六話目 油断
春香がいなくなった部屋に、ぽつんと取り残された。
途端に胸の奥が、じわりと不安に染まっていく。
外では、けたたましく人々の声が交錯していた。
怒鳴り声、悲鳴、走る足音――混沌とした騒ぎが、夜の静けさを完全に食い尽くしていた。
鼻を突く焦げ臭さが部屋を満たしている。
おそらく、道を挟んだ向かいの家が火元なのだろう。
煙はまだ入ってきてはいないが、鼻の奥にまとわりつくような焦げた匂いに思わず顔をしかめる。
台所へ向かい、換気扇のスイッチを押したが――焼け石に水だった。
むしろ空気の流れが匂いを部屋じゅうに拡散させてしまう。
「……遅いな、春香」
小さく呟いた声が、やけに部屋に響いた。
“すぐに戻る”――そう言って出て行った春香が、なかなか帰ってこない。
まだ五分ほどしか経っていないはずなのに、妙に長く感じる。
不安を抑えきれず、俺はカーテンへと手を伸ばした。
静かに布を掴み、ゆっくりと隙間を作る。
――その瞬間、目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
向かいの家は、真っ赤に焼けていた。
窓ガラスを破り、炎が獣のように咆哮を上げて夜空へと伸びている。
黒煙が渦を巻き、空気を震わせながらゆらゆらと揺れる。
消防士たちが必死にホースを構え、叫びながら消火にあたっていた。
その外側には、深夜にも関わらず野次馬が集まり、ざわめきは波のように押し寄せていた。
「……凄いな。大丈夫なのか、あれ……」
思わず呟き、眉をひそめる。
その時だった。
――ガチャッ。
玄関の鍵が回る音がした。
……春香?
反射的に玄関の方へ視線を向ける。
ドアが、ゆっくりと開いた。
「浩二くん、凄いよ。向かいの家、すごいことになってる!」
明るい声。
続いて、靴を脱ぐ音。
床を踏む軽い足音が、リビングへと近づいてくる。
「今、俺も見てるよ。すげえな、これ……明日ニュースになるぞ」
俺は苦笑しながら再び窓の外を見た。
炎の色が強まっている。
と、その時――背後で、リビングのドアが静かに開いた音がした。
「浩二くん……」
声の調子が違っていた。
いつもの彼女の声ではない。
振り返ると、そこに立っていた春香が、俺を指さしながら震えていた。
「どうした、春香?」
問いかける声が、自分でも驚くほど掠れていた。
春香の目は、俺ではない“何か”を見ているようだった。
その指の先を追って――俺は気づいた。
窓ガラスに反射する“それ”に。
――俺のすぐ背後に、佳菜がいた。
いや、それはもう佳菜ではなかった。
桃花はあれを『死害』、そして『鬼』と呼んでいたが――鏡の中にいた彼女は、まさにその“鬼”そのものだった。
裂けた口の隙間からは黒い霧が漏れ、赤黒く変色した髪の奥からは血に染まった二本の角がねじれるように突き出している。
そして何より、赤く発光する眼光が、俺だけを確実に捉えていた。
膝がガクガクと震える。
油断していたのだ。
明け方まであと僅かだから大丈夫――
もう出ない――
鬼なんて所詮は作り話だ――
そんな甘い考えで、俺は外の騒ぎに気を取られ、無防備にカーテンを開け広げてしまっていた。
――もう遅い。
俺が“気づいた”ことを知ったかのように、鏡の中の佳菜が不気味な笑みを浮かべ、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
尻を床に落としながら、俺は情けなく後ろへと這い下がった。
だが逃げ場はない。
鏡の表面を破るように、佳菜の腕が現実へと突き出てきた。
その手は異様に大きく、爪は猛禽類を思わせるほど長く鋭い。
色は死人のように青白く、そこには“生”の気配は欠片ほども存在しなかった。
「た、助け……春香……!」
俺は振り向き、春香へと這うように手を伸ばす。
情けなくとも、惨めでもいい。
――死にたくない。
ただその一心だった。
春香も震える手を伸ばし、俺の手を掴もうとする。
