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闇に咲く桃花  作者: しんいち
一章 勝又 江利香

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三話目 黒い影の怪物

町の灯りが視界に入った瞬間、私はようやく安堵の息を漏らした。

まだ距離はある。だが確かに光がある――人の暮らしの、温もりの痕跡が、そこにはある。


私は木に背を預け、肩で荒い息を吐きながら空を仰いだ。


雲ひとつない夜空に、月が浮かんでいた。

美しかった。あまりにも、静かで、穏やかで、私とは対照的に、傷一つない顔をしていた。

ボロボロの私を、何の感情もなく見下ろしている。


……和也は? 徹は? 伸治は、本当に“あれ”に喰われてしまったのか?

それともあれは、ただのイタズラ。

本当はあの井戸は浅く、私と美弥を脅かそうと隠れただけなのでは。


もしかしたら実は美弥も一枚噛んでいて、逃げる降りをして何処かに隠れて、私の事を笑っているのでは。


明日学校に行ったら、「エリカ騙されてやんの」なんて、誰かが馬鹿にするように笑って言ってくれるかもしれない。

そんな淡くて脆い幻想が、ふと脳裏に浮かび、すぐにひび割れて崩れていった。


……私が誘わなければ。

あんな遊びに、みんなを巻き込まなければ。

肝試しなんて、くだらない悪ふざけをしなければ。

もしかしたらこれは、過去の悪行に対する“罰”なのかもしれない。


私は知らず知らずのうちに、声に出していた。


「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……

ごめんなさい、ごめんなさい……ほんとうに、ごめんなさい……

許して……みんな……ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい……」


その言葉は懺悔から命乞いへと、次第にか細く変化していく。


目の前に、“それ”はいた。


闇の中に立ち尽くす、異形の影。

人間のかたちをしているようで、していない。

黒い靄に包まれたその巨体は、ゆうに三メートルを超えている。

バスケットゴールのはるか上、そこに、二つの目があった。

赤く、鈍く、じっと私を見下ろしている。


理性の奥から、骨がきしむような恐怖がせり上がる。

脚が震え、冷え切った涙が頬を伝っては止まらない。

身体が、自分のものではないように感じられた。


「助けて……助けて……」

そう思ったときには、もう声すら出せなくなっていた。


「バキッ……バキッ……」


木が砕ける音が、夜の静寂を踏み荒らす。

“それ”はゆっくりと、だが確実にこちらへ歩を進めてきた。大地がわずかに軋み、木の葉が触れ合って鳴る音までもが、その存在を恐れているかのように思えた。


私の目の前で“それ”は腰をかがめた。

黒煙に包まれた巨大な影。その顔が、私のすぐ近くに迫ってくる。


そして、赤い光がこちらを射抜いた。


目だった。あれは紛れもなく“目”だった。

血のように赤く充血した白目に、真っ黒な瞳が沈んでいる。

その視線が私と交わる。冷たく、そしてどこか満足げに、怯える私をじっくりと観察している。まるで獲物の苦悶を味わう捕食者のように。


「……助けて……助けて……助けて……」


それは祈りだったのか、願いだったのか。

あるいは、ただの音だったのかもしれない。

小さく、震える声が喉から漏れた。だが、“それ”に届いているとは思えなかった。


やがて、“それ”の瞳が細められた。

……笑っている。

口元は見えない。けれど、確かにその目が、ニヤリと笑っていた。

ぞっとするほど、楽しそうに。


そして、影が、動いた。

私へと手を伸ばしてくる。


その瞬間、黒煙の中から何かが見えた。

一瞬だけ姿を覗かせたその手は、人間のものではなかった。

生気のない青白い人の皮膚をかぶったような異形の腕。指先には刃物のような鋭い爪。

ようやく理解した。“影”と思っていたものは、“それ”から立ち昇る黒い煙だったのだ。


そしてその手が、私を掴んだ。


「――ッ!」


息が詰まる。

背中が冷え、心臓が凍りついた。


私は空中に持ち上げられた。首筋から冷たい汗が流れ落ちる。

脚が宙に浮き、世界がぐらりと傾いた。


(喰われる……私、喰べられる……!)


