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闇に咲く桃花  作者: しんいち
第二章

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八話目 神の一撃

背後から現れた巨大な手が、今まさに俺を掴みかかろうと迫ってきた。

 あまりの出来事に逃げることもできず、俺はただ腕で顔を覆うことしかできなかった。


 「……終わった」


 絶望の中で、運命を受け入れかけたその瞬間——

 一秒、二秒と過ぎても、俺の身には何ひとつ起きない。


 おそるおそる腕を下ろし、目を開ける。


 「桃花!」


 彼がそこにいた。

 いつの間に現れたのか、巨大な鬼の手を両腕で受け止め、床に靴底を深く食い込ませて踏ん張っている。指先から火花のような霊気がほとばしり、鬼の手とぶつかり合うたび、空気が震えた。


 「コウジさん、走って! 突き当たりの左のドアです!」


 背中越しの声は張り裂けるようで、しかし確信に満ちていた。

 桃花は俺に叫ぶと同時に、鬼の腕を力任せに弾き返し、跳ね返った勢いでさらにもう一撃を叩き込む。鈍い衝撃音が廊下に響きわたり、壁の照明がビリビリと揺れた。


 俺は一瞬ためらったが、「早く!」と放たれたもう一声に背中を強く押され、ついに駆け出した。


 振り返る余裕もなく、俺は一目散に走る。

 背後では、衝撃が連続して弾けるような音が響き、壁を通して激しい振動が足元まで伝わってきた。


 ドアノブを掴み、勢いよく開け放つ。

 溜まりに溜まった埃が舞い上がり、鼻をつくカビの臭いが押し寄せてくる。だが立ち止まっている暇などない。


 室内は散乱していた。

 布団やタオル、古びたテレビ、小さな机……ガラクタの山が行く手を塞ぐように積み重なっている。

 普通の部屋には見えない。物品室か、それとも従業員の控え室か。


 足を取られそうになりながら、俺は桃花が言った“屋上へと続く扉”を探し、さらに奥へと踏み込んだ。


 暗闇に目が慣れているとはいえ、狭いこの部屋は外よりもなお暗かった。

 外では桃花と佳菜が激しい戦闘を繰り広げているのか、俺が触れている壁からはドンッ、ドンッと大きな振動が伝わってくる。


 早くしないと……。


 焦りから足をもつれさせ転倒しながらも、手探りでドアノブを見つけ開ける。

 そこは洗面台のある小部屋——確認するまでもなくトイレだった。

 さらに横の扉を開ける。だがただの棚。


 「チッ……」


 苛立ちが舌に乗る。

 さらに奥へと進むと、部屋は一層荒れ果てていた。天井は腐食し、ところどころ抜け落ちている。

 足元の畳は水分を含んでいて、踏むたびにネチャッと嫌な感触が靴底を伝う。


 顔をしかめつつ暗がりに目を凝らすと、奥の一角に擦りガラスのはめられた扉が見つかった。


 「あそこだ!」


 瓦礫を押しのけながらそこへとたどり着く。


 ガチャ……

 ドアノブを回すが開かない。


 ガチャ、ガチャガチャッ——。

 焦りで手に力が入り、何度も回すがまったく反応しない。

 鍵穴を見るが、鍵は刺さっていない。


 「鍵で開けるのか……嘘だろ……」


 こんな暗闇、しかも荒れ果てた部屋の中で鍵を探せというのか。

 絶望が胸に落ち、力が抜けそうになる。


 だが、生存本能がひとつアイデアをよこした。


 ——ガラスを割れ。


 俺は周囲を探し、天井から落ちた木の棒を見つけて手に取る。


 「うおぉぉおおお!」


 勢いをつけ窓ガラスに叩きつけた。


 バキッ。


 割れたのは木の棒の方だった。

 腐っていたらしく、窓ガラスはびくともしない。触れてみると分厚く、拳でも体当たりでも割れそうにない。


 「なんで……なんでだよ……」