そして触れた。
互いの指が絡み、暖かい感触が伝わった瞬間――
佳菜の腕が、ニュルリと伸び、俺の身体をすり抜けて春香の身体を鷲掴みにした。
「えっ……? なんで……」
絶句して振り返った俺の眼に飛び込んできたのは、裂けた口を吊り上げ黒い霧を漏らしながら笑う佳菜の姿だった。
狙いは俺ではなかったのだ。
春香――。
最初から春香が目的だった。
「いやだ、春香! 離すなっ!!」
俺は必死で彼女の手を両手で掴んだ。
引き戻そうと力を込めるが、何の意味もなかった。
春香は訳が分からないという顔で、恐怖と混乱に染まった目で俺を見つめたまま、一瞬で窓の方向へ引きずられていった。
俺の手が、離れる。
声が出なかった。
喉が震えているのに、声帯が動かない。
「ガシャァァン!!」
ベランダへ続く窓ガラスが爆ぜるように砕け散った。
春香の身体が、夜の闇へと放り出される。
悲鳴を上げる暇すらなく、ただ俺の方へと必死に伸ばされた両手だけが空中を切り裂いていた。
背後には火事の炎が揺れ、春香の表情を血のように真っ赤に染め上げる。
そして彼女は、ベランダの影へと消えていった。
「キャーーーーッ!!」
「人が落ちた!! 誰かっ、早く!!」
下から上がる悲鳴の渦が、割れた窓の向こうから押し寄せてくる。
「……はる、か……?」
ようやく絞り出した声が震えた。
一瞬の出来事だった。
走馬灯のように長く感じられたが、実際にはほんの一瞬。
「なんで……春香が……」
呆然と呟いたその時――
それはベランダに“いた”。
燃え盛る炎を背景に、佳菜が現実世界に姿を現した。
裂けた口をゆがませ、血に濡れたような笑みを浮かべながら、じり、と部屋へ踏み込んでくる。
「う、うわああああああああ!!」
俺は絶叫し、立ち上がって玄関へ駆け出した。
靴をまともに履く余裕もなく、足先だけ突っ込んでドアノブを捻る。
だが――開かない。
鍵をかけたままだ。
振り返る。
佳菜が、もうそこにいた。
「ひっ……!」
震える手で鍵を回す。
カチャッ。
ドアが開くや否や、俺は転びそうになりながら外へ飛び出した。
階段を滑り落ちるように駆け下り、そのまま駐輪場へと走り込む。
必死に鍵を探り、バイクに跨る。
春香のことが頭をかすめ、胸が裂けそうになるが――
今は、とにかく逃げるしかない。
アクセルを回す。
バイクが夜の闇を切り裂いて走り出す。
走りながら、一瞬だけ目に入った。
人だかり。
悲鳴。
その中心にあるべきものを思うと、涙が頬を伝った。
「ごめん……ごめん春香……!」
何度も何度も謝りながら、俺は山道を上がっていく。
人のいない場所へ――
鏡のない場所へ――
それ以外に、生き延びる方法は思いつかなかった。
どれほど走ったか分からない。
気がつけば深い山中。
月も出ていない。
バイクのライトを消せば、そこは完全な闇だ。
だが、その闇が逆に俺を安心させた。
ここなら鏡はない。
あの化け物は出てこれない。
そう思った途端、緊張が緩み、アクセルを緩めた。
ふう、と吐いた息が白く散る。
春香は……助かっただろうか。
二階だから……打ち所が悪くなければ……
そんな淡い希望だけが、俺をどうにか支えていた。
――その時。
ぞくり。
背筋に、氷を押し当てられたような寒気が走った。
“見られている”。
反射的に視線をそちらへ向ける。
そこに――
鏡があった。
ずっと俺のすぐそばに、鏡が。
バイクのサイドミラー。
その小さな鏡の中で、
巨大な赤い眼が、じっと俺を見つめていた。
あまりに突然の出来事に、俺は身体のバランスを崩し、バイクごと横倒しになった。
「うわッ!」
アスファルトに擦れる激しい音と共に、バイクが横滑りし、ガードレールの隙間に突っ込むようにして止まった。
「痛っ……!」
俺も投げ出される形で地面に叩きつけられた。膝と腕を派手に擦りむいたが、スピードが出ていなかったのが幸いだった。鈍い痛みに顔をしかめながらも、俺はすぐに立ち上がれた。
