5話 冷たい2人の手
湖が広がる公園の近くに名所となる神社が鎮座する。そんな和風感漂うこの場所は市内でも観光スポットとして有名だ。
バイトを休んだあたしは、昨日凛奈に言われた待ち合わせ場所に15分前には到着していた。
ここで推しと待ち合わせするなんて今でも信じきれていない。人生諦めなければこんなこともあるのだなとしみじみ思う。
「世奈ちゃん」
「凛奈…!」
落ち着いている大好きな声であたしの名前を呼んでもらえれば花が咲いたように笑顔になってしまう。
凛奈は藍色のワンピースに薄いカーディガンを羽織った服装をしていた。それでもやはりマスク姿は変わらない。
「早いわね。待ったかしら?」
「今来たところです!」
「なら良かった」
待ち合わせ定番の会話を推しと出来るなんて感激だ。
時折吹く夏風があたしと凛奈の髪を揺らす。日が強いのは昨日と変わりないけど、湖の景色もあってか涼しく感じた。
「バスで来たんですか?」
「ええ。何気に市営バスには初めて乗ったわ。ちょうど市内のビジネスホテル近くにバス停があったから」
「何事もなく来れて良かったです。東京と違ってここはバスの本数も少ないので」
「それくらい乗る人が居ないってことでしょう?今の私には有り難いわ」
「やっぱり、スターライン卒業しても話しかけられることは多いんですか?」
「今のところはまだよ。自分からファンに話しかける経験はあったけど」
からかうような目で凛奈に見られて肩が揺れる。昨日の本屋でのことか。
他のオタク達が経験してないことをあたしだけがやってしまっている優越感が凄まじい。
勝手に感情に浸っていると、凛奈はゆっくりと歩き始める。釣られるようにあたしも凛奈の後ろにくっ付いた。
「昨日買った旅行雑誌には有料で綺麗な庭園が見れるって書いてあったわ」
「はい。あたしは入ったことないですけど」
「地元民の人は入らないの?」
「どうでしょう…?単純にあたしがこういう所には来ないってだけかもしれません」
「そう。なら今日は記念日ね。推しと一緒に庭園見れるなんて誰でも出来ることじゃないわ」
「一緒に見ても良いんですか?」
「ここに来させておいて1人で見るなんてしないわよ。行きましょう。道なり歩けば着くらしいし」
スタスタと凛奈は庭園に向かって歩いていく。すると、どんどんあたしと凛奈の距離が遠ざかった。
今思い出したけど、スターラインのインタビューに凛奈は歩くのが速いという情報があった。
足が長いからだろうか?本人は速くしているつもりはないとインタビューでは話していたが、やっぱり速い。
でもこういう場面であたしは声をかけられない性格だ。黙って着いて行くしかなかった。
「あっ」
「どうしました?」
「ごめんなさい。昨日運動公園に行く時も貴方の歩幅に合わせてなかったわ。……はい」
「えっ?」
あたしの心の声が聞こえたのか凛奈は振り返ると手を差し出してくれる。まさか、まさかで良いの?
「ん。これなら大丈夫ね」
恐る恐る手を近づければ凛奈は優しく握ってくれる。お金を払ってないのに今日も手に触れてしまった。
昨日と同じで凛奈の手は冷たい。特に指先が冬場に居る時のようだ。それに比べたらあたしの体温はどうなのだろう?
きっと推しに触れられているという緊張と嬉しさで熱くなっているはずだ。握手会では毎回手汗が滲み出るから心配だった。
「あの」
「何かしら?」
「て、手汗凄かったらごめんなさい。握手会の時も結構凄いんです。嫌だったら離してもらっても結構なので…」
「別に手汗なんて感じないわよ。若干しっとりしているくらいね」
「それが手汗かと」
「そう?でも」
凛奈は握っているあたしの手を軽く上げて、確かめるように数回力を込める。手の皮膚が密着する度にあたしの心臓は高く跳ねた。
「この手の冷たさは私と同じ」
また木々の隙間から夏風がやって来る。
凛奈はそれだけ言うと、あたしの手を引っ張って湖付近の道を歩く。意味を理解出来なかったあたしは何も言わずに黙って凛奈の横に並んだ。
横目で湖を見ると澄んでいるとは言い難い色をしている。それはまるで誰かの心を表したかのように濁っていた。