 混乱と焦燥で頭をかきむしった、その時——。


 ガタリ。


 部屋の入り口から音がして、俺は反射的に振り向く。


 「コウジさん!」


 桃花の声だった。安堵と同時に膝の力が抜けそうになる。


 「桃花! こっちだ、ドアが開かない!」


 息を切らしながら状況を説明すると、桃花が姿を現した。

 激しい戦闘をしていたのか、こめかみに血が一筋、流れている。


 「桃花……大丈夫な——」


 俺が言い終える前に、桃花はドアの前に立ち、短く告げた。


 「下がってください」


 ——何をする気だ。


 人の力では絶対に開かない扉。空手の達人でも割れそうにないガラス。

 桃花はその扉に静かに手のひらを当て、息を一度だけ深く吸い込んだ。


 次の瞬間。


 「波動ッ!」


 ドンッ——パリンッ。


 爆風のような衝撃が俺に襲いかかり、俺は尻餅をつく。

 気づけば、扉どころか周囲のコンクリートごと吹き飛び、ぽっかりと大穴が空いていた。


 「コウジさん、早く!」


 「……あ、ああ……」


 立ち上がった俺は桃花の横顔を見て、思わず息を飲んだ。

 その表情は、つい先ほどまで一緒にいた彼とは別人のように鋭かった。

彼のその表情に俺は一瞬寒気が走り恐怖を感じた。


 「僕が後ろを守ります。コウジさんは先に上へ」


 彼の声に我に返り、俺は外へと飛び出す。


 外には上へ続く急な鉄の階段があった。

 柵は先ほどの衝撃でへしゃげ、四階の高さから地面まで丸見えだ。

 ここから落ちればひとたまりもない。


 震える足で一段ずつ踏みしめ、錆びた階段を上っていく。


 コツ、コツ、コツ、コツ……


 背後からは、桃花の迷いのない足音が近づいてくる。


 ——怖くないのかよ。


 屋上へ出た瞬間、解放感のあまり大きく息を吐いた。

 わずか数メートルの階段を上っただけなのに、背中は汗で濡れている。


 遅れて桃花も屋上へと上がってきた。

 ここにくれば仲間を呼べると言っていたが、目に映るのは給水タンクと周囲を囲む森、そして満天の星空だけだ。


 「桃花……ここに仲間が来るのか? まさか無線か、ヘリでも呼ぶ気——」


 苦笑まじりに問いかけると、桃花はふっと笑い、「面白い物を見せてあげますよ」と言った。


 そして、夜空に向けて手をかざす。


 次の瞬間、彼は低く、しかし大気を震わせるような声で呪文を紡いだ。



 「天ノ闇、地ノ影、千ノ翼よ——

  集い、混じり、重なりて一つとなれ。

  黄泉を照らす三足の王、今ここに降臨せよ。

  “八咫烏''」


 呪文が終わると同時に、森の奥からカァ……カァァ……と無数のカラスの鳴き声が重なり合って響いた。


 ざぁっ——。


 闇に溶けていたカラスたちが一斉に舞い上がり、黒い嵐のように夜空を渦巻く。

 それらが浮かび上がりながら一つの巨大な影となり、星明かりを遮ってゆく。


 黒き翼が広がる。

 赤い二つの目がゆっくりと開く。


 ——巨大な黒い鳥。


 闇の中から形を成し、俺たちの前に降臨した。



 あまりの光景に俺は恐怖し、思わず後ずさった。

 六メートル……いや、それ以上はあるだろう。

 満天の星空を覆い隠しながら、巨大な影は音もなく旋回し、そして俺と桃花の前にフワリと降り立った。


 不思議と風はなかった。

 あれだけ巨大な羽がゆっくりと羽ばたいているというのに、一陣の風すら起きない。

 建物が軋むことも、空気が震えることもない。

 まるで——幻でも見ているのかと錯覚するほどに、現実感が薄かった。


 「こんばんは、八咫烏」


 「桃花殿。今宵はどのような御用で……」


 喋った——。


 あまりに自然に、あまりに澄んだ声で。

 禍々しい巨体から発されたとは思えないほど神聖な響きだった。

