七話目 暗闇の攻防
闇の中に立っていたのは――桃花だった。
彼は黒い学生服をまとい、影のようにそこに佇んでいた。昼間に見た彼とは印象がまるで違う。光のない廃ホテルの暗がりでは、同じ姿のはずなのに、どこか異様で、現実から浮き上がったような存在に見えた。
(……なんで、桃花が……? いや、偽物……?)
疑念が脳裏をよぎり、俺は反射的にのけぞった。
すると桃花は、静かに膝を折り、俺と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。そして人差し指を鼻先に添え、息を呑むような小さな声で囁く。
「シッ……」
その仕草に、俺は条件反射で口を手で塞ぎ、身を固めた。
薄暗い風呂場の入口で、桃花の眼鏡がかすかに光る。彼の視線がゆっくりと左右に動き、廊下の奥の気配を探るように、張り詰めた空気が漂った。
「――助けに来ました。」
警戒を緩めることなく、桃花が低く告げた。
「な……なんで、どうしてここが……?」
聞きたいことは山ほどある。だが、まずは目の前の彼が“本物”なのかどうか――それだけでも確かめたかった。
桃花は俺に向き直り、ほとんど囁き声のまま言った。
「ええと、実は俺の仲間に、念のためあなたの部屋を見張らせていました。今日、僕は別の死害の始末で小夜と一緒に動いてて……。仲間から連絡を受けて、これでも急いで来たんです。」
言い終えると、彼はふっと表情を緩めた。昼間と同じ、どこか子どものようにあどけない笑顔。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥の硬直が少しだけ解ける。
桃花はバスタブの中で縮こまっている俺に、そっと手を差し伸べた。
「さ、行きましょう。ここは危険です。」
気づけば、彼は声を殺しながらもくすりと笑っていた。
――俺の姿がよほど滑稽なのだろう。
だが、その笑顔がたまらなく安心できた。
ああ、この桃花は本物だ。間違いなく“味方”だ。
俺は震える手で彼の手を握り、ゆっくりと立ち上がった。
立ち上がった俺は、無意識にズボンの埃を払った。
長年使われていなかったバスタブの底は、暗がりの中でも分かるほど汚れきっている。
気持ちが悪い……。
ズボンについた汚れも、この埃まみれの空気も、そして今、自分が置かれている状況そのものも。
すべてが胸の底をざらつかせる。
――特に、あんな姿になってまで俺につきまとってくる、あの女が。
「桃花……春香が……春香が……」
うつむき、搾り出すように言うと、桃花は静かに頷いた。
その顔には、同情よりも、焦燥を押し殺したような影が差している。
「仲間から聞きました。」
「……!」
「起きてしまったことは、もうどうにもできません。今はここから逃げることだけ考えましょう。ここはもう包囲されていますし。」
「包囲……? どういう意味だ。」
問いかける俺に、桃花は声を落として続けた。
「『怨鬼』に囲まれています。そうだな……分かりやすく言えば……低級の鬼ってところですね。
怨念や死霊に、死害が肉体を与えて動かしている『死害』の操り人形です。僕だけなら簡単なんだけど――コウジさんを守りながらとなると、かなり厳しいかな。すでに数が集まり始めていますし。」
淡々と告げるその様子は、恐怖よりも現状の把握に徹しているようで、逆に不気味だった。
だが、外を見ていた俺には、そんな気配など少しも感じなかった。
それでも――桃花の言うことを疑う気にはもうなれなかった。
彼の言葉を信じきれなかった結果が、春香のあの姿なのだから。
「どうするんだ……」
震える声を押し殺して尋ねると、桃花はひとつため息をつき、目を細めた。
「屋上へ向かいましょう。あそこなら仲間を呼べますから。ただ……」
「……?」
「この中はかなりヤバいんです。少し見て回ったんだけど、鏡だらけでした。――罠ですよ。
最初からコウジさんをここに誘い込み、いたぶりながら殺すつもりだった。あの死害……頭がかなり切れますね。」
その言葉に、背筋を冷たい汗がつうっと流れ落ちた。
