九話目 安息
朝が明け、俺と桃花は一つ町を越えた、山の開けた場所へと下ろされた。
「では桃花殿。」
「ありがとう、八咫烏。またよろしく。」
黒い巨鳥は静かに首を垂れ、その赤い双眸が一瞬だけ俺を射抜いた。
背筋が冷たくなるような視線。しかし次の瞬間には、どこか愉快そうに目を細め、ふわりと風もなく浮かび上がる。
上空をゆっくりと旋回したかと思うと――
その巨体は唐突に砕け散るように無数のカラスへと化け、霧が晴れるように空へ消え去った。
あまりにも現実離れした光景に、しばし言葉を失って見上げていると、桃花が隣で声をかけてきた。
「じゃあコウジさん、行きましょうか。」
「行くって……こんな山の中、どこに行くんだ?」
「そうですね。町の中は鏡が多すぎて守りにくいので、二、三日は山の中で過ごすことになると思います。
この先に、古いキャンプ場があるんです。水もあるし、トイレにも困らないですから。」
山の中……そしてキャンプ場。
従うしかなかった。
昨夜は乗り切っただけで、まだ何も終わっていない。
荷物も取りに戻りたいし、部屋の状態も気になる。何より――春香のことが頭から離れない。
だが、桃花の言う通り、今の俺には町へ降りる気力などとてもなかった。
疲れ切った顔のまま、俺はただ軽く頷く。
桃花の背を追って山道を進む。
彼は慣れた足取りで、ほとんど疲れを見せずに獣道をすいすいと進んでいく。
「ちょ、ちょっと待ってくれ……。少し休もうぜ……」
寝不足に加え、あの夜を越えたばかりだ。
慣れない山道に足を取られ、転びそうになりながら進む俺の体力は限界に近づいていた。
桃花はそんな俺を気遣い、時折速度を落としてくれている。
だが呼吸は荒れ、もはや前に進めないと感じ始めたそのとき――。
焦げたような、いや……木を焼く煙の匂いが鼻をかすめた。
「コウジさん、この下です。」
桃花が笑顔で指さす。
「やっと……着いたか……」
最後の力を振り絞り、俺は彼の背を追って坂を下った。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
キャンプ場に辿り着いた瞬間、全身の力が抜け落ちた。
膝に手をついて呼吸を整えようとするが、なかなか回復しない。
喉の渇きを覚え、俺は周囲を見回した。
寂れたキャンプ場――その言葉の通りだった。
草が繁り、長い間人の手が入っていないことが一目で分かる。
監視塔のような木造の建物も姿を残してはいるものの、苔と蔦に覆われ、まるで山に呑み込まれかけているようだった。
先に中を確かめに行っていた桃花が、心配になったのか戻ってきた。
「大丈夫?」
「ああ……大丈夫……。今行くよ……」
足を引きずりながら、俺は彼と並び、ゆっくりとキャンプ場の奥へと歩き出した。
キャンプ場の一角、静かな森の空気を切り裂くように、ぱちぱちと焚き火が弾ける音が響いていた。
その焚き火のそばで、長い髪を後ろでひとつに束ねたセーラー服姿の少女がしゃがみ込んでいた。
桃花と一緒にいた――小夜という少女だ。
鍋からは味噌の香りが立ちのぼり、浮かんだ野菜がぐつぐつと揺れている。
決して綺麗とは言えない木のテーブルには紙皿が並べられ、漬け物が心ばかり申し訳なさそうに添えられていた。
「コウジさん、疲れてるでしょ。とりあえずそこに座っててよ。あとは僕と小夜がやるからさ」
その声に甘えて、俺は丸太の椅子に腰を下ろした。
「……ふー」
肩の力がようやく抜け、安堵の息が漏れる。
目の前では桃花が小夜と楽しそうに話をしている。小夜の指示にうなずきながら、ご飯をよそい、汁をすくい、まるで遠足に来たようにはしゃげている。
――だが俺たちは遊びに来たのではない。
逃げてきたのだ。
それでも、テーブルに並ぶ朝食――ご飯、豚汁、漬け物。それだけの献立が、今の俺にはあまりにも贅沢に見えた。
「さあ、コウジさん。食べて食べて」
促され、俺はスープを一口すする。
味噌の香りが鼻を抜け、温かさが喉から胸へ、そこから全身へと広がっていく。
「……うまい」
思わず漏れた一言に、つられるようにもう一口。
それは、平和の味だった。日常の味だった。
普段ならきっと当たり前すぎて気にも留めなかったはずの味が、今の俺には何倍にも膨れ上がって沁みていく。
やがて桃花と小夜が戻り、俺の感想を聞いてきた。
「美味しいよ。本当に美味しい。ありがとう」
心からの言葉に、小夜は素っ気ないほど軽く会釈しただけだった。
「じゃあ僕も食べようかな。お腹空いちゃったよ」
