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闇に咲く桃花  作者: しんいち
一章 勝又 江利香

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十八話目 名取り

「裏伊勢……?」


その言葉は、聞いたことのない。

「神社」「伊勢」という単語から、頭の奥底で伊勢神宮との関連性が繋がった。


「そう……、ここは裏の伊勢神宮。『隠し伊勢』なんて呼ばれることもあるけれど、私達は裏伊勢と呼んでいる場所だ。私は、この裏伊勢の宮司を務めているんだよ。」


仙道さんの声は、先ほどまでの優しさを保ちつつも、その奥に深い淵を隠しているようだった。語りかけるような調子でありながら、その言葉一つ一つが、私の意識の奥底に静かに、だが確実に染み込んでいく。


「裏伊勢はね、あの死害を滅ぼすために作られた場所だ。全国に分社と呼ばれる場所がいくつもあるんだけど、エリカさんが死害に襲われたあの神社も、裏伊勢の分社の一つなんだよ。」


「えっ!」


私の口から、乾いた驚きの声が漏れた。あの神社が? ひなびた、古びた、ただの古い神社。


父が幼い頃には、ささやかながらも祭りが行われていたと聞かされた、どこにでもある寂れた場所。それが、そんなおぞましい存在と繋がっていたなんて。背筋に、冷たいものが這い上がってくる。


「あの場所は、鬼……死害を封じていたんだ。遠い昔の人間が、辛うじてそれを倒し、バラバラになった奴の遺体を封じていたのが、あの井戸なんだよ。そして、それを破った者こそが、恐らく……『加藤健児くん』。君がいじめていた、あの少年だ。」


健児の名前が仙道さんの口から紡がれた瞬間、私の心臓が「ドクン」と、耳の奥で不気味な音を立てた。全身から血の気が引いていく。その名前は、私の魂に刻まれた、決して拭えない罪の烙印だった。


「これは推測に過ぎないけれど、彼は噂を聞きつけたのかもしれない。『鬼が封じられている』と。


あるいは、どこかで古びた伝承を調べ上げたのかもしれないね。


ただ、一つだけ確かなことがある……。彼は、あの場所で自殺を図ったんだ。君や、君たちの行ったことに対する、おぞましいまでの呪詛をかけながら、あの井戸に身を投げたのだろう。


彼の悍ましいほどの怨念と、彼の血肉を得た死害が、そこでついに復活したのだと思う。今、あの場所は……完全にその死害の領域と化してしまっている。落ち着いたら、祓いの儀式をしに行かなければならなくなってしまった。」


仙道さんは、困ったように頭を掻いた。だが、私の心は、そんな些細な仕草に囚われる余裕などなかった。「自殺を図った……」その言葉が、熱い烙印のように私の罪悪感を焼く。


健児の恨み顔が、怨嗟に歪んだ姿が、井戸の闇に沈んでいく光景が、見てもいないのに容易に想像が出来た。


彼の怨念が、あの恐ろしい死害を目覚めさせた? 私が、私が、この全てを引き起こしたの? その重い事実が、私を深淵へと引きずり込んでいく。



沈み込む私を見かねて、仙道さんは静かに声をかけてきた。


「エリカさん、済んでしまったことはもうどうしようもないんだ。過去をやり直すことなんてできないからね。これから君がどう生きるのか、君がどう償うのか、それは君自身がゆっくりと考えていくんだよ」


諭すような彼の言葉は、今の私には遠い響きのように感じられた。「どう生きる……」「どう償う……」その問いに対する答えは、暗闇の中に霞んで、見つけることができなかった。


「説明はこれくらいにして、早速名取りをしようか! まずは君の呪縛を解かないとね。ちょっと準備があるから、エリカさんはそこで待っててくれるかな。桃花くんと小夜はちょっと儀式の準備を、手伝ってくれないか」


