八話目 神の一撃
背後から現れた巨大な手が、今まさに俺を掴みかかろうと迫ってきた。
あまりの出来事に逃げることもできず、俺はただ腕で顔を覆うことしかできなかった。
「……終わった」
絶望の中で、運命を受け入れかけたその瞬間——
一秒、二秒と過ぎても、俺の身には何ひとつ起きない。
おそるおそる腕を下ろし、目を開ける。
「桃花!」
彼がそこにいた。
いつの間に現れたのか、巨大な鬼の手を両腕で受け止め、床に靴底を深く食い込ませて踏ん張っている。指先から火花のような霊気がほとばしり、鬼の手とぶつかり合うたび、空気が震えた。
「コウジさん、走って! 突き当たりの左のドアです!」
背中越しの声は張り裂けるようで、しかし確信に満ちていた。
桃花は俺に叫ぶと同時に、鬼の腕を力任せに弾き返し、跳ね返った勢いでさらにもう一撃を叩き込む。鈍い衝撃音が廊下に響きわたり、壁の照明がビリビリと揺れた。
俺は一瞬ためらったが、「早く!」と放たれたもう一声に背中を強く押され、ついに駆け出した。
振り返る余裕もなく、俺は一目散に走る。
背後では、衝撃が連続して弾けるような音が響き、壁を通して激しい振動が足元まで伝わってきた。
ドアノブを掴み、勢いよく開け放つ。
溜まりに溜まった埃が舞い上がり、鼻をつくカビの臭いが押し寄せてくる。だが立ち止まっている暇などない。
室内は散乱していた。
布団やタオル、古びたテレビ、小さな机……ガラクタの山が行く手を塞ぐように積み重なっている。
普通の部屋には見えない。物品室か、それとも従業員の控え室か。
足を取られそうになりながら、俺は桃花が言った“屋上へと続く扉”を探し、さらに奥へと踏み込んだ。
暗闇に目が慣れているとはいえ、狭いこの部屋は外よりもなお暗かった。
外では桃花と佳菜が激しい戦闘を繰り広げているのか、俺が触れている壁からはドンッ、ドンッと大きな振動が伝わってくる。
早くしないと……。
焦りから足をもつれさせ転倒しながらも、手探りでドアノブを見つけ開ける。
そこは洗面台のある小部屋——確認するまでもなくトイレだった。
さらに横の扉を開ける。だがただの棚。
「チッ……」
苛立ちが舌に乗る。
さらに奥へと進むと、部屋は一層荒れ果てていた。天井は腐食し、ところどころ抜け落ちている。
足元の畳は水分を含んでいて、踏むたびにネチャッと嫌な感触が靴底を伝う。
顔をしかめつつ暗がりに目を凝らすと、奥の一角に擦りガラスのはめられた扉が見つかった。
「あそこだ!」
瓦礫を押しのけながらそこへとたどり着く。
ガチャ……
ドアノブを回すが開かない。
ガチャ、ガチャガチャッ——。
焦りで手に力が入り、何度も回すがまったく反応しない。
鍵穴を見るが、鍵は刺さっていない。
「鍵で開けるのか……嘘だろ……」
こんな暗闇、しかも荒れ果てた部屋の中で鍵を探せというのか。
絶望が胸に落ち、力が抜けそうになる。
だが、生存本能がひとつアイデアをよこした。
——ガラスを割れ。
俺は周囲を探し、天井から落ちた木の棒を見つけて手に取る。
「うおぉぉおおお!」
勢いをつけ窓ガラスに叩きつけた。
バキッ。
割れたのは木の棒の方だった。
腐っていたらしく、窓ガラスはびくともしない。触れてみると分厚く、拳でも体当たりでも割れそうにない。
「なんで……なんでだよ……」
混乱と焦燥で頭をかきむしった、その時——。
ガタリ。
部屋の入り口から音がして、俺は反射的に振り向く。
「コウジさん!」
桃花の声だった。安堵と同時に膝の力が抜けそうになる。
「桃花! こっちだ、ドアが開かない!」
息を切らしながら状況を説明すると、桃花が姿を現した。
激しい戦闘をしていたのか、こめかみに血が一筋、流れている。
「桃花……大丈夫な——」
俺が言い終える前に、桃花はドアの前に立ち、短く告げた。
「下がってください」
——何をする気だ。
人の力では絶対に開かない扉。空手の達人でも割れそうにないガラス。
桃花はその扉に静かに手のひらを当て、息を一度だけ深く吸い込んだ。
次の瞬間。
「波動ッ!」
ドンッ——パリンッ。
爆風のような衝撃が俺に襲いかかり、俺は尻餅をつく。
気づけば、扉どころか周囲のコンクリートごと吹き飛び、ぽっかりと大穴が空いていた。
「コウジさん、早く!」
「……あ、ああ……」
立ち上がった俺は桃花の横顔を見て、思わず息を飲んだ。
その表情は、つい先ほどまで一緒にいた彼とは別人のように鋭かった。
彼のその表情に俺は一瞬寒気が走り恐怖を感じた。
「僕が後ろを守ります。コウジさんは先に上へ」
彼の声に我に返り、俺は外へと飛び出す。
外には上へ続く急な鉄の階段があった。
柵は先ほどの衝撃でへしゃげ、四階の高さから地面まで丸見えだ。
ここから落ちればひとたまりもない。
震える足で一段ずつ踏みしめ、錆びた階段を上っていく。
コツ、コツ、コツ、コツ……
背後からは、桃花の迷いのない足音が近づいてくる。
——怖くないのかよ。
屋上へ出た瞬間、解放感のあまり大きく息を吐いた。
わずか数メートルの階段を上っただけなのに、背中は汗で濡れている。
遅れて桃花も屋上へと上がってきた。
