十話目 腹話術の人形
公園の街路灯がぼんやりと周囲を照らす中、その光景はまさに悪夢だった。美弥が、まるで命なき腹話術人形のように操られている。その姿を目の当たりにした私は、心の底から凍えつき、立っているのがやっとだった。
隣で私の腕を掴む智子もまた、小刻みに震えている。「なにあれ、なにあれ、なにあれ……」彼女の口から零れる言葉は、まるで呪文のように虚空に吸い込まれていく。
すると、漆黒の影が細められた瞳を私たちに向け、嘲るように口を開いた。
「エリカ……、ダ、マ、サ、レ、タ?」
美弥の口が、意思とは関係なくパクパクと開閉するのに合わせて、影は私たちを愚弄するかのようにその言葉を吐き出したのだ。
「美弥!美弥!美弥!もう止めて……もう止めてよ!」
喉が張り裂けんばかりに叫び、私は無意識に手を伸ばした。屈辱だった。美弥を弄び、私たちを無力だと嘲り、そして何もできない私たちをあざけ笑う、あの忌まわしい影の存在に、私の目からは熱いものが込み上げていた。
その時だった。
美弥の瞳から、一筋の血の涙がすうっと流れ落ちた。
「エリカ、エリカ、た、す、け、て」
それは、紛れもなく美弥の声だった。あの影のものではない、美弥自身の、懇願にも似た悲痛な叫び。視線が、力なく上げられた手が、私に助けを求めている。
その光景に、私の理性は吹き飛び、地面に転がっていた、重く太い木の枝に無我夢中で手を伸ばした。そして、一瞬の躊躇もなく、美弥の元へ駆け出そうとした。
「止めて、エリカ!」
横にいた智子の絶叫が、私の耳朶を劈いた。彼女は私の服の裾を血走った目で掴み、必死で私を止めようとする。
「智子、なに言ってるのよ!美弥まだ生きてるじゃない!助けないと……助けないと!」
私は智子の手を振り払うように一歩踏み出した。しかし、智子はさらに強く私の服を掴み、その声はほとんど悲鳴に近かった。
「もう無理だよ。もう無理だって……!もう逃げよう、早く逃げよう、早く逃げようよ、エリカ!早く逃げよう!」
智子の引き裂かれるような絶叫が、静まり返った夜の公園にむなしく響き渡る。その震えは私の腕にも伝わり、握りしめていた木の枝が、するりと手から滑り落ち、鈍い音を立てて地面に転がった。
私はゆっくりと、まるで呪縛に囚われたかのように美弥の方へ向き直った。彼女は、血の涙を流しながらも、懇願するような瞳で私をじっと見つめていた。その瞬間、美弥の身体が唐突に宙を舞った。あの漆黒の影が、まるで不要なゴミくずを投げ捨てるかのように、美弥の身体を無慈悲に放り投げたのだ。
空高く、まるで引き裂かれた魂のように舞い上がる美弥の身体を、私は呆然と見上げていた。ただ、ゆっくりと、恐ろしいほどの緩やかさで、美弥は高々と宙を舞い、そして次の瞬間、「グチャ」という、あまりにも生々しい、骨と肉が潰れる鈍い音と共に、彼女は地面に叩き付けられた。
「美弥……」
私の唇から漏れた声は、か細い囁きに過ぎなかった。ピクリとも動かない美弥の姿に、私の全身から力が抜け落ちていく。
「美弥はもうダメだ、もうダメだ……逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ……」
私の身体は、自分の意思とは関係なく、ゆっくりと、しかし確実に後ずさり始めた。
「あれ……!」
美弥をもてあそび、ゴミクズのように放り投げたはずの、あの影の姿がどこにもない。周囲を慌ただしく見回す私の目に、それは映った。
私の、すぐ、後ろに……。
背後から、凍えるような、しかし強烈な圧力が私の全身を押し潰そうとする。横にいる智子が、私の背後を凝視したまま、震えることすらできずに、まるで金縛りにあったかのように微動だにしない。
「死ぬんだ……」
私は覚悟した。もう、逃げられない。どうすることも、できない。後ろにいるアイツの影が、巨大な津波のように私を覆い尽くしていく。私はゆっくりと、その存在を確認しようと振り返ろうとした、まさにその時……。
