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闇に咲く桃花  作者: しんいち
第二章

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七話目 暗闇の攻防

闇の中に立っていたのは――桃花だった。


 彼は黒い学生服をまとい、影のようにそこに佇んでいた。昼間に見た彼とは印象がまるで違う。光のない廃ホテルの暗がりでは、同じ姿のはずなのに、どこか異様で、現実から浮き上がったような存在に見えた。


 (……なんで、桃花が……? いや、偽物……?)


 疑念が脳裏をよぎり、俺は反射的にのけぞった。


 すると桃花は、静かに膝を折り、俺と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。そして人差し指を鼻先に添え、息を呑むような小さな声で囁く。


「シッ……」


 その仕草に、俺は条件反射で口を手で塞ぎ、身を固めた。


 薄暗い風呂場の入口で、桃花の眼鏡がかすかに光る。彼の視線がゆっくりと左右に動き、廊下の奥の気配を探るように、張り詰めた空気が漂った。


「――助けに来ました。」


 警戒を緩めることなく、桃花が低く告げた。


「な……なんで、どうしてここが……?」


 聞きたいことは山ほどある。だが、まずは目の前の彼が“本物”なのかどうか――それだけでも確かめたかった。


 桃花は俺に向き直り、ほとんど囁き声のまま言った。


「ええと、実は俺の仲間に、念のためあなたの部屋を見張らせていました。今日、僕は別の死害の始末で小夜と一緒に動いてて……。仲間から連絡を受けて、これでも急いで来たんです。」


 言い終えると、彼はふっと表情を緩めた。昼間と同じ、どこか子どものようにあどけない笑顔。

 その笑顔を見た瞬間、胸の奥の硬直が少しだけ解ける。


 桃花はバスタブの中で縮こまっている俺に、そっと手を差し伸べた。


「さ、行きましょう。ここは危険です。」


 気づけば、彼は声を殺しながらもくすりと笑っていた。

 ――俺の姿がよほど滑稽なのだろう。


 だが、その笑顔がたまらなく安心できた。

 ああ、この桃花は本物だ。間違いなく“味方”だ。


 俺は震える手で彼の手を握り、ゆっくりと立ち上がった。


 立ち上がった俺は、無意識にズボンの埃を払った。

 長年使われていなかったバスタブの底は、暗がりの中でも分かるほど汚れきっている。


 気持ちが悪い……。


 ズボンについた汚れも、この埃まみれの空気も、そして今、自分が置かれている状況そのものも。

 すべてが胸の底をざらつかせる。

 ――特に、あんな姿になってまで俺につきまとってくる、あの女が。


「桃花……春香が……春香が……」


 うつむき、搾り出すように言うと、桃花は静かに頷いた。

 その顔には、同情よりも、焦燥を押し殺したような影が差している。


「仲間から聞きました。」


「……!」


「起きてしまったことは、もうどうにもできません。今はここから逃げることだけ考えましょう。ここはもう包囲されていますし。」


「包囲……? どういう意味だ。」


 問いかける俺に、桃花は声を落として続けた。


「『怨鬼』に囲まれています。そうだな……分かりやすく言えば……低級の鬼ってところですね。

怨念や死霊に、死害が肉体を与えて動かしている『死害』の操り人形です。僕だけなら簡単なんだけど――コウジさんを守りながらとなると、かなり厳しいかな。すでに数が集まり始めていますし。」


 淡々と告げるその様子は、恐怖よりも現状の把握に徹しているようで、逆に不気味だった。

 だが、外を見ていた俺には、そんな気配など少しも感じなかった。


 それでも――桃花の言うことを疑う気にはもうなれなかった。

 彼の言葉を信じきれなかった結果が、春香のあの姿なのだから。


「どうするんだ……」


 震える声を押し殺して尋ねると、桃花はひとつため息をつき、目を細めた。


「屋上へ向かいましょう。あそこなら仲間を呼べますから。ただ……」


「……?」


「この中はかなりヤバいんです。少し見て回ったんだけど、鏡だらけでした。――罠ですよ。

最初からコウジさんをここに誘い込み、いたぶりながら殺すつもりだった。あの死害……頭がかなり切れますね。」


 その言葉に、背筋を冷たい汗がつうっと流れ落ちた。

 佳菜――あの女の執念は、すでに常軌を逸している。


 寒気が、いつまでも止まらなかった。


 呆然とする俺に、桃花は静かに声をかけた。


「ここにいても事態は悪化します。おそらくもう、僕たちがいる場所はバレてると思いますから。怨鬼たちが動く前に早く出ましょう。コウジさんは、僕の後ろからついて来てください」