彼は割り箸を割ると、子供のように勢いよく食べ始めた。
その横で、小夜は姿勢を崩さず、所作ひとつ乱さず優雅に食べている。
あまりに正反対すぎる食べ方に思わず笑いがこぼれる。
俺も桃花の真似をするように食べ、腹を満たしていった。
久しぶりに――本当に久しぶりに腹いっぱい食べた気がする。
ここ最近は佳菜のことが頭から離れず、食事をしても味さえ感じられなかった。
対面の桃花はまだ食べ足りなさそうだったが、俺は腹をさすりながら食後の余韻にひたっていた。
その時だった。
「あの……」
不意に、小夜が鼻を手で押さえ、怪訝な表情で俺と桃花を交互に見た。
「どうしたの、小夜?」
桃花が硬い声で尋ねる。
そのただならぬ気配に、俺も姿勢を正す。
小夜は淡々と告げた。
「誠に言いにくいのですが――お二人とも臭います。すぐに『川浴む(かわあむ)』を行い、新しい服にお着替えください」
その視線は冷たく、軽蔑すら感じさせた。
「かわあむって……?」
小声で桃花に尋ねると、桃花は肩をすくめ、小夜の顔色を伺いながら囁いた。
「臭いから川で身体洗ってこいってさ。……でも、臭うかな?」
言いながら、桃花は自分の肩に鼻を寄せ、くんくんと嗅ぎはじめる。
その仕草の滑稽さが余計に気不味さを増幅させた。
「え、川で……?」
三月の頭。寒さがまだ残る季節だ。想像しただけで身震いする。だが、小夜の視線に逆らえる気はしなかった。
「あの……水浴びはいいんだけど、俺、着替えとか何もないんだけど……」
おそるおそる言うと、小夜は無言で立ち上がり、スタスタと歩いていった。
すぐに戻ってくると、手には二つのバッグが握られている。
「こちらにございます」
俺と桃花の前に、無造作にバッグを置いた。
それは――俺のバッグだった。
旅行用に押し入れにしまっていたはずのバッグ。
チャックを開けると、服が乱暴に押し込まれ、その隙間にスマホまで入っている。
「……俺の家に行ったのか?」
「はい」
当然と言わんばかりの冷たい表情を崩さず、小夜は短く答えた。
「あ、あの……俺の部屋はどうなっていた? は、春香は……どうなったかわからないか?」
俺の問いに、小夜は小首をかしげた。
まるで、聞き慣れない単語を出された子どものように――“意味がわからない”という表情。
「いや、その……俺と一緒にいた女の子のことなんだけど。昨日、佳菜――あの死害だっけ、あれに二階の窓から外に投げ飛ばされたんだ。で、その後どうなったか……わ、わからないか?」
言葉が途切れた。
胸の奥に沈んでいた不安が、言葉にしたことで一気に暴れ出すようだった。
小夜は口元に手を添え、考えるように小さく頷く。
「ああ――あの女のことですね。私が来た時にはすでに運ばれていましたので存じ上げません。ただ、狒々王の報告では病院に運ばれ、命に別状はないと聞いております」
その一言で、胸がぎゅっと締めつけられ、しかし同時に力が抜け落ちるような安堵が押し寄せた。
続けて、小夜は淡々と告げる。
「あと貴方様の家ですが、警察が来ておりました。隙をついて簡単に荷物を積めて持って来ただけですので、その後の状況までは分かりません」
生きていた――春香は生きていた。
それだけで助かった気がしたのに、次の瞬間、胃の奥底が重く沈む。
(命に別状はない……でも怪我は? 警察は?)
安心と不安が綱引きをし、どちらにも引きちぎれそうになる。
「鬼がやったなんて……信じてくれないだろうな……」
思わず空を仰ぎ、ため息が漏れた。
家から人が落ちてきたのだ。警察が来るのも当然だ。
だが――誰が信じる、あの“化け物”の存在を。
その沈んだ空気を察したのか、桃花が小夜に声をかけた。
「小夜……春香さんの怪我の状態、狒々王に探らせておいてくれ。それと警察の方は仙道さんに頼もう。あの人、いつものように何とかしてくれるでしょ」
「かしこまりました。後ほど、狒々王と仙道様には伝えておきます。それでは――お二人とも早く“川浴む”を。……臭いますから」
最後だけ言葉が妙に鋭かった。
命令ではなく――処罰の宣告のような声音。
じろり、と小夜の冷たい視線が俺と桃花を交互に射貫く。
「こ、コウジさん……と、とりあえず行こうか?」
「う、うん……」
本当はまだ聞きたいことが山ほどある。
だが、小夜の機嫌が悪化する未来しか見えない。
俺と桃花は自然と背筋を伸ばし、まるで処刑場に向かう囚人のような足取りで立ち上がった。
――ひとまず、身体の汚れを落とさなければ。
その前に、彼女の怒りに触れそうで仕方がなかった。




