三話目 黒い影の怪物
町の灯りが視界に入った瞬間、私はようやく安堵の息を漏らした。
まだ距離はある。だが確かに光がある――人の暮らしの、温もりの痕跡が、そこにはある。
私は木に背を預け、肩で荒い息を吐きながら空を仰いだ。
雲ひとつない夜空に、月が浮かんでいた。
美しかった。あまりにも、静かで、穏やかで、私とは対照的に、傷一つない顔をしていた。
ボロボロの私を、何の感情もなく見下ろしている。
……和也は? 徹は? 伸治は、本当に“あれ”に喰われてしまったのか?
それともあれは、ただのイタズラ。
本当はあの井戸は浅く、私と美弥を脅かそうと隠れただけなのでは。
もしかしたら実は美弥も一枚噛んでいて、逃げる降りをして何処かに隠れて、私の事を笑っているのでは。
明日学校に行ったら、「エリカ騙されてやんの」なんて、誰かが馬鹿にするように笑って言ってくれるかもしれない。
そんな淡くて脆い幻想が、ふと脳裏に浮かび、すぐにひび割れて崩れていった。
……私が誘わなければ。
あんな遊びに、みんなを巻き込まなければ。
肝試しなんて、くだらない悪ふざけをしなければ。
もしかしたらこれは、過去の悪行に対する“罰”なのかもしれない。
私は知らず知らずのうちに、声に出していた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……
ごめんなさい、ごめんなさい……ほんとうに、ごめんなさい……
許して……みんな……ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい……」
その言葉は懺悔から命乞いへと、次第にか細く変化していく。
目の前に、“それ”はいた。
闇の中に立ち尽くす、異形の影。
人間のかたちをしているようで、していない。
黒い靄に包まれたその巨体は、ゆうに三メートルを超えている。
バスケットゴールのはるか上、そこに、二つの目があった。
赤く、鈍く、じっと私を見下ろしている。
理性の奥から、骨がきしむような恐怖がせり上がる。
脚が震え、冷え切った涙が頬を伝っては止まらない。
身体が、自分のものではないように感じられた。
「助けて……助けて……」
そう思ったときには、もう声すら出せなくなっていた。
「バキッ……バキッ……」
木が砕ける音が、夜の静寂を踏み荒らす。
“それ”はゆっくりと、だが確実にこちらへ歩を進めてきた。大地がわずかに軋み、木の葉が触れ合って鳴る音までもが、その存在を恐れているかのように思えた。
私の目の前で“それ”は腰をかがめた。
黒煙に包まれた巨大な影。その顔が、私のすぐ近くに迫ってくる。
そして、赤い光がこちらを射抜いた。
目だった。あれは紛れもなく“目”だった。
血のように赤く充血した白目に、真っ黒な瞳が沈んでいる。
その視線が私と交わる。冷たく、そしてどこか満足げに、怯える私をじっくりと観察している。まるで獲物の苦悶を味わう捕食者のように。
「……助けて……助けて……助けて……」
それは祈りだったのか、願いだったのか。
あるいは、ただの音だったのかもしれない。
小さく、震える声が喉から漏れた。だが、“それ”に届いているとは思えなかった。
やがて、“それ”の瞳が細められた。
……笑っている。
口元は見えない。けれど、確かにその目が、ニヤリと笑っていた。
ぞっとするほど、楽しそうに。
そして、影が、動いた。
私へと手を伸ばしてくる。
その瞬間、黒煙の中から何かが見えた。
一瞬だけ姿を覗かせたその手は、人間のものではなかった。
生気のない青白い人の皮膚をかぶったような異形の腕。指先には刃物のような鋭い爪。
ようやく理解した。“影”と思っていたものは、“それ”から立ち昇る黒い煙だったのだ。
そしてその手が、私を掴んだ。
「――ッ!」
息が詰まる。
背中が冷え、心臓が凍りついた。
私は空中に持ち上げられた。首筋から冷たい汗が流れ落ちる。
脚が宙に浮き、世界がぐらりと傾いた。
(喰われる……私、喰べられる……!)