足を引きずりつつバイクに近づく。さっき確かに見た、サイドミラーに映った‘‘大きな目‘‘。ミラー全体を覆い尽くすように俺を覗き込んでいたはずだ。
しかしいま、その目は跡形もなく消えている。
――いや、消えたわけではなかった。
その瞬間だった。
ぬるり、と。
サイドミラーの中から腕が生えた。
黒ずんだ肌、指先は異様に細く長い。ついで、もう一本の腕がミラーの底からずるりと這い出してくる。アスファルトに触れた爪が、ガリリ、と地面を削った。
俺は反射的に走り出していた。
身体の痛みなど関係なかった。振り返る余裕もなく、とにかくこの場から逃げないと――その恐怖だけが俺の足を動かした。
暗い山道を必死に駆け、脇道に逸れたところで、俺は視界に飛び込んできた建物に思わず足を止めた。
廃ホテル。
四階建てのコンクリートはひび割れ、外壁のペンキは剥がれ、鉄の階段は赤茶色に錆びついている。蔦が建物に絡みつき、まるで巨大な獣の死骸が自然に還っていく途中のようだった。
かつてはラブホテルだったのだろう。色あせた看板には『ベ…ス…』と消えかけた文字がかろうじて残っている。どの窓も真っ黒で、月のない夜に浮かぶその姿は、不気味そのものだった。
俺は入口の前で立ち尽くした。
戻るべきか。
いや、戻れば佳菜に追いつかれる――。
恐ろしさが勝った。仕方なく、俺はその廃ホテルへと身を滑り込ませた。
扉は壊れて半開きで、押すとギィ……と長く軋んだ音を立てる。途端に、むせ返るようなカビと腐敗の匂いが鼻を突いた。湿った埃が舞い、喉がざらつく。
一階は広いロビーのようになっていたが、天井は抜け、家具は朽ちて原型をとどめていない。床にはガラス片と湿った紙くずの山。奥の壁には落書きと、黒くなってこびりついた手形のような跡まである。
――ここにいたくない。
そう思いながらも、俺は急いで階段へ向かった。足音を最低限にしながら、暗い階段を三階まで上がる。
三階の廊下はさらに酷かった。壁紙は剥がれ落ち、天井からは断熱材が垂れ下がっている。腐りかけた絨毯を踏むたび、じゅく……と不快な音がした。
そのうちの一室、窓際にある部屋の扉がわずかに開いていた。俺は迷わずそこへ飛び込み、窓の影に身を潜めるようにして外を覗いた。
周囲は闇に沈み、虫一匹鳴いていない。風もない。
本当に世界が止まったのではないかと錯覚するほどの無音。
俺の心臓だけが、異様に大きく、はっきりと響いていた。
ドクッ……ドクッ……ドク、ドク……
外面の静けさとは対照的に、自分だけが異様に生き急いでいるような錯覚に襲われる。
スマホも、時計もない。急いで出てきたせいで全部部屋だ。
――何時だ?
――夜明けまで、あとどれくらい?
わからない。不安だけが膨らみ続ける。
そのときだった。
「カチャ……カチャ……」
廊下の奥から、ゆっくりとした足音が響いた。
心臓が跳ね上がる。喉が音を立てて鳴り、息が詰まる。
もう、来てしまったのか。
ヤツが、このホテルの中に……。
あるいは本当に浮浪者か。
だが、確かめる勇気などない。
逃げ場はない。
助けもない。
俺は風呂場に滑り込み、扉すらないその空間の奥――バスタブの中に身体を押し込んでうずくまった。冷たく湿った陶器の感触が背中を刺す。
息を噛み殺し、頭を抱え、ただ願う。
(……通り過ぎてくれ。頼む……通り過ぎてくれ……)
足音は、迷いなく俺のいる部屋へ近づいてくる。
コツ……コツ……コツ……
心臓が早鐘を打つ。胸が破れそうだ。
「ギィィ……」
部屋のドアが開いた。
足音が室内を歩き回る。
拾い食いする獣のように、何かを探し回っている気配。
そして――
コツ……
風呂場の入口の前で、足音が止まった。
息が止まる。
暗闇の中、声がした。
「……コウジさん……」
聞こえるはずのない声。
この山中の廃ホテルで聞くはずのない声。
俺はゆっくりと頭を上げた。
そこに、薄闇の中でぼんやりと浮かび上がっていたのは――
桃花の顔だった。