 桃花は今、確かに『八咫烏』と呼んでいた。

 日本神話に登場する、神の使い。

 その名を聞いた瞬間、黒い巨鳥の輪郭がどこか神々しく見えはじめる。


 「それがさ、ちょっと厄介な死害に追われててね。この場から逃げたいんだ。少し手を貸してほしい」


 「逃げる、ですか……? 桃花殿らしくありませんな。それで、その人間は?」


 赤く光る二つの目がギロリと俺を覗き込む。

 その視線に心臓をつかまれたような感覚が走り、全身が硬直した。


 「彼はコウジさん。今回は彼を助けないといけなくてね。町は危ないから、手頃な山の上で下ろしてほしい。頼めるかな?」


 「なるほど……フッ。人間など放っておけば良いものを。桃花殿は本当にお優しい。……分かり申した。では我が背に」


 八咫烏はゆっくりと巨大な身体をひねり、背中をこちらへ向けた。


 ゴクリ。

 喉の奥で唾が固まって落ちる音が自分の耳に届く。


 「じゃあコウジさん。行こうか?」


 差し出された桃花の手を握り、俺は震えながら八咫烏の背へと登った。

 柔らかい羽。丸太のように頑丈な体躯。

 触れるほどに現実味が増し、恐怖と興奮がない交ぜになった感覚が胸を圧した。


 「ふ……ふふ……」


 現実を受け止めきれず、思わず引きつった笑いが漏れる。


 「コウジさん、しっかり捕まって。——八咫烏、頼む」


 桃花が声をかけ、俺は羽毛を掴む。

 次の瞬間、八咫烏は静かに羽を広げた。


 フワリ——。


 地面がすうっと遠ざかる。

 振動は一切なかった。

 あまりに滑らかな上昇に、まるで重力そのものが消えてしまったようだった。


 やがて高空の風が頬をかすめ、俺はそれではじめて本当に飛んでいるのだと実感した。

 恐怖は徐々に薄れ、目の前に広がる雄大な景色に自然と笑みがこぼれた。


 「すごいでしょ?」


 桃花が自慢げに笑う。


 その時——。


 八咫烏の動きがピタリと止まった。

 上空で巨大な翼をはためかせながら、静止するようにホバリングしている。


 「どうした?」


 桃花が問うと、八咫烏は静かに答えた。


 「『天魔』の群れが行く手を阻んでおります。いかがいたしますか?」


 「天魔? 天魔ってなんだよ……」


 俺が囁くと、桃花はため息をつきながら説明した。


 「翼が生えた怨鬼みたいなもんだよ。まったく……しつこい連中だな。

  ——八咫烏、凪払っていいよ。」


 「承知……」


 八咫烏は空気を吸い込むように、巨大な喉をゆっくりと膨らませた。

 桃花が耳をふさぐ。

 それを見て俺も慌てて耳を押さえた、その瞬間——。


 世界が光で裂けた。


 ドオオオオォォォ——ンッ!!


 黄金色の閃光が八咫烏の口から一直線に解き放たれ、

 その光は雷鳴より鋭く、爆発より凄まじく、夜空そのものを白く染め上げた。


 視界が焼ける。

 鼓膜が震え、胸が揺さぶられた。

 まるで巨大な映画館のスクリーンの中に放り込まれたような、圧倒的な臨場感。


 群れをなして迫っていた影が、光の中で次々と弾け、炎の玉となって燃え落ちていく。

 闇の高空で、破片のように赤い火が散った。


 ——まさしく神の一撃だった。


 突風もなく、煙も残さず、ただ静かに、

 天魔の群れは夜の底へと消え落ちた。


 桃花は満足そうに笑った。


 やがて、夜がゆっくりと明け始めた。

 東の空が赤く染まり、町も山も淡い光に照らされてゆく。


 俺は羽毛に顔を埋め、力を抜いた。


 ——長かった。

 本当に、長い夜だった。


 「疲れた……」


 安堵と共に漏れたその言葉の奥で、

 俺の頭には、春香の姿が静かに浮かび上がっていた。


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