二話目 佳菜
桃花の言葉に、思わず息を呑んだ。
胸の奥がざわりと波打つ。――思い当たることがあったのだ。
あの夢のこと。
あの出来事のこと。
そして、あの“女”のこと……。
唐突に胸の奥を抉るような記憶が浮かび上がり、喉の奥がひりつく。
返す言葉が見つからない。
ふと春香に目をやると、彼女はじっと俺を見つめていた。
その表情は言葉を発さずともはっきりしている。
――「話したの?」と。
俺は小さく首を振った。
そんな話をした覚えはない。
だが、たとえ助けてくれた相手でも、このことを口にするつもりなどなかった。
どうせ信じてもらえない。そんな確信があった。
沈黙が落ちる。
春の穏やかな風が、何も知らぬように花びらを運んでいく。
気まずさを感じ取ったのだろう。
桃花が頭を掻きながら、慌てたように口を開いた。
「す、すみません。変なこと言って……。
僕、たまにそういうのを“感じる”というか……。匂いっていうのかな、雰囲気っていうのかな。お兄さんから、ちょっとそんな気配がしたから、つい……。
話しづらかったら、無理に答えなくて大丈夫です。」
言い訳のように早口で言いながら、桃花はしどろもどろになっていた。
その必死な様子に、少しだけ胸の緊張が緩む。
「……霊感みたいなもの?」
春香が警戒を隠さず、静かに問い返した。
「うーん……まぁ、そんな感じ、かな。ちょっと違うけど。」
桃花は苦笑を浮かべ、言葉を濁した。
その曖昧な笑顔に、春の光が差し込む。
けれどその影の奥で、何か得体の知れないものが確かに動いている気がした。
そんな桃花に、春香は短く「ふぅん」と鼻を鳴らした。
その声音には、あからさまな疑いの色が滲んでいる。
だが、次に口を開いた春香の言葉は、意外なものだった。
「――話してみたら?」
俺は思わず顔を上げる。
「……えっ、話すのか?」
「いいじゃん。どうせ、誰に言ってもまともに取り合ってもらえなかったんでしょ? 私以外は。」
春香は肩をすくめ、少し得意げな笑みを浮かべた。
「それに、“霊感がある”なんて人、そうそういないじゃない。試しに話してみなよ。もしかして――ってこと、あるかも。」
軽い調子。けれどその瞳の奥には、ほんの僅かに真剣な色が宿っていた。
彼女なりに俺を気遣ってくれているのだろう。
前向きというか、楽観的というか……。
けれど確かに、春香の言うことも一理あった。
誰にも話せず、胸の奥で燻り続けていたこの出来事を、そろそろ外に出したかった。
少しでも、楽になれるのなら――。
俺は深く息を吸い、桃花の方へ向き直った。
「……分かった。ちょっと、聞いてくれ。」
そう言って、俺は腹を決めた。
胸の奥に溜まっていた、あの重たい塊を吐き出すように。
膝の上に腕を置き、少しだけ前のめりになる。
春香は隣のベンチに腰を下ろし、黙って俺の横顔を見つめていた。
桃花は姿勢を正し、真剣な面持ちで耳を傾ける。
その視線を感じながら、俺はゆっくりと口を開いた。
「……実は、前の彼女のことなんだ。」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。
心の奥に沈めていた記憶を、一枚ずつ掘り起こすように。
――彼女の名前は、樋口佳菜。
出会いは、俺が大学に入って間もない春の頃だった。
同期の友人に「合コンしようぜ」と誘われて、半ば流れで参加した飲み会。
その席で、たまたま隣に座ったのが佳菜だった。
第一印象は――正直、良かった。
栗色の髪をゆるく巻き、光を受けるたびに艶めく。
大きな二重の瞳は笑うたびに少し細くなり、少し厚めの唇からは、快活で人懐っこい声がこぼれた。
メイクも服装もきっちりしていて、場慣れした雰囲気を漂わせていたが、それでもどこか無邪気な笑顔を見せる時があった。
その夜、自然と隣同士で話をしていた。
話が途切れることはほとんどなく、気づけば笑い合っていた。
彼女は旅行が好きだと言った。
「一人でも行っちゃうんです。気分転換になるから。」
そう言って、指先でグラスの氷を揺らしながら微笑んだ。
行動力のある人だと思った。
俺も高校の頃、内緒で原付の免許を取り、友達と泊まり掛けで遠出したりしていたから、その自由さにどこか惹かれたのかもしれない。
飲み会のあとも、何度か顔を合わせて話す機会があった。
気づけば連絡を取り合うようになり――そして、自然と付き合うようになっていた。
いや、「自然と」なんて言い方はずるいか。
一応、俺の方から告白した。
けれどその時の彼女の笑顔があまりにも自然で、まるで最初からそうなることが決まっていたみたいに思えたんだ。
正式に付き合いはじめた俺と佳菜の関係は、最初のうちは順調だった。
……最初のうちだけは。