全身が震え、思考が崩壊する。

身体の奥から、底知れぬ恐怖が溢れ出した。


「やめて!離せ!離せ!……離せェ!!」


声が掠れ、喉が裂けそうだった。

私は必死に暴れた。手足をばたつかせ、“それ”の指を引き剥がそうと必死に抵抗する。


だが、その手はまるで動かない。

押しても叩いても、それはまるで死んだ木の枝のように冷たく、固かった。

人間の皮をかぶった無機質な“それ”に、私の力など何の意味もなさなかった。


“それ”は……そんな私を見て、愉しんでいる。

怯える私を、抵抗する私を、まるでおもちゃのように。

ねじれた嗜虐心をもって、じっと観察していた。


それでも、私は抵抗をやめなかった。

それが“生”の本能というものなのだろう。

食べられたくないその恐怖の中で、私はなおも暴れ、手足をばたつかせていた。


「嫌だ……! 食べられたくない……! こんな……こんな死に方、絶対に嫌だ……! お願い、もう許してよ……!」


叫び声は喉を裂き、空気を切り裂いて虚空に消えていく。

だが、“それ”の耳には届いていないようだった。

私を捕らえる無機質な指に向かって、私は何度も、何度も、無意味に手を叩きつけた。


そして……

その指が、絞めつけてきた。


まるで真綿のように、ゆっくりと、だが確実に。

骨が軋む。肺が圧迫される。呼吸が細くなる。

世界が遠のいていく。


「やめて……やめて……やめて……ッ」


私は懇願するように叫びながらも、指を押し返す。だが……まるで石のようだった。

その指は、私の力など羽虫の抵抗とでも言いたげに、容赦なく、締め上げてくる。


「ヴッ、ヴ……ヴ……」


空気が吸えない。声にならない声が喉の奥で泡立つ。

そして私は……、抵抗を、やめた。


くだらない人生だった。

たった一つの挫折で、すべてが崩れた。

心配してくれた教師も、両親も、私は全てを嘲り、捨てた。

悪い仲間に溺れ、憂さ晴らしのように悪事を重ねた。

弱い子をいじめ、学校に来られなくさせたこともある。

あの子の目を、私は見ようともしなかった。


何もかもが、どうでもよかった。

世の中も、自分自身も、どうしようもない私という存在も、全部。


そして今、私は自分の命も諦めた。


走馬灯のようにくだらない過去が脳裏を駆け巡る。

私は全てを手放し、首を垂れ、ただ終わりを待っていた。

痛い……けど、それすらももうどうでもいい。

せめて、早く終わってほしい、そう思っていた。


“それ”の赤黒い瞳が、変わらぬ冷たさで私を見つめている。

そして、抵抗をやめた私の体を高く吊り上げた。


その下には穴があった。

黒々とした地獄の口が開き、牙のような岩が並び、その奥には何も見えない闇が、どこまでも続いていた。


“それ”が口を開いた。裂けるように、広がるように、空間が軋む音すら聞こえる。

私を喰らうために、準備を整えていた。


……けれど、不思議と恐怖はなかった。

ただ、静かに願っていた。


(せめて、一瞬で……)


その瞬間だった。


「ウギャアァァァ!!」


世界が揺れた。

自分の身体が、何かに弾かれるように空中を飛び、そして


ドン、と地面に叩きつけられた。


「……っ痛い……えっ……な、なに……?」


頭がついていかない。

さっきまで、私は“それ”に掴まれていた。喰われる寸前だったはず。

それが今、なぜ地面に?


「ウギャアァァ! ウアアアアア!!」


断末魔のような叫びが響き、私はその声のする方へと顔を向けた。


“それ”が、暴れていた。


黒煙を撒き散らしながら、苦しげに身をくねらせ、周囲の木々をなぎ倒している。

その腕には右腕が、なかった。


私はとっさに周囲を見渡した。そして、目にした。


自分のすぐ横に、それは転がっていた。


巨大な手。青白く、生気のない皮膚。

先ほど私を掴んでいた“それ”の腕だ。だが、どうやって……?


私は息を呑み、声も出せずに、ただその異様な光景を見つめていた。


そして、背後に何かの、気配を感じ振り返る。


「君、大丈夫?」


声をする方へと視線を移す。

そこには一人の男の子が立って、私に手を差し出していた。

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