ヤツの手は、智子を掴んでいた。
私ではなかった。私を覆い尽くす影の腕は、まさかの智子を掴んでいたのだ。
「何で?」
智子の声が、困惑に満ちて絞り出された。彼女もまた、自分が選ばれた理由が理解できずにいる。助けを求めるように虚空に伸ばされたその手は、私に縋ろうとしていた。
「キャーーーァ!」
私が智子の手を掴もうと、わずかに指先が触れた瞬間、智子の姿が、まるで幻だったかのように消え失せた。
あの黒い影が、智子を深淵の山の中へと連れ去ったのだ。山の中から、引き裂かれるような智子の悲鳴が、こだまのように響いてくる。
「ヤダー、止めて、離して、離して、エリカーーァ!」
私の全身は、怒りと絶望で震え上がった。
「ふざけんな!智子を返せ、返せよ。智子は関係ないだろ!私ならここにいるじゃねぇか!やめろ!やめろ!やめろ!」
私の叫びは、無情にも夜の山中に吸い込まれていく。影は姿を現さず、ただ、智子の悲鳴だけが、私の心を蝕むように響き続ける。
「止めて、止めて、お願い!助けて、何でもするから助けて、お願い食べないで……」
そして、智子の悲鳴が、ぷつりと途切れた……。
「智子……」
私の膝は、その場で力尽き、無機質な地面に崩れ落ちた。呆然と、焦点の合わない目で地面を見つめる。
「智子関係ないじゃん……、関係ないでしょ。肝試しやろうって言ったの、私だよ。なんで智子が……」
茫然自失の私の目の前に、あの漆黒の影が、ふいにその姿を現した。奴の手に握られていたのは、智子の首だった。恐怖にひきつった、智子の生気のない顔が、私を凝視している。
「もう殺してよ。私を殺してよ」
私は、その黒い影に懇願するように頼んだ。もう、耐えられなかった。いっそ楽になりたい。関係のない人間を巻き込んでしまったという罪悪感が、私の心を粉々に打ち砕こうとしていた。
私は慈悲を乞うように、その忌まわしい影に手を伸ばした。
「エリカさん!もう見つけるの大変だったんだから。すぐに連絡してってお願いしたじゃん。」
突如、私の頬を叩き、耳元で告げられた声に、私の意識は引き戻された。
そこには、少し怒ったような顔で私を叱りつけ、しかしその奥に優しい眼差しを宿した、桃花の顔があった。
「……桃花。」
その名を口にした瞬間、時間が止まったような感覚がした。
音もなく、まるで夢の中の幻影のように――彼は、そこにいた。
驚きと共に、胸の奥底から込み上げてくるのは、言葉にできないほどの複雑な感情。
私は、もう、生きていたくなかった。
将来の夢なんて、とうに消え失せていた。くだらない人生。逃げるように死を選ぼうとしていた。
友人たちを巻き込み、死へと誘ったのは私自身。その手で関係のなかった人たちまで傷つけてしまった。
その罪から、ただ逃げたかった。
けれど、現実は、私を見逃してはくれない。
目の前に現れた桃花は、そんな私の逃げ場を、容赦なく塞いだ。
彼なら、きっと助けてくれるだろう。そう分かってしまう自分が、何よりも醜かった。
生きることを諦めたはずだった。
けれど今、この瞬間だけは、目の前の『希望』にすがりつきたくなる。
なんて都合がいいのだろう。
人間とは、浅ましいほどに、都合よくできている。
「桃花……助けて……お願い……智子の敵を、討って……お願い……」
込み上げる涙は止まらなかった。
そのまま、彼の胸元に縋るように、私は願いを押し付けた。
自分ではどうすることもできない願いを、彼に託してしまった。
桃花は、戸惑ったような表情を浮かべたまま、そっと私を見下ろした。
「エ、エリカさん……泣かないで。そんなに怒ってないよ。でも……うん。どのみち、『アレ』を何とかしないといけないよね。」
そう言って彼は、静かに刀を持ち、鋭い視線を“アレ”のいる方へと向けた。
その背中に、私は微かな希望と、消えそうな罪悪感を重ねた。