付き合う前よりも頻繁に会うようになり、食事に行ったり、休日はどちらかの部屋で映画を観たり、時には日帰り旅行までした。
その頃の佳菜は、明るくて、よく笑って、少しわがままだけど愛嬌のある普通の女の子だった。
けれど、少しずつ、何かが変わっていった。
最初はほんの些細なことだった。
「今、何してるの?」
「誰といるの?」
「何時に帰るの?」
そんなメールや電話が、日に何度も届くようになった。
最初のうちは、恋人同士ならそんなものだと自分に言い聞かせていた。
俺もちゃんと返信していたし、電話にも出ていた。
だが、次第にその回数は増えていき、ある日には一日で四十件近くのメッセージが届いていた。
内容はどれも同じ――俺の所在を確かめるものばかり。
返信が少しでも遅れると、「どうして返さないの」「誰といるの」と、矢継ぎ早に問い詰めるような文面が並んだ。
いつの間にか、携帯が鳴るたびに胸がざわつくようになっていた。
佳菜を嫌いになったわけじゃない。
けれど、あの頃の俺は確かに、彼女の存在が息苦しくなっていた。
――そして、あの“決定的なこと”が起こったのは、その頃だった。
「借金の肩代わりですか?」
俺の話を聞いていた桃花が、目を丸くして声を上げた。
春香はというと、あきれたようにため息を漏らし、少しだけ唇を歪める。
俺は慌てて言い訳のように口を開いた。
「いや、借金って言っても……バイクを買う時の話なんだ。
俺のアパート、家賃は安いんだけど周りに何もなくてさ。コンビニ一つ行くにも歩きで二、三十分かかる。
だから今流行りのスクーター型バイクってやつを買おうと思って、ちょうど良い値段の中古のバイクを見つけてさ、バイト代をあてにしてローンを組もうとしてたんだ。」
そこまで話すと、桃花が黙って頷いた。
俺は続けた。
「その時に佳菜が言ったんだ。
『ローンなんて組まなくていいよ。私が払ってあげる。浩二くんは少しずつ私に返してくれればいいから』って。」
彼女の家は春香と同じく裕福らしく、仕送りも多かったらしい。
余ったお金は貯金しているとも言っていた。
その“優しさ”を素直に受け取った俺は、深く考えずにその申し出を受けてしまった。
――それが、間違いの始まりだった。
それを境に、佳菜の束縛はさらに強くなっていった。
まるで、バイクだけでなく俺の自由までも買い取ったかのように。
事あるごとに、佳菜はあの“バイクのこと”を持ち出すようになっていった。
「私が払ってあげたのよ」
――まるでその言葉が、俺を縛る呪文のようだった。
最初は冗談めかして言っていたのが、次第に責めるような口調に変わり、
そのたびに俺の中に小さな違和感が積もっていった。
あの頃からだと思う。
俺が佳菜との別れを意識しはじめたのは。
そんな時に出会ったのが、春香だった。
「そんな人、別れた方がいいんじゃないの?」
「あといくら払うの? 少しだったら出してあげようか。」
年下なのに、妙に大人びた言い方をする彼女に、俺は少しずつ救われていった。
話を聞いてもらううちに、心が軽くなっていくのを感じた。
――そして、バイクの代金をすべて返し終えたある日。
俺は佳菜に、別れを切り出した。
当然、佳菜は激しく取り乱した。
「どうしてよ。理由を言ってよ!」
「私、あなたにあれだけしてあげたじゃない!」
金切り声で泣き喚く彼女に、俺は何度も冷静に話そうとした。
だが、言葉は通じなかった。
怒り、涙、罵声。
あの時の彼女の顔は、もう俺の知っている佳菜ではなかった。
それからの彼女は――ストーカーになった。
電話とメールは一日に百件近く。
留守電には泣き声や、意味の分からない独り言が延々と録音されていた。
夜遅くアパートに帰ると、廊下の向こうに人影が立っていることもあった。
彼女は何度も俺の部屋を訪れ、口論になった。
そして、あの夜。
バイトを終えてアパートに戻ると、玄関の扉がわずかに開いていた。
「閉め忘れたのか……?」
そう思いながら中に入ると――佳菜がいた。
部屋の真ん中に立ち、包丁を握って。
目が合った瞬間、全身が凍りついた。
何も言えず、何も考えられず、気づけば俺は裸足のまま外に飛び出していた。
背後で「待ってよ!」と叫ぶ声。
振り返ると、髪を振り乱した佳菜が包丁を手に追いかけてきた。
通りがかった近所の人が悲鳴を上げ、すぐに警察が来てくれた。
俺は無我夢中で泣きながら事情を話した。
――その二日後。
佳菜は、自ら命を絶った。
崖から飛び降りたらしい。
その知らせを聞いた時、何も感じられなかった。
悲しみも、怒りも、安堵さえも。
ただ、心のどこかで“終わった”と思った。
だが――違った。
ここからが始まりだった。
俺にとっての、本当の恐怖は……。




