一話目 心霊スポット
胸が苦しいほどに呼吸が乱れる。体は木に預けているのに、その荒い息遣いは収まる気配がない。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
ここは一体どこなのだろう。美弥は無事だろうか。そして、あの化け物からは逃げ切れたのだろうか。
体中の痛みが、夜の闇と同じくらいに重くのしかかる。山の中をただひたすらに逃げ惑い、木の根につまずいては転び、それでも這いずりながら、あの“何か”から逃げてきたのだ。
木の葉の隙間から差し込む月明かりだけが頼りだった。その淡い光の下で、私は自分の現状を確認する。服は泥まみれになり、手足の至る所は擦りむけ、そこから血がにじんでいる箇所もある。
痛みで震える手でポケットを探ってみた。頼りになるはずのスマートフォンがない。絶望が、心の奥底から這い上がってくる。誰にも連絡できない。助けを呼ぶこともできない。
時間はどれくらい経ったのだろう。肝試しを始めたのは、たしか夜の11時過ぎだったはずだ。あと何時間耐えれば、この暗闇に終わりが来るのだろうか。
「ふぅ」
私は一度大きく息を吐き、冷静さを取り戻そうと努めた。この山は、それほど高いはずがない。下へ向かえば、きっとどこかの道路に出るはずだ。道路にさえ出られれば、民家のある場所まではそう遠くないだろう。
私は再び気力を奮い立たせ、山の麓へと降りていくことを決意した。
「何でこんな目に合わなきゃいけないの!」
私は自分自身が提案した軽はずみな計画を自虐のように呟きながら、道無き道を体を引きずるように山の麓へと向かっていた。
友人たちに肝試しを提案したのは私だった。
私たちがいつもたむろしている公園のさらに上、鬱蒼と茂る木々の中にその廃神社はあった。由来は誰も知らないが、地元ではちょっとした心霊スポットとして有名だった。
神社の裏手にある古い蓋がされた井戸からは、夜な夜な人の声が聞こえるとか、蓋を叩く音がするとか、女の幽霊を見たとか、そんなありふれた噂がまことしやかに囁かれている場所だ。
小学校の頃、同級生が「鬼を祀ってるんだぜ」なんて言っていたが、当時の私は「今時、鬼なんてねえ……」と鼻で笑っていたのを覚えている。
そんな場所へ肝試しに行こうと誘ったのは、本当にただの暇つぶしだった。
高校に進学したものの、毎日の生活はひどく退屈で、何もかもがどうでもよかった。本当なら学校なんて行きたくもなかったけれど、親から「高校だけは出ておいてくれ」と頼まれ、しぶしぶ、市内で下から数えた方が早いような高校に進学することになったのだ
高校に進学してすぐ、私は友達ができた。と言っても、それは世間が眉をひそめるような、学年でも指折りの鼻つまみ者たち。
いわゆる「不良」と呼ばれる仲間だった。中学の頃から素行の悪さでは定評のあった私には、まさにうってつけの連中だった。
けれど、そんな仲間たちとの日々も、私にとってはただの良い暇つぶしに過ぎなかった。
毎日、誰も近寄らない寂れた公園の片隅に集まっては、意味のない話に花を咲かせ、隠れて酒を煽り、大人の真似をしながらた煙草の煙を吐き出す。そんなどうしようもない日常を繰り返すうち、それすらも退屈に感じてきた私は、もっと強烈な刺激を求めるように、皆に言い放ったのだ。
「肝試しでもしてみようか」と。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ……フゥッ!」
鬱蒼とした森をようやく抜け出し、わずかに開けた場所に出た私は、その場にへたり込むようにして荒い息を整えた。
すぐそこには、安心できる町の灯りが見える。ここまで逃げれば、もう「アレ」が追いかけてくることはないだろう。胸いっぱいに空気を吸い込みながら、私はあの日のことをさらに深く思い出していた。
それは、本当に何気ない一言だった。
「ねぇ、たまには夜の公園でさ、肝試しとかしない?」
夕暮れのファミレス。パフェをつつきながら私が提案すると、みんなは目を輝かせた。
「良いね!面白そうじゃん!」
「俺も賛成!」