ここにくれば仲間を呼べると言っていたが、目に映るのは給水タンクと周囲を囲む森、そして満天の星空だけだ。
「桃花……ここに仲間が来るのか? まさか無線か、ヘリでも呼ぶ気——」
苦笑まじりに問いかけると、桃花はふっと笑い、「面白い物を見せてあげますよ」と言った。
そして、夜空に向けて手をかざす。
次の瞬間、彼は低く、しかし大気を震わせるような声で呪文を紡いだ。
「天ノ闇、地ノ影、千ノ翼よ——
集い、混じり、重なりて一つとなれ。
黄泉を照らす三足の王、今ここに降臨せよ。
“八咫烏''」
呪文が終わると同時に、森の奥からカァ……カァァ……と無数のカラスの鳴き声が重なり合って響いた。
ざぁっ——。
闇に溶けていたカラスたちが一斉に舞い上がり、黒い嵐のように夜空を渦巻く。
それらが浮かび上がりながら一つの巨大な影となり、星明かりを遮ってゆく。
黒き翼が広がる。
赤い二つの目がゆっくりと開く。
——巨大な黒い鳥。
闇の中から形を成し、俺たちの前に降臨した。
あまりの光景に俺は恐怖し、思わず後ずさった。
六メートル……いや、それ以上はあるだろう。
満天の星空を覆い隠しながら、巨大な影は音もなく旋回し、そして俺と桃花の前にフワリと降り立った。
不思議と風はなかった。
あれだけ巨大な羽がゆっくりと羽ばたいているというのに、一陣の風すら起きない。
建物が軋むことも、空気が震えることもない。
まるで——幻でも見ているのかと錯覚するほどに、現実感が薄かった。
「こんばんは、八咫烏」
「桃花殿。今宵はどのような御用で……」
喋った——。
あまりに自然に、あまりに澄んだ声で。
禍々しい巨体から発されたとは思えないほど神聖な響きだった。
桃花は今、確かに『八咫烏』と呼んでいた。
日本神話に登場する、神の使い。
その名を聞いた瞬間、黒い巨鳥の輪郭がどこか神々しく見えはじめる。
「それがさ、ちょっと厄介な死害に追われててね。この場から逃げたいんだ。少し手を貸してほしい」
「逃げる、ですか……? 桃花殿らしくありませんな。それで、その人間は?」
赤く光る二つの目がギロリと俺を覗き込む。
その視線に心臓をつかまれたような感覚が走り、全身が硬直した。
「彼はコウジさん。今回は彼を助けないといけなくてね。町は危ないから、手頃な山の上で下ろしてほしい。頼めるかな?」
「なるほど……フッ。人間など放っておけば良いものを。桃花殿は本当にお優しい。……分かり申した。では我が背に」
八咫烏はゆっくりと巨大な身体をひねり、背中をこちらへ向けた。
ゴクリ。
喉の奥で唾が固まって落ちる音が自分の耳に届く。
「じゃあコウジさん。行こうか?」
差し出された桃花の手を握り、俺は震えながら八咫烏の背へと登った。
柔らかい羽。丸太のように頑丈な体躯。
触れるほどに現実味が増し、恐怖と興奮がない交ぜになった感覚が胸を圧した。
「ふ……ふふ……」
現実を受け止めきれず、思わず引きつった笑いが漏れる。
「コウジさん、しっかり捕まって。——八咫烏、頼む」
桃花が声をかけ、俺は羽毛を掴む。
次の瞬間、八咫烏は静かに羽を広げた。
フワリ——。
地面がすうっと遠ざかる。
振動は一切なかった。
あまりに滑らかな上昇に、まるで重力そのものが消えてしまったようだった。
やがて高空の風が頬をかすめ、俺はそれではじめて本当に飛んでいるのだと実感した。
恐怖は徐々に薄れ、目の前に広がる雄大な景色に自然と笑みがこぼれた。
「すごいでしょ?」
桃花が自慢げに笑う。
その時——。
八咫烏の動きがピタリと止まった。
上空で巨大な翼をはためかせながら、静止するようにホバリングしている。
「どうした?」
桃花が問うと、八咫烏は静かに答えた。
「『天魔』の群れが行く手を阻んでおります。いかがいたしますか?」
「天魔? 天魔ってなんだよ……」
俺が囁くと、桃花はため息をつきながら説明した。
「翼が生えた怨鬼みたいなもんだよ。まったく……しつこい連中だな。
——八咫烏、凪払っていいよ。」
「承知……」
八咫烏は空気を吸い込むように、巨大な喉をゆっくりと膨らませた。
桃花が耳をふさぐ。
それを見て俺も慌てて耳を押さえた、その瞬間——。
世界が光で裂けた。
ドオオオオォォォ——ンッ!!
黄金色の閃光が八咫烏の口から一直線に解き放たれ、
その光は雷鳴より鋭く、爆発より凄まじく、夜空そのものを白く染め上げた。
視界が焼ける。
鼓膜が震え、胸が揺さぶられた。
まるで巨大な映画館のスクリーンの中に放り込まれたような、圧倒的な臨場感。
群れをなして迫っていた影が、光の中で次々と弾け、炎の玉となって燃え落ちていく。
闇の高空で、破片のように赤い火が散った。
——まさしく神の一撃だった。
突風もなく、煙も残さず、ただ静かに、
天魔の群れは夜の底へと消え落ちた。
桃花は満足そうに笑った。
やがて、夜がゆっくりと明け始めた。
東の空が赤く染まり、町も山も淡い光に照らされてゆく。
俺は羽毛に顔を埋め、力を抜いた。
——長かった。
本当に、長い夜だった。
「疲れた……」
安堵と共に漏れたその言葉の奥で、
俺の頭には、春香の姿が静かに浮かび上がっていた。




