせておいてくれ。それと警察の方は仙道さんに頼もう。あの人、いつものように何とかしてくれるでしょ」


「かしこまりました。後ほど、狒々王と仙道様には伝えておきます。それでは――お二人とも早く“川浴む”を。……臭いますから」


 最後だけ言葉が妙に鋭かった。

 命令ではなく――処罰の宣告のような声音。


 じろり、と小夜の冷たい視線が俺と桃花を交互に射貫く。


「こ、コウジさん……と、とりあえず行こうか?」


「う、うん……」


 本当はまだ聞きたいことが山ほどある。

 だが、小夜の機嫌が悪化する未来しか見えない。

 俺と桃花は自然と背筋を伸ばし、まるで処刑場に向かう囚人のような足取りで立ち上がった。


 ――ひとまず、身体の汚れを落とさなければ。

 その前に、彼女の怒りに触れそうで仕方がなかった。



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