佳菜――あの女の執念は、すでに常軌を逸している。
寒気が、いつまでも止まらなかった。
呆然とする俺に、桃花は静かに声をかけた。
「ここにいても事態は悪化します。おそらくもう、僕たちがいる場所はバレてると思いますから。怨鬼たちが動く前に早く出ましょう。コウジさんは、僕の後ろからついて来てください」
「ああ……」
もはや従うことしかできなかった。
俺の返事を聞くと、桃花は安心させるような笑みで頷いた。
まるで“任せろ”とでも言っているかのように。
桃花を先頭に、俺たちは部屋を出る準備をした。
彼がそっとドアの隙間から顔を出して外の気配を探る。
そして手招きで俺を呼んだ。
「コウジさん、行きますよ。見た感じ、死害の気配も怨鬼の気配もないです。廊下に出たらすぐ階段へ向かいましょう」
俺は黙って頷いた。
「ギィィィィイ」
ドアが開く。桃花が廊下へ出る。
置いていかれないよう、俺は彼の背中を追った。
ホテルの廊下は不気味なほど静かだった。
桃花が言った通り、何の気配も感じない。
だが、それが逆に恐ろしい。
足音を忍ばせ、階段へと辿り着く。
わずかに胸の奥が緩むのを感じた。
――屋上なら、この階段を上がるだけじゃないか。
そんな甘い考えが、喉の奥にわずかに浮かんだ。
「上がりますよ」
桃花が指で上階を示す。
俺は小声で「行こう」と囁いた。
あと少しの辛抱……そう願いながら階段を上る。
カツ、カツ、カツ、カツ――。
俺と桃花の足音だけが、無音の階段に反響していく。
息を殺し、ひたすら上を目指した。
三階を通り過ぎ、四階へたどり着いたとき――違和感に気づく。
階段がない。
屋上へ続くはずの階段が、その先に存在していなかった。
「桃花! 階段が……!」
思わず声を上げると、桃花は大きく息を吐き、表情を真剣なものへ変えた。
「ここからですね。屋上への階段は、この奥の部屋……分かります? あそこからでしか上がれないみたいです。来るとき確認しました」
指さされた先に視線を移すが、暗闇が深く、奥はよく見えない。
それでも、行くしかない。
「ここまで来たら行くしかないんだろ。とっとと行こう。……緊張で心臓が持たないからさ」
軽口めかして言うと、桃花はかすかに笑った。
冗談のつもりでも、半分は本心だった。
とにかく、この場の緊張から早く逃れたかった。
桃花の背に張りつくように、俺は四階の廊下を歩く。
ガチャ、ガチャ、ガチャ、ガチャ――。
床には割れた鏡が散乱しており、踏むたびに乾いた音が響く。
音があまりにも目立ち、心臓が跳ねた。
周囲の壁には、廃墟らしいスプレーの落書きが無数にあった。
『←この先幽霊でる』
「悪い冗談やめてくれよ……」
小さくぼやきながら歩いていると、ようやく中ほどにある目的の部屋が見えてきた。
他の部屋とは違う、妙に重苦しい扉。
「あそこか?」
桃花の指差す方向を確認し、俺は息を飲んだ。
――その瞬間だった。
床に転がった割れた鏡の中から覗く、赤く光る目が合った。
「桃花!!」
叫ぶと同時に、桃花が俺を突き飛ばした。
次の瞬間、俺と桃花の間を裂くように、鏡の奥から巨大な手がヌルリと這い出してきた。
桃花は身を翻してその腕を避けた。
だが、背後――床に散る鏡の中から第二の腕が迫り、彼を掴もうと伸びてくる。
振り向きざま、桃花は蹴りを入れてはね除ける。
しかし次は天井から足が伸び、彼を押し潰そうと振り下ろされてきた。
息つく暇もない攻撃を、桃花は紙一重でかわし続ける。
その身体能力は常軌を逸していた。
だが――。
「チッ」
暗闇の奥から、桃花の鋭い舌打ちが聞こえた。
余裕は……ない。
静まり返ったホテルの廊下で、次の攻撃がどこから来るのか全く読めない。
俺は恐怖で身体を硬直させながら、必死に周囲を見回した。
息が荒くなる。
心臓は破裂しそうに脈動する。
あまりに静かすぎる廊下の空気が、恐怖を増幅させていった。
「コウジさん、伏せて!!」
桃花の叫びが響く。
俺の背後から――巨大な手が、今まさに迫っていた。




