二十話目 現実からの逃避
翌日……
ついに運命の朝が訪れた。ここ数日の忌まわしい出来事の始まりの場所、あの『廃神社』へと向かうことになっていた。
昨夜、桃花と少しだけ言葉を交わした後、私はようやく穏やかな眠りにつくことができた。全てを吐き出し、心が軽くなったのか、それとも単なる疲労の極致だったのかは定かではない。
しかし、十分に休んだ今の自分は、どこか晴れやかな気持ちで満たされていた。
「おはよう、エリカさん。よく眠れた?」
体を起こした私に、桃花が優しい声をかけてきた。私は両腕を高く伸ばし、「うーん」と心地よい呻きを漏らす。
「う、うん!寝心地は最悪だったけど、ゆっくり休めたよ」
「フフ、それは良かった!支度ができたら、こっちに来てくれるかな。仙道さんが、今日のことで話があるって」
桃花はそう告げると、軽やかな足取りで仙道さんの元へと戻っていった。彼は疲れていないのだろうか?その笑顔からは、微塵もそんな様子は窺えなかった。
私は軽く手櫛で髪を整え、昨日買ってもらったペットボトルの紅茶を口に含んだ。すでに温くなっていたが、口いっぱいに広がる甘みが、乾いた身体に潤いをもたらすように染み渡っていった。
二人のもとへ歩み寄ると、仙道さんがふと顔を上げ、短く「おはよう」とだけ言った。その声はいつも通り静かで落ち着いていたが、どこか緊張感を帯びていた。
続けて彼は、今日の予定について手短に話し始めた。
「このあと、すぐに車で例の廃神社に向かうよ。その前に、パーキングエリアに寄って、昨日エリカさんが頼んだ件を片付ける。その後、昼の二時過ぎには神社に入る予定だ」
あまりにも早い展開に、私は思わず口を挟んだ。
「ねぇ、ちょっと……少し、早すぎない?」
仙道さんは腕時計に目を落としながら、淡々と応じた。
「いや、そろそろ、私の知り合いが現場に入って、照明の設置を始めている頃なんだ。桃花くん達なら暗闇でも動けるだろうけど……私とエリカさんは、そうもいかないからね。日が高いうちに設置して、動作確認を済ませておきたい」
言われてみれば、その通りだ。あの神社の中は、陽が落ちれば一寸先も見えなくなる……、いや、あの異様な空気の中では、昼間ですら心が冷える。
「ねぇ……昼間はあの死害ってやつ大丈夫なの?」
素朴な疑問を口にすると、仙道さんは少しだけ眉をひそめた。
「完全に大丈夫、ってわけじゃない。でも『死害』ってのは、昼間はあまり積極的には動かないんだよ。奴らは日中、力が大きく落ちる。だからたいていは、乗っ取った人間の身体の中か、自分の棲み処に隠れて過ごしている」
そして彼は、ふと声を潜めて続けた。
「夕暮れと共に、奴らは目を覚ます。黄昏時こそが、死害の時間なんだ」
その言葉に、私は思わず背筋を正した。
「狒々王の話では、例の奴……あの死害は、すでに人に化けて町に紛れ込んでいるらしい。今、小夜が見張ってくれている。でも、町中じゃ私達も手を出すこともできない。下手をすれば、一般人に被害が出るからね」
仙道さんの口調が、一段と重くなる。
「だからこそ……作戦通り、夜に君を囮として神社に誘き寄せ、こちらで迎え撃つのが最善だと私は思ってる。怖いとは思うけど……必ず、私たちが君の身は守る。安心してほしい」
その瞳には、迷いはなかった。冷静で、計算され尽くした強い意志を感じる。
私は小さく息を吸い、うなずいた。怖くないと言えば嘘になる。でも……この人たちがいるなら、大丈夫だと、そう思えた。
「じゃあ早速支度をして出ようか!」
仙道さんの声が、静寂に包まれた空間に響いた。その言葉に促されるように、彼は立ち上がり、帰り支度を始めた。私の準備といっても、昨日買ってもらったペットボトルが唯一の持ち物だ。他に荷物など、何もない。
桃花もまた、刀にそっと手を添え、仙道さんの準備を待っている。その間、私は二度と訪れることのないであろうこの不思議な場所を、名残惜しむようにぐるりと見渡した。
広大な敷地のただ中に、ぽつんと立つ真っ白な神社。仙道さんはここを裏伊勢と呼んだ。伊勢神宮には行ったことがないけれど、もしすべてが終わったら、今度は『表の伊勢神宮』へも行ってみようか、とふと思った。
果たして、またこんな光景に出会えるのだろうか。私は深く息を吸い込み、この目に焼き付けるように、目の前の景色を凝視した。
二日前の私なら、きっと学校で得意げにみんなに話していただろう。和也や徹、伸治はきっと馬鹿にするに違いない。「漫画の読みすぎだろ」と美弥も笑っていただろう。智子だけは、割と信じて興味津々に聞いてくれたかもしれない。
でも、もうそんな友達は、どこにもいない。学校にも、私の日常にも。みんな、死んでしまったのだ。いつかまた、こんな奇妙な体験を語り合える仲間ができるのだろうか……。
仙道さんの支度が整い、私たちは再び鳥居の連なるトンネルを潜り抜け、現世への入り口へと戻ってきた。背後で、中の明かりが消え、この神聖な場所は再び深い闇の中に隠された。私は心の中で別れを告げ、一歩ずつ、階段を上がっていった。
地下室の重たい扉を抜け、ひんやりとした神社の本殿を通り抜ける。外へ出た瞬間、突き刺すような陽光が目に飛び込んできた。
「あっ……」
思わず私は目を細め、手をかざして光を遮る。