興奮した声が飛び交う中で、ただ一人、美弥だけが顔をしかめていた。
「えー、私はパス。そういうの、苦手だし……」
美弥は幽霊とか、お化けとか、そういう心霊的なものがとにかくダメな子だった。想像するだけで震え上がってしまう。今回も、見るからに嫌そうな顔をしている。
でも、みんなの熱気は止められない。
「なんだよ、美弥、ビビってんの?」
「大丈夫だって!もし幽霊とか出てきても、俺たちがぶっ飛ばしてやるから!」
「そうそう!みんなで一緒なら怖くないって!」
口々に言われ、美弥は渋々といった様子で頷いた。
「……わかった。でも、絶対、変なことしないでよ」
その日の夜、私たちは懐中電灯を手に、いつもの公園で待ち合わせた。最初は他愛ないお喋りで盛り上がっていたけれど、時計の針が11時を過ぎた頃、和也が不意に口を開いた。
「そろそろ時間もいい頃合いだし、ぼちぼち行くか」
彼の視線は、公園の奥、鬱蒼とした木々に覆われた神社の方向を向いている。その声に呼応するように、伸治も「そうしようぜ!」と、どこか興奮した様子で息巻いた。
先頭は和也と伸治。私は怖がる美弥に腕を強く掴まれながら真ん中を歩き、殿は徹が務める。彼はしきりに後ろを気にしながら、私たちの背後を警戒していた。
この日の山は、異様なほど静まり返っていた。
普段なら聞こえてくるはずの動物の鳴き声も、虫の羽音一つもしない。まるで、あらゆる音を吸い込んでしまったかのように、不気味な静寂が森全体を支配している。
そんな中、私たちの後ろを歩く徹が、わざとらしく声を上げた。
「おい、今日、なんか静かじゃね?もしかして、今夜出るかもな」
「やめてよ徹!変なこと言わないで!」
美弥の怯えた声が響き、私の腕を掴む彼女の手に、さらに力がこもるのが分かった。男たちはそんな美弥を見て笑っていたけれど、その笑い声も、どこか引きつっているように聞こえる。
そして、私たちはついに、神社の参道へと降り立った。
夜の神社は、さすがに雰囲気があった。
薄暗い鳥居の先に続く石段は、闇に溶け込むように見え、両脇の木々は巨大な影となって私たちに迫る。幽霊なんて信じていない私ですら、背筋にぞくりと冷たい悪寒が走った。
先ほどまで余裕の表情を浮かべていたはずの男たちも、この神社の空気に飲まれたのか、急に口数が減り、誰もが周囲を窺うように視線を彷徨わせている。
沈黙を破ったのは、和也だった。
「ち、ちょっと……雰囲気あるよな、ここ」
彼の声は、わずかに上擦っていた。その言葉に、男たちは「お、おう……」と、心なしか引きつった声で応じる。彼らが少し臆病になっているのが、私には分かった。
「何、ビビってるの、あんたたち。雰囲気あって良いじゃない。早く見て回ろうよ」
私も内心では少々怖気づいていたけれど、言い出しっぺの私が弱音を吐くわけにはいかない。何より、この男たちに弱い部分を見せたくなかった。これでも精一杯の虚勢を張っていたのだ。
「エリカ、怖くないのかよ。すげーな!」
「当たり前でしょ!あんたたち男でしょ、早く前歩いてよ」
私の言葉に促されるように、和也を先頭に神社の周囲を回り始めた。美弥ときたら、ずっと目を閉じたままで「ねぇ!大丈夫?早く帰ろうよ」と、必死に私の腕にしがみついている。
「怖がりの人の隣にいると冷静になれる」とはよく言ったものだ。最初は神社の不気味な雰囲気に飲まれ、私も少し怖かった。けれど、これほどまでに怯える美弥の隣にいると、いつの間にかそんな気持ちも薄れていったのだ。
しばらく神社を散策していると、男連中もこの場の雰囲気に慣れてきたのか、軽口を叩き始めた。
「伸治、ビビってんじゃねーよ」
「何言ってんだよ、徹だってさっきまで震えてたじゃんか」そんな声が飛び交い、彼らの顔には余裕が見え始めていた。
その時、和也が懐中電灯の光を一点に集中させ、声を上げた。
「あれじゃねぇか? 噂の井戸ってやつ」
その光の先にあったのは、まさにこの神社の曰くつきの井戸だった。闇の中で、その口はまるで底なしの深淵のように見え、ひっそりと、しかし確かな存在感を放っていた。