「ああ……」


 もはや従うことしかできなかった。


 俺の返事を聞くと、桃花は安心させるような笑みで頷いた。

 まるで“任せろ”とでも言っているかのように。


 桃花を先頭に、俺たちは部屋を出る準備をした。

 彼がそっとドアの隙間から顔を出して外の気配を探る。

 そして手招きで俺を呼んだ。


「コウジさん、行きますよ。見た感じ、死害の気配も怨鬼の気配もないです。廊下に出たらすぐ階段へ向かいましょう」


 俺は黙って頷いた。


 「ギィィィィイ」


 ドアが開く。桃花が廊下へ出る。

 置いていかれないよう、俺は彼の背中を追った。


 ホテルの廊下は不気味なほど静かだった。

 桃花が言った通り、何の気配も感じない。

 だが、それが逆に恐ろしい。


 足音を忍ばせ、階段へと辿り着く。

 わずかに胸の奥が緩むのを感じた。


 ――屋上なら、この階段を上がるだけじゃないか。


 そんな甘い考えが、喉の奥にわずかに浮かんだ。


「上がりますよ」


 桃花が指で上階を示す。

 俺は小声で「行こう」と囁いた。

 あと少しの辛抱……そう願いながら階段を上る。


 カツ、カツ、カツ、カツ――。


 俺と桃花の足音だけが、無音の階段に反響していく。

 息を殺し、ひたすら上を目指した。


 三階を通り過ぎ、四階へたどり着いたとき――違和感に気づく。


 階段がない。


 屋上へ続くはずの階段が、その先に存在していなかった。


「桃花! 階段が……!」


 思わず声を上げると、桃花は大きく息を吐き、表情を真剣なものへ変えた。


「ここからですね。屋上への階段は、この奥の部屋……分かります? あそこからでしか上がれないみたいです。来るとき確認しました」


 指さされた先に視線を移すが、暗闇が深く、奥はよく見えない。

 それでも、行くしかない。


「ここまで来たら行くしかないんだろ。とっとと行こう。……緊張で心臓が持たないからさ」


 軽口めかして言うと、桃花はかすかに笑った。

 冗談のつもりでも、半分は本心だった。

 とにかく、この場の緊張から早く逃れたかった。


 桃花の背に張りつくように、俺は四階の廊下を歩く。


 ガチャ、ガチャ、ガチャ、ガチャ――。


 床には割れた鏡が散乱しており、踏むたびに乾いた音が響く。

 音があまりにも目立ち、心臓が跳ねた。


 周囲の壁には、廃墟らしいスプレーの落書きが無数にあった。


『←この先幽霊でる』


「悪い冗談やめてくれよ……」


 小さくぼやきながら歩いていると、ようやく中ほどにある目的の部屋が見えてきた。

 他の部屋とは違う、妙に重苦しい扉。


「あそこか?」


 桃花の指差す方向を確認し、俺は息を飲んだ。


 ――その瞬間だった。


 床に転がった割れた鏡の中から覗く、赤く光る目が合った。


「桃花!!」


 叫ぶと同時に、桃花が俺を突き飛ばした。


 次の瞬間、俺と桃花の間を裂くように、鏡の奥から巨大な手がヌルリと這い出してきた。


 桃花は身を翻してその腕を避けた。

 だが、背後――床に散る鏡の中から第二の腕が迫り、彼を掴もうと伸びてくる。


 振り向きざま、桃花は蹴りを入れてはね除ける。

 しかし次は天井から足が伸び、彼を押し潰そうと振り下ろされてきた。


 息つく暇もない攻撃を、桃花は紙一重でかわし続ける。

 その身体能力は常軌を逸していた。

 だが――。


「チッ」


 暗闇の奥から、桃花の鋭い舌打ちが聞こえた。

 余裕は……ない。


 静まり返ったホテルの廊下で、次の攻撃がどこから来るのか全く読めない。

 俺は恐怖で身体を硬直させながら、必死に周囲を見回した。


 息が荒くなる。

 心臓は破裂しそうに脈動する。


 あまりに静かすぎる廊下の空気が、恐怖を増幅させていった。


「コウジさん、伏せて!!」


 桃花の叫びが響く。

 俺の背後から――巨大な手が、今まさに迫っていた。


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