二話目 井戸から這い出る"モノ"
懐中電灯に照らされた先には、噂に聞く例の井戸があった。
四方を古びた木の棒で囲われ、そこには何重にもしめ縄が巻かれている。まるで、井戸の底から這い上がろうとする何かを必死に封じ込めているかのような、不気味な雰囲気が漂っていた。私は思わず、息を呑んだ。
異変に気づいたのは、井戸を照らしていた和也だった。
「あれ!あの井戸、蓋が開いてないか?」
彼の声に、私たちの持つ懐中電灯の明かりが一斉に井戸へと集中する。
確かに、井戸の蓋は開いていた。昔、一度だけこの場所を訪れた時、あの井戸は木の蓋の上に、しめ縄を巻いた重石がしっかりと置かれていたはずだ。
しかし、今目の前にある井戸は、その重石の石が井戸の近くに転がり、木の蓋もまた、周囲に投げ出されるように外されていたのだ。
井戸の暗い口が、まるで私たちを飲み込もうとしているかのように、じっと闇を湛えていた。
「誰かのイタズラじゃない?」
私の口から出たのは、そんな単純な言葉だった。ここは地元ではそれなりに有名な心霊スポット。私たち以外にも、肝試しに来る者がいてもおかしくはない。
「おい、和也。ちょっと中、見てこいよ」
伸治が、悪戯っぽい笑みを浮かべて和也を煽る。それに乗せられるように、私も言った。
「和也、ちょっと見てきなよ。まさか、ビビってないよね?」
ニヤニヤと笑う私に、和也は「何言ってんだよ。全然怖くねぇよ。調子に乗るなよ、お前ら!」と、精一杯の虚勢を張って井戸へと足を向けた。
和也は井戸の周囲をキョロキョロと警戒しながら、ゆっくりと近づいていく。その様子に、私は心の中で(うわ、ビビってる、ビビってる!)と笑いが止まらなかった。
普段は誰彼構わず喧嘩腰で「怖いものなんてない」と豪語している和也が、腰が引けているなんて滅多に見られない光景だ。他の皆もそれが面白いのか、声を殺しながらクスクスと笑っていた。
和也がいよいよ井戸の縁までたどり着いた。彼は躊躇するように体をのけぞらせながら、懐中電灯で井戸の底をチラチラと照らしている。その姿は、まるで見えない力に抗っているかのようだった。
「もう、だらしないよ、和也!」
私の声に、和也は「分かったよ!」と叫び、意を決したように一気に井戸の中を覗き込んだ。
その瞬間だった。
ぐらり、と和也の体が傾ぎ、彼はまるで何かに引きずり込まれるかのように、音もなく井戸の闇へと消えていった。
私は何が起こったのか理解できず、呆然と立ち尽くした。徹も、伸治も、声すら出せずに固まっている。
「えっ……和也……」
隣にいた美弥の、震えるような囁き声が、私を現実に引き戻した。その瞬間、私の全身を戦慄が駆け抜け、止まらない震えに襲われた。
徹も伸治も、ようやく我に返ったようだった。「ヤバい、和也落ちちまった!」二人は慌てて井戸に駆け寄っていく。
「落ちた?」
いや、違う。私の目に焼き付いていたのは、井戸の中から突如として現れた巨大な手が、和也を掴み、問答無用で闇の奥へと引きずり込んでいくおぞましい光景だった。
私は井戸に近づく二人に、慌てて声を張り上げた。
「ちょっと待って!」
しかし、その声は届かなかったのか、あるいは間に合わなかったのか、井戸の縁に辿り着いた二人の体が、急にぴたりと止まった。井戸の闇から伸びる、黒い影のような腕が彼らの体を捕らえ、身動きを封じていたのだ。
二人の視線が、ゆっくりと私の方を向く。私は事態が飲み込めずに、彼らの目に視線を合わせた。その表情が、助けを求めるような虚ろなものに変わった、まさにその瞬間だった。二人は一瞬にして、井戸の中へと引きずり込まれた。
彼らの声は、聞こえない。
ただ、井戸の底から響き渡る、「バキッ、ボキュ、クチャクチャ……」という、まるで骨を砕き、肉を貪るかのような汚い咀嚼音だけが、奇妙なほど静まり返った境内に、不気味に響き渡っていた。
「逃げなきゃ!」
思考より早く、私は咄嗟に美弥の手を掴み、その場から引き離そうとした。しかし、私の焦りとは裏腹に、美弥の手には硬い力がこもり、逆に私をその場に縫い留めた。
「何してるのよ!早く逃げるのよ!」私の声は上ずっていた。
「駄目だよ、和也たちを置いていけない。助けないと」美弥の瞳は、異様なまでに澄んでいた。
「美弥!あの音、聞こえないの!?もう無理だって!どうせ私達じゃ助けられないんだから、助けを呼んだ方が早いでしょう!?」私は半ば叫び、美弥の腕を掴む手に力を込めた。
その時だった。
私の手の中で、美弥の指が小刻みに震え始めた。その震えは、握りしめた手のひらから私の全身へと伝播し、悪寒となって駆け巡る。彼女の視線は、まるで呪縛にかかったかのように井戸の底に釘付けになっていた。
私は恐る恐る、美弥が見つめる方向へと視線を辿った。
暗い井戸の口から、二本の黒い煙のような腕が、ぬらりと伸びていた。それはまるで、地獄の底から這い上がろうと足掻くかのように、醜悪に蠢いている。
(不味い!不味い!不味い!)