指の隙間から覗く空は、どこまでも青く、吸い込まれそうなほど澄みわたっていた。その眩しさが、ついさっきまでいた薄暗い地下の世界がまるで幻だったかのように感じさせる。
現実に引き戻されるような感覚の中、ふと前を見ると桃花が一人、門の方へと歩き出していた。
「じゃあ、仙道さん! 先行ってるわ!」
そう軽く手を振ると、まるで一人旅でもするかのように背を向ける。
「ちょっと、桃花! 一緒に車で行かないの?」
思わず呼び止めると、彼は振り返りながら、どこか居心地悪そうに言った。
「えっ、いや……。まだ時間あるし、ちょっと一人でぶらぶら行こうかなって思って」
「ぶらぶらって……まさか、あそこまで歩いて行く気?」
「歩かないよ、走って行くから!」
一瞬、冗談かと思った。しかしその表情は驚くほど真剣だった。
「……はぁ」
私は呆れたようにため息をつきながら言う。
「いいじゃん、そんな無理しないで、一緒に車で行こうよ」
隣で聞いていた仙道さんも、苦笑しながら頭をかいた。
「エリカさんの言う通りだよ、桃花くん。別に走らなくてもいいだろ」
二人の言葉に押されるように、桃花は「まぁ……いいけどさ」と、どこか納得いかない顔でうなずいた。
そのまま私たちは車へと向かう。が、ふいに仙道さんが立ち止まり、気まずそうな声で言った。
「ごめん、エリカさん。車に着いたら……これ、つけてもらえる?」
差し出されたのは、見慣れた黒い目隠しだった。
「またこれ……?」
私は小さくため息をついたが、すぐにその手からそれを受け取った。
「はいはい、分かってますよ」
そして、再び歩き出す。まばゆい陽光の中で、ほんの少しだけ、心の奥に不安がよぎっていった。
エンジンの振動がシート越しに伝わってくる。
車がゆっくりと走り出すと、胸の奥に沈んでいた不安が、少しずつざわつき始めた。
向かっているのは、あの神社。
目隠しをしているせいもあるだろう。視界を奪われたことで、感覚が研ぎ澄まされる。その分、緊張も倍増していた。
そんな私の沈黙を察してか、前の座席で話す二人の声が聞こえてくる。
くすぐったいような、安心するような声の響きに、私は思わず口を挟んだ。
他愛もない会話に身を任せることで、張り詰めていた気持ちが少しほぐれていく。
しばらくして、仙道さんの声が穏やかに響いた。
「エリカさん、もう目隠し外していいですよ」
その言葉に私はそっと布を外し、眩しさに目を細めた。
車は高速道路の入り口に差しかかっていた。流れる風景に、現実感がじわじわと戻ってくる。
「ところでさ、エリカさん」
助手席の桃花がふいに声を上げた。「パーキングエリアでの用事って、何なのさ?」
突然の質問に、私は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「べつに……たいした用事じゃないの。ほら、昨日汗もかいたし、髪も顔も埃っぽいし……シャワーあるところがないか、聞きたの。これでも私、女の子なんだからね。それと……」
「それと?」と桃花が乗ってくる。
「お腹空いたのよ!」
私は思わず声を張り上げた。「昨日、結局サンドイッチしか食べてないし、その前の夕飯も抜きだったの。そりゃお腹も空くでしょ? 文句ある?」
ふてくされたように言いながらも、自分でもおかしくなって笑いそうになる。
桃花はケラケラと笑いながら、「それは空くね! 僕も食べてなかったや。何食べようかな〜? 僕はね……カレーもいいし、ハンバーガーもいいし、それから……」と次々に候補を挙げはじめる。
その様子に仙道さんが、やれやれと肩をすくめて言った。
「いやいや、桃花くん……少し落ち着こうか」
車内に和やかな笑い声が広がる。
もうすぐ『あの場所』へ向かうとは思えないほど、温かくて、どこか懐かしい時間だった。
パーキングエリアに到着し、私はシャワールームで身体を洗い流した。
温かな水に打たれながら、自然と頬が緩んでいることに気づいた。
ほんの数時間後には、死害……加藤健児と対峙する運命が待っている。
それなのに、まるで友達とドライブに来ているかのような錯覚に陥っていた。
楽しくご飯を食べて、お菓子を買って、車の中でおしゃべりして……
そんなありふれた時間が、これからもずっと続けばいいのにと、心のどこかで思ってしまった。
けれど、それは幻想だった。
食事を終え、車は再び静かに走り出す。
目の前に迫るのは、逃れられない現実だ。
午後二時を少し過ぎた頃だった。
車は静かに坂を下り、やがて神社へと続く細道へ入っていく。途中、警察の検問に差しかかる。緊張が一瞬車内を走るが、仙道さんが窓を開け、警官に何かを告げると、拍子抜けするほどあっさりと通してもらえた。
視界の端、公園の近くに黄色い規制テープが風に揺れている。複数のパトカーが止まり、制服姿の警官たちが何やら慌ただしく動いていた。
昨日のことが、まだそこに残っている。
美弥、智子……。
胸の奥に鈍い痛みが広がり、私はそっと目を閉じる。あの時の状況、全てが生々しく蘇ってくる。
深く、静かに息を吸い込んだ。
そしてゆっくりと吐き出しながら、ドアに手を伸ばす。
「……行こう」
誰にともなくそう呟いて、私は車を降りた。
風が木々を揺らし、どこか遠くでカラスが鳴いていた。