全身が震え、思考が崩壊する。
身体の奥から、底知れぬ恐怖が溢れ出した。
「やめて!離せ!離せ!……離せェ!!」
声が掠れ、喉が裂けそうだった。
私は必死に暴れた。手足をばたつかせ、“それ”の指を引き剥がそうと必死に抵抗する。
だが、その手はまるで動かない。
押しても叩いても、それはまるで死んだ木の枝のように冷たく、固かった。
人間の皮をかぶった無機質な“それ”に、私の力など何の意味もなさなかった。
“それ”は……そんな私を見て、愉しんでいる。
怯える私を、抵抗する私を、まるでおもちゃのように。
ねじれた嗜虐心をもって、じっと観察していた。
それでも、私は抵抗をやめなかった。
それが“生”の本能というものなのだろう。
食べられたくないその恐怖の中で、私はなおも暴れ、手足をばたつかせていた。
「嫌だ……! 食べられたくない……! こんな……こんな死に方、絶対に嫌だ……! お願い、もう許してよ……!」
叫び声は喉を裂き、空気を切り裂いて虚空に消えていく。
だが、“それ”の耳には届いていないようだった。
私を捕らえる無機質な指に向かって、私は何度も、何度も、無意味に手を叩きつけた。
そして……
その指が、絞めつけてきた。
まるで真綿のように、ゆっくりと、だが確実に。
骨が軋む。肺が圧迫される。呼吸が細くなる。
世界が遠のいていく。
「やめて……やめて……やめて……ッ」
私は懇願するように叫びながらも、指を押し返す。だが……まるで石のようだった。
その指は、私の力など羽虫の抵抗とでも言いたげに、容赦なく、締め上げてくる。
「ヴッ、ヴ……ヴ……」
空気が吸えない。声にならない声が喉の奥で泡立つ。
そして私は……、抵抗を、やめた。
くだらない人生だった。
たった一つの挫折で、すべてが崩れた。
心配してくれた教師も、両親も、私は全てを嘲り、捨てた。
悪い仲間に溺れ、憂さ晴らしのように悪事を重ねた。
弱い子をいじめ、学校に来られなくさせたこともある。
あの子の目を、私は見ようともしなかった。
何もかもが、どうでもよかった。
世の中も、自分自身も、どうしようもない私という存在も、全部。
そして今、私は自分の命も諦めた。
走馬灯のようにくだらない過去が脳裏を駆け巡る。
私は全てを手放し、首を垂れ、ただ終わりを待っていた。
痛い……けど、それすらももうどうでもいい。
せめて、早く終わってほしい、そう思っていた。
“それ”の赤黒い瞳が、変わらぬ冷たさで私を見つめている。
そして、抵抗をやめた私の体を高く吊り上げた。
その下には穴があった。
黒々とした地獄の口が開き、牙のような岩が並び、その奥には何も見えない闇が、どこまでも続いていた。
“それ”が口を開いた。裂けるように、広がるように、空間が軋む音すら聞こえる。
私を喰らうために、準備を整えていた。
……けれど、不思議と恐怖はなかった。
ただ、静かに願っていた。
(せめて、一瞬で……)
その瞬間だった。
「ウギャアァァァ!!」
世界が揺れた。
自分の身体が、何かに弾かれるように空中を飛び、そして
ドン、と地面に叩きつけられた。
「……っ痛い……えっ……な、なに……?」
頭がついていかない。
さっきまで、私は“それ”に掴まれていた。喰われる寸前だったはず。
それが今、なぜ地面に?
「ウギャアァァ! ウアアアアア!!」
断末魔のような叫びが響き、私はその声のする方へと顔を向けた。
“それ”が、暴れていた。
黒煙を撒き散らしながら、苦しげに身をくねらせ、周囲の木々をなぎ倒している。
その腕には右腕が、なかった。
私はとっさに周囲を見渡した。そして、目にした。
自分のすぐ横に、それは転がっていた。
巨大な手。青白く、生気のない皮膚。
先ほど私を掴んでいた“それ”の腕だ。だが、どうやって……?
私は息を呑み、声も出せずに、ただその異様な光景を見つめていた。
そして、背後に何かの、気配を感じ振り返る。
「君、大丈夫?」
声をする方へと視線を移す。
そこには一人の男の子が立って、私に手を差し出していた。