仙道さんの言葉に、「えーぇ」と桃花は面倒くさそうにしながらも従った。その横顔をぼんやりと見やりながら、私はふと、頭上の暗闇を見上げた。


ここはピラミッドの内部。当然、上を見ても星一つなく、広がるのはただの漆黒だけだった。


一筋の明かりもない天井は、まるで今の私の心そのものだ。希望も、救いの光も見えない、ただの闇。私は、この深い闇を抜けることができるのだろうか。


しばらく待っていると、張り詰めた静寂の中、ようやく準備が整ったらしい。


仙道さんは、これまでのラフな普段着から一変し、息を飲むほどに威厳ある宮司の装束を纏い、私の前に現れた。その姿は、先ほどの気さくな印象とはまるで別人だ。


彼の顔は、緊張した面持ちへと引き締まり、その眼差しは、私の中に巣食う見えない何かを射抜くように真剣だった。


仙道さんは、無言で私を手招きし、祭壇の厳かなる中心へと立たせた。そして、張り裂けんばかりの、気合いのこもった声が、静寂を切り裂いた。


「これより『名取り』を執り行う!」


その宣言と共に、彼の瞳が私を見据えた。それは、あまりにも鋭く澄み切った瞳で、まるで私の内側に巣食う『死害』の影を、その奥底まで見通しているかのようだった。


私の心臓が、恐怖と期待がないまぜになったような奇妙なリズムを刻み始める。


静かに、しかし、有無を言わさぬ迫力をもって、祝詞が紡がれ始めた。


「かしこみかしこみ申す……

千代の昔より続きし 禍津霊まがつひを祓い、

八百万やおよろずの神々に託ちて、この身の穢れを正す……」


焚かれた神木の香が、先ほどよりも一層濃く、鼻腔を深く突き刺す。それは、清浄と、そして何かの終わりを告げるような匂いだった。祭壇の横で、高く澄んだ鈴の音が鳴り響く。


その音は、私の皮膚の奥まで振動を伝え、思わず身体を震わせた。まるで、魂が揺さぶられているかのように。


やがて、仙道さんは祭壇に置かれた人の形をした紙をゆっくりと取り上げると、まるで私の身体から何かを剥がすかのように、私の頭上から、ゆっくりと、しかし確実に撫で下ろした。

その手が触れていないはずなのに、皮膚が粟立つ。


「その名を奪う。鬼に刻まれし呪詛の名を、今ここに切り離さん」


その言葉が響いた刹那、仙道さんは、まるで呪縛を解き放つかのように、その名をはっきりと、力強く唱えた。


「加藤健児!」


その瞬間、私の腕……あの忌まわしい名を刻まれた、その腕に、焼けるような激痛が走った。


それは、まるで皮膚の下に縫い込まれていた何かが、薄皮を剥ぐように「ペリペリ」と音を立てて、強引に引き剥がされていくような、悍ましい感覚だった。思わず、口から呻きが漏れそうになる。


「名を持ちしものよ、いま、なんじの名は神の御手にあり

鬼よ、その縁を絶たれしことを知れ」


重く、厳かに、太鼓が三度打ち鳴らされた。ドォン、ドォン、ドォン。その響きと共に、足元の大地が、わずかに、しかし確かに震えた気がした。ピラミッドの奥底で、何かが蠢いているような錯覚に陥る。


そのときだ。


私のすぐ後ろ、ほとんど耳元で、低く、喉の奥から絞り出すような呻き声が聞こえた。

それは、苦痛に歪んだ声なのか、あるいは、怒りか、呪詛か……。背筋に、氷の刃が突き立てられたような冷気が走る。


私は、振り返らなかった。振り返ってはいけない。なぜか、本能がそう叫んでいた。そこにいるであろう存在を、直視してはならないと。


「かむながら たまちはえませ

かむながら たまちはえませ」


仙道さんの声は次第に高まり、その言霊が、まるで物理的な力を持つかのように、この広大な空間に渦を巻き、満ちていく。その声は、耳鳴りのように脳髄に響き、私の内側から湧き上がる恐怖を、一瞬だけ麻痺させた。


そして、仙道さんが、全ての力を込めて、最後の言葉を告げた。


「今よりこの者の名は清し。

鬼よ、名を失いて、去れーぇ!」


パァン、と、乾いた柏手が、空間全体に響き渡った瞬間……、私の身体は、糸が切れた人形のように、前のめりに崩れ落ちた。


頭の中は真っ白で、思考は霧散し、息は浅く、ただ「何かが抜けていった」という感覚だけが、身体の奥に残された。それは、解放感とも違う、奇妙な空虚さだった。


「……終わったよ」


仙道さんの声が、まるで遠くの、夢の中から聞こえてくるように曖昧だった。私の意識は、暗闇の淵を漂い、ゆっくりと沈んでいく……。



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