全身の血液が凍りつくような感覚に襲われる。私は再び美弥の名を叫んだ。
「美弥!美弥!いい加減にしてよ!」
しかし、私の荒げた声は、彼女には届いていないようだった。美弥は金縛りにでもあったかのように微動だにせず、ただ手の震えだけが激しさを増していく。
その瞳は、もはや私を捉えていなかった。井戸から這い上がろうとする「何か」に、その魂さえも引きずり込まれているかのように、焦点が合わないまま虚空を見つめていた。
私は焦りに突き動かされるように、震える手で懐中電灯を掴み、井戸から這い出る影にその光を向けた。
その刹那、闇の中で二つの点が不気味に、そして血のように赤く反射し、私たちを冷酷に睨みつけていた。それはすでに、そのおぞましい上半身を井戸の縁から現し、完全に実体を伴いつつあったのだ。
「もう無理だ!」
私の脳裏に絶望がよぎる。私は美弥をちらりと見やった。その顔は蒼白で、虚ろな瞳は井戸の底から這い上がってくる「何か」に釘付けになっている。
(この子を置いて逃げよう。そうしないと、和也や徹、伸治みたいに、私も……)
そう思った、まさにその瞬間だった。
「ギャーーーァッ!」
美弥が、張り裂けんばかりの絶叫を上げた。それはもはや人間の声ではなく、恐怖の淵で喘ぐ獣の咆哮。狂乱した彼女は「来るな、来るんじゃねぇよ!」と叫びながら、その手に握っていた懐中電灯を、まるで穢れたものに触れるかのように影に向かって投げつけた。そして、次の瞬間にはあらぬ方向へと猛然と走り去ったのだ。
「ちょっと、どこに行くのよ!美弥!美弥!」
私は我に返り、美弥を捕まえようと必死に駆け出した。振り返ると、井戸の影から伸びた二つの赤い光は、私たちを執拗に追いかけ、すでに足らしき不気味なものまで姿を現していた。
(もう駄目だ!逃げなきゃ、逃げなきゃ!)
私は美弥を追い、そのまま闇に飲まれた山の中へと駆け込んで行った。
結局、美弥がどこへ消えたのか、私には分からなかった。美弥の叫び声を頼りに必死で後を追ったのだが、途中からその声はぴたりと途絶え、私は完全に彼女を見失ってしまった。
私は、完全に方向感覚を失っていた。漆黒の山の中、いくら懐中電灯の光を当てても、現れるのは同じような鬱蒼とした木々の壁ばかり。道などどこにもなく、私はただ茫然と、闇の海に置き去りにされたかのように立ち尽くしていた。
「バキッ、バキッ……ガサッ、ガサガサガサ……」
深閑とした山の中に、何かが近づいてくる音が響く。その音は、まるで巨大な生物が枯れ葉を踏みしめ、枝を折るかのように、次第に大きくなる。
「美弥……!美弥なの……!?」
私は、すがるような思いで、音がする方向へと声を荒げた。しかし、返ってくるのは、闇を深くする沈黙と、じりじりと近づいてくる不気味な足音だけだった。
「み……美弥……? ……違う……あれは、美弥じゃ、ない……」
声にならない悲鳴が喉の奥で引き裂かれた。血の気が音を立てて引いていくのを感じた。次の瞬間、私は無我夢中で山の闇へと駆け出していた。
(逃げなきゃ……逃げなきゃ……逃げなきゃ……)
頭の中で鐘が鳴るように、その言葉だけが繰り返された。道など見えなかった。ただ、あの“音”が響いた方角とは反対へ、少しでも遠くへ、ただひたすらに。
枝に頬を裂かれ、根に足を取られて何度も転んだ。手のひらは泥と血でぬめっている。だが痛みを感じている暇などなかった。背後で何かが蠢いている気配がする。確かに“それ”は追ってきている。私を、探している。
美弥のことなんて、もうどうでもよかった。あれが本当に美弥だったのかも、もう考えたくなかった。
息は荒く、喉は焼けるように乾いている。心臓の音が耳の奥で爆発し続けるなか、私は足を止めず、ただ狂ったように闇の中を逃げ続けた。
そして、ようやく
開けた場所に私はたどり着いた。希望の光、かすかに灯る町の光が見えた。




