四話目 鏡の中から
「それで、二日前のことなんだ……」
俺は、痣の残る腕をぎゅっと握りしめながら、桃花にあの夜の出来事を話し始めた。
――二日前の夜。
俺は春香と食事に出かけていた。
食欲はほとんどなかったが、
「ご飯食べてないんでしょ。私が奢るから、付き合ってよ」
そう言われ、彼女の気持ちを無下にできず、誘いに応じた。
店は、少し高めの洒落たレストランだった。
夜景の見える窓際の席で、ワインの香りと静かな音楽が流れている。
「ここ、一度来てみたかったんだ」
春香が笑顔でそう言った。
俺は、彼女の明るさに引っ張られるように、
無理に口角を上げて「そうか」とだけ返した。
食事を終えたあと、トイレに立った。
用を足し、手を洗い、ふうっと息をついて鏡を見た――その瞬間だった。
鏡の中に、“佳菜”がいた。
いや、あれは佳菜ではなかった。
顔の皮膚は裂け、半分が黒く膨れ上がり、
眼は血のように赤く濁り、歯の隙間からは黒煙のようなものが漏れ出している。
髪は乱れ、額には角のような突起が覗いていた。
鬼――いや、“般若”と呼ぶのがふさわしい姿だった。
俺は、反射的に叫び声を上げて後ずさった。
背中が冷たい壁にぶつかる。
息が詰まる。
頭の中で“逃げろ”という言葉だけが響くが、足が動かない。
恐怖で膝が笑い、指先さえ震えていた。
それでも、必死に出口を見つけようと、
這うようにして床を進んだ――その時だった。
鏡の中から、巨大な手がヌルリと伸び出してきた。
白く細長い指が、まるで生き物のように蠢き、俺の腕を掴む。
「ぎゃぁぁぁぁっ!」
それは俺の声ではなかった。
個室の外にいた店員の悲鳴だった。
俺の様子を見に来たその従業員は、
鏡の前で引きずられる俺を見て、腰を抜かし、
壁にもたれながら震えていた。
悲鳴を聞きつけた人々が次々とトイレに駆け込んでくる。
だが、鏡の中の“それ”を目にした瞬間、
誰もが息を呑み、次の瞬間、絶叫を上げて逃げ出した。
その中には、春香の姿もあった。
彼女は青ざめた顔で膝から崩れ落ち、
「うそ……やだ……」と震える声を漏らしていた。
俺の腕を掴んでいた手は、すっと鏡の中へと消えていく。
最後に見たのは、
鏡の奥で、悔しそうに俺を睨みつける佳菜の顔――。
その赤い瞳を最後に、
俺の意識は闇に沈んでいった。
俺が目を覚ましたとき、レストランの中は混乱の渦に包まれていた。
従業員たちが慌ただしく動き回り、悲鳴を上げる客たちをなだめようと必死になっている。
グラスの割れる音、誰かの泣き声、ざわめき――それらが一つに溶け合い、現実感を失っていた。
その喧騒の中で、俺はぼんやりと天井を見上げた。
頭の奥がじんじんと痛む。視界がかすみ、何が起きたのか思い出せない。
――佳菜。
その名が脳裏を過った瞬間、背筋が冷たくなった。
目の前に春香がいた。
彼女は、目を大きく見開き、涙をぼろぼろと流していた。
恐怖の涙なのか、それとも俺を心配しての涙なのかは分からない。
「……春香」
掠れた声で名を呼ぶと、彼女は震える唇で俺を見つめ、短く言った。
「……逃げよう」
その一言に、言葉を返す余裕などなかった。
俺たちは心配して駆け寄ってくる従業員たちの手を振り払い、
会計を済ませるや否や、夜の街へと飛び出した。
とにかく――明るい場所へ。
人の多い場所へ。
そして、鏡のない場所へ。
俺と春香は、夜が明けるまで歩き続けた。
コンビニの明かり、ネオン街、終電を逃した人々。
その全てが、現実の境界を辛うじて保っているように見えた。
やがて、夜明けの淡い光が空を染め始めた頃、
俺たちはようやく、俺のアパートへ辿り着いた。
玄関の鍵を閉め、電気を点ける。
そして、二人がまずやったことは――鏡を塞ぐことだった。
洗面所、姿見、テレビ画面、スマホの画面まで。
ありとあらゆる反射面を布で覆い、
さらにその上からガムテープを貼っていった。
少しの隙間も許さない。
貼り終えたあと、俺は壁にもたれ、息を荒げた。
指先が震えている。
春香は何も言わず、ただ俺の肩に手を置いていた。
――これで、本当に大丈夫なのか。
そんな問いが頭の中で何度も反響する。
布で塞いだだけでは、どうしても落ち着かなかった。
それでも、何もしないよりはましだと、
自分に言い聞かせるように目を閉じた。
結局、その日から俺は二日間、外に出られなかった。
この世界には、鏡のない場所など、ほとんど存在しないのだと悟った。
いつ佳菜が再び現れるのか――その恐怖が、俺の心をじわじわと蝕んでいった。
そして今。
俺は、あの出来事のすべてを、桃花に打ち明けていた。
信じてもらえるとは思っていない。
自分でも、荒唐無稽な話だと分かっている。
それでも、誰かに聞いてもらわなければ、
俺はもう、壊れてしまいそうだった。
だが――桃花の反応は、俺の予想とは違っていた。
彼は口元を手で押さえ、眉をひそめながら、
何かを必死に思案しているようだった。
春香もその様子に気づき、背後から不安げに尋ねた。
「……何か、分かるの?」
桃花はしばし沈黙したのち、
ゆっくりと顔を上げ、俺たちを見据えた。
「多分ですが……いや、間違いなく――」
一拍、言葉を置く。
「『死害』だと思いますね。」
「しがい? 何だそれ、聞いたことないけど。」
俺は春香を見る。
だが、彼女も首を傾げて肩をすくめるだけだった。
「う〜ん、簡単に言うと――『鬼』ですね。」
「はぁ?」
あまりに意外な言葉に、間の抜けた声が漏れた。
春香も思わず吹き出し、笑いをこらえるように口元を押さえる。
――死害。鬼。
彼は冗談を言っているのだろうか。
ファンタジーの見すぎ、それとも、最近流行っている漫画の影響か何かでも受けたのか?
