五話目 立てこもり
桃花たちと別れた俺と春香は、足早に帰路についていた。
桃花の話では――日があるうちはまだ大丈夫、とのことだった。
途中でコンビニに寄り、飲み物や簡単な食料を買い揃える。
外はすでに陽が傾きかけており、街の影がゆっくりと伸びていく。
焦るような気持ちを押さえながら、俺たちは急いでアパートへ戻った。
部屋に入ると、まだ十六時前。
外は薄橙に染まり始めたが、完全な夕暮れには早い。
それでも胸の奥に、じわじわとした不安が広がっていく。
俺と春香は無言のまま、再び部屋の中を見回した。
少しでも“鏡”になりそうなもの――光を反射するものがないか確認する。
テレビ台の下のラック、時計の文字盤、
そして春香と笑顔で写っている写真立てにまで、ガムテープを貼り付けていった。
貼れる場所は、もうなかった。
すべての作業を終えたころには、窓の外の光が少しずつ朱に染まり始めていた。
俺はカーテンを閉め切り、テーブルの椅子に腰を下ろした。
「春香も、もう帰れよ。俺といると危ないかもしれない。」
そう言うと、彼女はきっぱりと首を横に振った。
「いるわよ。心配だもん。それに――朝までどう過ごすつもり?
夜が明けるまで、あと十二時間くらいあるのよ。暇潰しの相手になってあげる。」
そう言って、彼女はどかっと俺の向かいに座り込んだ。
こうなったら、もう彼女は何を言っても聞かない。
付き合ってまだ日が浅いとはいえ、そういう頑固な性格なのはよく知っている。
「……ありがとう。」
俺はその好意に甘え、静かにそう呟いた。
彼女は気を遣って、いつものように明るくたわいもない話を振ってくる。
俺もできるだけ普段どおりに返し、笑いながら話を続けた。
少しずつ、張り詰めた空気が和らいでいくような気がした。
コンビニで買ったおにぎりやスナックを食べ、
まったりとした空気が流れ始めたそのときだった――。
――ピンポーン。
家の玄関から、チャイムの音が響いた。
俺と春香は、同時に顔を見合わせた。
空気が、一瞬で凍りつく。
この時間に、誰が来るというのだろう。
俺と春香は、息を潜めた。
――ピンポーン。
再び、チャイムの音が部屋の中に響く。
張り詰めた空気が、さらに重く沈み込んだ。
俺たちは顔を見合わせた。
最初に動いたのは、春香だった。
彼女はそっと人差し指を唇に当て、
「静かに」と目で訴える。
俺が小さく頷くと、春香は音を立てぬように立ち上がり、
ゆっくりと玄関へ向かった。
きしむ床板が、まるで心臓の鼓動のように耳に響く。
春香はドアの前に立ち、慎重にドアスコープを覗いた。
そして、振り返り俺の方に視線を送る。
「見ろ」と指先で合図した。
促されるまま、俺はそっと彼女と入れ替わり、
ドアスコープを覗き込む。
そこに立っていたのは――大学の友人、中嶋だった。
ちょうど彼はもう一度チャイムを押そうとしていた。
その指先が動くと同時に、また室内に「ピンポーン」という音が響き渡る。
ガチャ……ガチャ……。
ドアノブを回す音が、静かな部屋の中でやけに大きく響いた。
「おーい、松本! いるのか? 無事なのか?」
聞き慣れた声だった。
大学にもここ数日顔を出していない俺を、心配して来てくれたのだろう。
安堵の気持ちが胸を満たし、
俺は思わず表情を緩めてしまった。
――カチャ。
ドアノブに手をかけようとした、その瞬間。
春香の手が、俺の手首を強く掴んだ。
「……!」
彼女は無言のまま首を横に振った。
その表情には、はっきりとした警戒の色が浮かんでいた。
言葉にはしなくとも、彼女の言いたいことは分かった。
――“偽物かもしれない”。
俺は小さく頷き、ドアから身を引いた。