荒唐無稽な話に、さらに荒唐無稽な言葉を重ねるとは。
俺は思わず鼻で笑っていた。
だが――その笑いはすぐに凍りついた。
桃花は笑わなかった。
真剣な目で俺を見つめたまま、一言も発しない。
沈黙が重く、冷たく、じわりと肌に貼りつく。
胸の奥が、嫌な音を立てて軋んだ。
「鬼……鬼なんているわけないだろ。桃太郎や一寸法師の話じゃないか。それに――」
俺が言いかけた瞬間、桃花は小さく首を横に振った。
「正確に言うと、鬼とは少し違うと思います。
『死害』は――『死して害をなすもの』と書くんです。
つまり、生きていた時の怨みがあまりに強すぎて、死後に形を持った存在。
悪霊や怨霊が、肉体を得た状態ですね。」
淡々とした声。
だが、その言葉の奥には、底知れぬ確信があった。
「コウジさんも見たでしょう。
般若のような佳菜さんの顔。鏡から伸びた巨大な手。
春香さんも、レストランの従業員も同じものを見た。
……ただの幻覚じゃありません。
それは“死害”です。」
静かに、しかし確信をもって言い切った。
その瞬間、空気が変わった。
部屋の温度が一度、いや二度ほど下がったように感じた。
笑っていた俺の頬がひきつり、ぴくりと震える。
春香も硬直し、俺の腕を掴む手がわずかに震えている。
まだ信じきれない。
けれど、心のどこかで“そうかもしれない”と思っている自分がいた。
レストランの出来事を思い出すたびに、理屈では片づけられない恐怖が蘇る。
――あの手の冷たさ。
――腕に残ったアザ。
幻ではない。
確かに、あの場に“いた”のだ。
「と、桃花……お、俺は、ど、どうすれば良いんだ……?」
気づけば、声が震えていた。
彼が何かを言おうと口を開いた時――。
「桃花さま。」
柔らかく、それでいて妙に澄んだ声が響いた。
振り向くと、桃の木々の間から、一人の少女がこちらへ歩いてくる。
制服の白が午後の日差しを弾いていた。
風に揺れる黒髪、その隙間から見える瞳は、底まで冷たく透き通っている。
――まるで、この世のものではないように。
「ああ、小夜。」
桃花が微笑む。
少女は小さく会釈をして、俺たちの前に立った。
「お待たせして申し訳ありません。」
「良いんだ、小夜。僕が早く着きすぎただけだから。」
「桃花さま、この方々は?」
小夜の視線が俺と春香を射抜いた。
その目は、凍てつくように冷たい。
見られただけで、背筋が粟立つ。
「それがさ、『死害』に狙われているみたいなんだ。どうしようかと思ってたんだよ。」
「なるほど……。」
小夜の唇がわずかに動いた。
笑ったようにも、嘲ったようにも見える。
「仙道さまに頼んでは?」
「仙道さん? ダメダメ。今日は伊勢の方に神主の会合があるって言ってた。
上手い酒が飲めるって喜んでたから、どうせ帰ってこないよ。
まったく、役に立たないんだから。」
桃花は苦笑して呆れ顔で手を振った。
「しかし私たちも……」
小夜が何か言いかけた時、桃花は小さく息を吐いた。
「コウジさん……あなたは、かなり危険な状態にあります。
佳菜さんの“変化”を見れば分かります。
いつ、襲われてもおかしくないでしょう。」
――いつ……襲われる
その言葉が、体の奥で鈍く響いた。
「今日は僕たちも行かねばならない用があるんです。
だから、朝まで絶対に部屋を出ないでください。
夜明けまで、閉じこもってやり過ごすんです。
朝になれば、“死害”は何もしてこないはずです。
……鏡には、決して近づかないでください。」
桃花はスマホを取り出し、番号を交換した。
そして、小夜と並び立つと、振り返らずに言った。
「コウジさん――絶対に、鏡には気をつけて。明日また連絡します。」
ふたりの姿は、桃の木々の間に溶けるようにして消えていった。
あたりに残るのは、午後の光と、周囲の喧騒、そしてわずかな風の音だけ。
春香と顔を見合わせた。
「今晩を……乗り切る。」
その言葉が、鉛のように胸に沈む。
穏やかな陽光の下。
桃の花びらが、一枚、また一枚と風に乗って舞い落ちる。
平和な光景の筈なのに、俺の心臓の鼓動は早まっていく。これから起こる『何か』を予感するように。