沈黙が続く。
中嶋の声も、チャイムの音も、それっきり聞こえなくなった。
恐る恐る、もう一度ドアスコープを覗く。
だが、そこにはもう誰の姿もなかった。
廊下の奥まで、静まり返っている。
「……ふう〜」
俺と春香は同時に息を吐き出した。
張り詰めた緊張の糸が、ようやくほどけていく。
春香が小さく笑い、俺もつられるように口元を緩めた。
本物の中嶋だったのかもしれない。
けれど――用心に越したことはない。
彼には、明日きちんと謝ればいいのだから。
リビングに戻り、俺と春香は無言のまま席についた。
「……怖いね」
春香が小さく呟く。その声には、わずかに震えが混じっていた。
「うん……」
俺も小さな声で返す。
沈黙が、部屋の空気をさらに重くした。
息をする音さえ気になるほど、静まり返っている。
耐えきれず、俺は立ち上がり、机の引き出しを開けた。
少しでも、この張り詰めた空気を変えたかった。
「……トランプでもするか?」
顔を上げて彼女に尋ねると、春香は一瞬きょとんとした後、ふっと笑みを見せた。
「うん、いいね。」
思い付きで始めたトランプだったが、意外にも盛り上がった。
ババ抜き、大富豪、七並べ……。
小さな笑い声が、久しぶりに部屋に戻ってきた。
「ずるい浩二、それはなしでしょ!」
頬をふくらませる春香に、俺は笑いながらカードを見せつけた。
そんな穏やかな時間が、しばらく続いた。
「春香、今、何時?」
「ええと……もうすぐ一時になるかも。」
春香は腕時計を覗きながら答えた。
――夜明けまで、あと四時間。
外は深夜特有の静けさに包まれていた。
遠くの方で、時折車の走る音が聞こえるだけだ。
何も起きていない。
このまま、何事もなく朝を迎えられるのではないか――
そんな油断が、少しずつ胸の中に広がっていく。
昼間に出会った、あの少年・桃花の言葉が頭をよぎる。
「今夜が危ない」と言われたが……本当にそんな偶然、あるのだろうか。
そのときだった。
――外が、ざわめき始めた。
最初は風の音かと思った。
だが、すぐに違うと分かった。
人の声が混じっている。叫びにも似た声。
次の瞬間、遠くからサイレンが響いてきた。
近づいてくる。どんどん近づいてくる――。
その音は、消防車のものだった。
俺たちは顔を見合わせた。
そして、カーテンの隙間から外を覗こうとしたが、
その前に赤い光が窓一面に反射し、部屋の中を血のように染め上げた。
「……火事?」
春香が小さく呟いた。
消防車が一台、また一台と到着し、外の騒ぎは一層大きくなる。
人々の叫び声、走る足音、焦げた匂い――。
それらが、次第にこの部屋にまで流れ込んできた。
「どうする……? 外、見たほうがいいか?」
俺の問いに、春香はしばらく考え込んだ後、
決意を固めたように顔を上げた。
「私、見てくる。浩二くんは、私が出たらすぐにドアを閉めて。
私は鍵を持ってるから大丈夫。
……誰が来ても、開けちゃダメよ。」
「春香、分かった。すぐ戻ってこい。」
彼女は力強く頷き、俺と一緒に玄関まで向かった。
扉の前で、一度だけ深呼吸をする。
金属の擦れる音がして、鍵がゆっくりと回る。
ギィ……と音を立てて、扉がわずかに開いた。
春香は、細い隙間から外を覗き込む。
「……何も、ない」
小さくそう呟いた彼女に、俺はわずかに安堵の息を吐いた。
だが、春香は靴を履きながら、もう一度俺に向き直った。
「じゃあ行くね。すぐ戻るから。」
その言葉を最後に、彼女は外へ出ていった。
俺は扉を閉め、すぐに鍵をかけた。
静まり返った部屋の中――
わずかに漂う焦げ臭い匂いと、
遠くで鳴り響くサイレンの音だけが、現実を告げていた。




